ニルブレの夜明け

ヤン・デ・レェ

第1話 死

仮想敵国が本当に敵国になってしまった。何故?だとか、そういうことは全て後の祭りだ。仮初の平和はあっけなく崩れ去り、殺戮の嵐が吹き荒れた。


情け容赦のない戦争と言う現実が、『もっちぃ』の暮らしていたアジアの片隅にも訪れたのは、世界の均衡が崩れ始めてから十年と経たない頃だった。


漠然とした理想を抱えて、不景気の閉塞感に倦みながら、何となく暮らしていた日常が、その実は得難い平和だったことに失って初めて気が付いた。


早朝の鳥の囀りはもう聞こえない。全ての音は戦場に取って代わられた。悲鳴と轟音が木霊して、機関銃やミサイルを撃ち込まれる恐怖で夜も眠れない。まるで異世界に来てしまったようだ。


敵軍が上陸してきて早くも一週間が経過していた。もう、このままでは自分に召集令状が届くのも時間の問題かもしれない…とは、『もっちぃ』に限らずこの国の殆どの男性が思うことだった。


疎開に疎開を重ねて、二度とすまいと誓った戦火の憂き目を見て尚も、声高に理想を叫ぶ人もいれば、現実逃避の為に別の何かに溺れる人もいた。電気水道のインフラが絶たれて、Wi-Fiも当然飛んでいなかった。最低限度の文明的な生活すら、保てそうになかった。


『もっちぃ』の暮らしていた田舎ですらこれなのだ、上陸地点や真っ先にミサイルで更地にされた都心など…もとより高度な技術力に支えられてきた社会はあっけなく崩壊し、残されたのは飢えと寒さに怯える無数の市民だけだった。


戦士たちは日夜戦い、その多くは勲章を貰うこともなく死んでいく。墓碑銘にその名を勇気を讃える文面と共に刻まれて。体の帰ってこない人もいるだろう。


人殺しの兵器が空の彼方から飛んでくるだなんて、なんて酷い冗談だろう。だが、現実に起こっていることだとしたら…尚更、笑えなかった。お笑い芸人が最後にライブをしたのは何時だろうか。朝ドラは終盤の一番好い所で臨時速報に切り替わって、それっきりだ。そもそもテレビをしばらく見ていない気がする。頼みの綱のスマートフォンも、今は電池切れで手鏡の代わりにしかならなかった。


朝昼晩だった食事は朝晩になり、今は昼だけになった。色々なものが足りないが、足りないものを上げて行けばキリがないのでやめにする。


思えば、茫洋と彼方の空を見つめる機会が増えた気がする。あの空の向こうで、人が殺し合っているんだろうか。日の出の様に真っ赤に染まる地平線は、町が燃えているのを教えてくれているのだろうか。もしもそうだったら余計なお世話だ。


地獄の沙汰も金次第と言うが、戦場でお金ほど当てに出来ないものもないだろう。使うなら戦争が始まる前に、亡命するなり移住するなりするのに使うべきだった。今はもう、ティッシュペーパーの代わりにもなりはしないのだ。


そして、その日がやってきた。よく晴れた快晴の空の下、疎開の為に家族と一緒に車に乗って、彼方此方に砲弾痕が見える高速道路に乗った。疎開目的の車列が延々と続いていた。異様な光景はずっと向こうまで続いていて、果てしなかった。


『もっちぃ』は五人乗りの普通車の助手席に乗っていた。父が運転していて、母と弟は後部座席だった。祖父母は一足先に疎開していたからここにはいなかった。


車列がとろとろと前へと進んでいった。ようやくだ、と思った矢先に何処からかミサイルが飛んできて、高速道路を支える柱に直撃した。高架の様になっているど真ん中で、立ち往生だ。焦って、恐怖に耐え切れず人々は次々に車を捨てて後ろへ、或いは前へと走った。


『もっちぃ』一家も、車を捨てて逃げた。また着弾。高速道路がギシギシ揺れた。父が弟を担いで走った。『もっちぃ』は母の手を取って走った。もうすぐで被弾の恐れは無くなるはずだ、そう思い走った。後ろを振り返ることなく。


