第2話 博愛聖女は祈り続ける

「エマちゃん、こっちこっち!!」

「ええ、今行きます!」


 エマは街を駆け抜ける。

 足にまとわりつく修道着を持ち上げてエマは懸命に走った。


 街の大人たち曰く、橋の上で遊んでいたこどもたちが手すりを超えて川に落ちたらしい。山に囲まれた王国であるサントレアは、下流であってもその川の勢いはあまり衰えない。あっという間に流されていったこどもたちを何とか救おうと大人たちが大騒ぎする橋の上にエマは息を切らして駆けつけた。

 後ろからほかの修道士たちもかけてくるだろう。皆で魔法を使えば助かるかと状況を把握するため橋の下を見て、エマは顔を青くした。


 子どもたちは流されただけではなく、けがをしていた。

 澄んだ川の水に赤いものが混じるのを見て、事態が一刻を争うものだとエマは察する。他の修道士を待つ暇など全くなかった。

 エマは自分の服が汚れるのもいとわずその場に跪くと、手短にこう祈る。


「――われらを見守ります女神様、貴女の愛するサントレアの民を、こどもたちを、貴女の大いなる愛でお救い下さい――」


 心を込めた祈りののち目を開くと、彼女は意を決して橋の下の川へと身を投げた。

 それはあっという間の出来事。まわりの大人が止める間もなく、高い橋から下へと落ちていく彼女に、周囲から悲鳴が上がる。


 しかし、勢いよく落ちていった彼女は周囲の予想に反して見事に着水すると、こどもたちを手繰り寄せる。そして懸命に川岸まで連れていくと、その場で治癒魔法をかけ始めた。


「……びっっくりしたあ……」

「サーヤちゃんの陰に隠れていたけれど……サーヤちゃんについていけるくらいにはお転婆なのね、エマちゃんも……」


 感心する街の人たちの見つめるさき、エマの体が淡くクリーム色の光に包まれる。

 陽だまりのようなその光に人々が安心するのと同時に、彼女に介抱されたこどもたちの頬に血の気が戻った。


「エマちゃん! ありがとう! 本当にありがとう!」

「ああ、聖女様だわ。エマちゃんが、この街の聖女様なのよ」


 感極まったような街の人の声に、エマは控えめに苦笑する。


「やめてよ、聖女様だなんて。ちょっとうまくいっただけ」

「命の恩人よ! さあ上がってきて、お礼をさせてちょうだい」

「ああ、女神様、彼女に祝福を」


 橋の上に救い上げられ、人々に感謝されるエマ。

 ずぶぬれになった修道着のかわりに街の人の服を貸され、感謝の証にと沢山の食料を持たされると、エマは引き留める街の人々をやんわりと振り切って、お礼のうちから少しの果物だけ受け取るとその場をそそくさと去った。

 そして街の路地裏に入ると、やっと一息ついた。


(……私もケガするかと思ったけれど……どうにか無傷で済んでよかった)


 きっと女神様の加護だとエマは一人心の中で女神に感謝の祈りをささげる。

 いつも教会に通ってくれるこどもたちのことを救いたい一心だったが、己の命と引き換えにしようとは思っていなかった。こどもたちが救われることが第一ではあったが、己の命を粗末にしたいわけではなかったのだ。


(いつかあの人に出会えるまで、私は生きていなきゃだものね)