そして、時に乗り捨てられた車をよけながら、時に車に乗り上げて飛び越えながら走った。その先で、母と父と弟を最後尾から見守っていた『もっちぃ』の真後ろに、再び何かが着弾した。


針金を張り詰めたような、金属の鋭い音が耳の奥で響いた。キンキン痛む。視界が二転三転。体が宙に浮いて、それから地面に打ち付けられたのだ。重たい轟音と、引火した車が燃え盛る爆音が遠くに聞こえた。鼓膜が傷ついてしまったようだ。


当然、家族の声など聴こえなかった。視界の端に迫るのは轟轟と燃え盛る車体だ。トラックや、軽自動車や、高級自動車や…どれもこれも鉄くずだった。荷物ごと乗り捨てられていた。頭の下がぬるかった。出血しているみたいだ。意識が遠のいていくのを感じた。痛みも、そこかしこにあったが、それもそう時間がかからない内に消えてしまうだろう。


何か特別の悪いことをした覚えはなかった。品行方正な方だったし、叱られることよりも褒められることの方が多い人生だった。挫折を経験して、時には理想に燃えたり、逆に消沈してニヒリズムに擦り寄ったり…若者らしい若者だったのかもしれない。


次第に音に様々なものが混ざるようになっていった。ミサイルが止んで、今度は砲撃が始まったみたいだ。機関銃のバリバリと言う音も聞こえてきた。平和な時だったら、ミリオタが喜びそうな環境だ。でも、ここには英雄なんて存在しない。立派な将軍も留守にしている。男同士の友情だって、何処を見たって綺麗ごとで終わりそうになかった。


『もっちぃ』は指一つ動かせなかった。一つ、ごほっと血を吐いた。血なんて吐いた経験がなかった。息が苦しい。


目と首だけが動かせて、彼方此方を見た。誰かの枕か、ぬいぐるみか…灼熱に煽られて羽毛が飛び散っていた。ふわふわと飛んで、炎に捕まって灰になるまで焼き尽くされた。けれど、次から次に羽毛が舞っていた。まるで羽毛が天へと昇っていくような気がした。いつかはどこかの土に汚れることもあるのかもしれないが、少なくとも『もっちぃ』がその瞬間を見届けることは叶わないだろう。空は変わらず青い。


遠のいていく意識の外で、砲弾があちこちに着弾しては、人々の悲鳴を煽った。コンクリートブロックがはじけ飛び、怪我をする人が続出した。全てを灰燼に造り変えていくのだろう。なんて無責任な奴らだろう。誰が、一体誰が荒廃した世界を造り直すと思っていることやら。お金も時間もかかる。そして、壊れた物は直せても、壊れた心と失われた人間を治すことは出来ない。直せるものを全て直すのだって大変なのに、少なくとも、このはた迷惑な侵略者の手によってではないのだろう。本当に、度し難い。


家族は逃げたのを見届けたから心配ない。巻き込まれたのは『もっちぃ』だけだった。不幸中の幸いだろうか。


一番の心配事が、もう意識の外に来るとなると、彼の未練は折角買って積んでおいたゲームを遊べなかったことだろう。実家通いの大学生だった『もっちぃ』は、孤独は嫌うが人混みが苦手などこにでもいる、所謂陰キャだった。マルチプレイヤーにもPVPにも燃えないタイプだったから、一人でこそこそシングルプレイに励むのが日々の楽しみだった。『Empire of 100 Days』、邦題だと『百日帝国』というオフライン専用のシミュレーションゲームだ。戦争が始まる直前に買ってしまった所為で、少しも遊べないまま、ソフトも家に置いてきてしまった。もうどんなゲームなのか妄想することも叶わない。温めに温めて買うんじゃなかった…


と、思ったところで『もっちぃ』の意識は途切れた。今際の吐息がふっと抜かれて、体が少し震えたかと思えば、もう二度と動かなかった。


これが極東のとある島国で生まれ育ったとある男の最期だった。

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