 エマは明るく顔を上げるといつものように胸元の指輪を握った。

 ……つもりだった。

 指にいつものお守り――指輪を通したネックレスの感触がない。

 慌てて胸元を見下ろせば、首元に指輪がないことに気が付く。


 エマは慌てて服のあちこちを探った。

 しかし、服のどこからも14年片時も離さなかったあの指輪は出てこない。

 エマはくるりと踵を返すと、橋の上へとかけていった。


「お、落とすとしたら、ここよね……」


 さきほど飛び込んだ川を改めて橋の上から覗き込むと。

 さっきはよく躊躇なく飛び込めたものだと思うほどに橋は高く、眼下の川は流れが激しかった。

 ……もし、ここに指輪を落としていたら、もう二度と見つからないだろう。


 エマは真っ白になって、その場にたたずむ。

 一応、橋のたもとにおりてみようかしら。でも、たもとよりは川の中の方が落としている確率が高そうだし……

 そう思案するうちに、さきほどの騒ぎを受けて橋の手すりを検査しに来た、街の警護を担当する第二騎士団たちが橋の上を立ち入り禁止にしてしまう。

 橋の下も同様で、これでは日が暮れてしまう。

 探すとしたら明日以降になってしまいそうだ。


 エマは呆然として、その場をとぼとぼとさる。

 あの指輪は唯一、“あの人”と自分をつなぐ思い出の品だった。


 さっき荷物を置いてきた路地裏に戻ると、エマはその場にうずくまった。


(……大丈夫、指輪がなくたって。私が恩返ししたい気持ちは変わらない)


 物以上に、あの日――“あの人”に貰った気持ちがエマのよりどころなのだから。

 こんなことでくよくよしない、とエマは自分を鼓舞する。


 でも――もう一度、あの人に会える保証などないに等しいことは、16歳にもなればエマも分かっていた。だからこそ、あの指輪を通して、あの人に――あのときのお兄さんに恩返しのつもりで、毎晩毎晩「彼が健やかでありますように」「彼が今日もよく眠れますように」と祈りをかけていたのだ。


 小さなころ、教会の片隅でいつも泣いていたエマにやさしい言葉をかけてくれたあのお兄さん。きらきら輝く指輪をくれて、エマに最初にお祈りをかけてくれた。あの人に、どうにかして恩返しがしたかったから。


 あなたのおかげでした。あなたのおかげで私はこの14年、うつむくことなく過ごせていました。それなのに。


 彼と自分をつなぐものがなくなっても、彼に祈りは届くだろうか。

 どこの誰かも知らないあの人に。自分の祈りは届くだろうか。


 不安にうずくまりながらエマが必死に祈っていると、ふと目の前に影が落ちる。


「……そこで何をしている」


 冷たい声に顔を上げる。と、――心臓が止まるかと思った。

 黒い制服を身にまとった背の高い男がこちらを冷たい目で見降ろしている。

 怖いくらいに顔の整った男の鋭く冷たい瞳がエマを射抜いていた。


「い、いえ、ちょっと気分が悪くて……」

「では、こんな路地裏ではなく、家に帰れ」

「は、はい……」


 慌てて立ち上がり荷物を拾い集めるエマに手を貸すでもなく、騎士と思しき制服の男はじろじろと不躾にエマを眺めた。


「あの、何か……」

「ここで起きる詐欺事件に関与していると疑っている」


 おずおずと聞いたエマに、再びびっくりするほど温度のない声で騎士はそう告げた。


「え……あの、詐欺? ですか……?」

「ああ」

「一体、何の……」


 その身にまとう制服の格式高さに反して、エマより少し年上くらいに見える若い男だ。黒い髪に黒い瞳、人の美醜に特に関心がないエマでも「綺麗な人だ」と思うほどの容姿なのに……いや、だからこそ凍えるほど冷たいと感じる瞳でエマをにらんでいた。


「ここで他人の同情を誘い、祈りの魔法をかけさせ、お礼と称して人をかどわかす詐欺だ」

「え」

「体調が悪いというのも嘘ではないか?」

「そ、そんな! 誤解です!」


 エマは慌てて身の潔白を証明しようと口を開く。


「確かに少し気分が悪くてここにいましたが、ほんの、ついさっきのことです」

「……」

「さっきまで、橋の上でこどもたちを助けていて……その、ずぶぬれになってしまったので、ちょっと寒くて!」


 嘘ではない。指輪を失くしたショックにだいぶ気をとられていたが……実際、服は貸してもらったものの、人々に過剰に感謝される前にと飛び出してきたから髪は濡れていて、身体は冷えていた。


 そう言うと目の前の黒い騎士は再びじろじろとエマを見やる。

 全く信じていなさそうなその目に、途方に暮れる。


(こうなったら仕方がない)


 さっきの一部始終を知っている街の人に話を証明してもらおう。

 そう思い「証明します、ついてきてください」と騎士に声をかけるのだった。

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