Distorted【お試し版】

タチ・ストローベリ

#1

 その恐竜博士はのち にやって来る砂嵐を出し抜けた。彼女を待っていた飛行機乗りは自分の勘の不甲斐なさに毒づきながらも複葉機に戻って来る彼女の「砂漠を見る目」に、素直に感心した。二〇二一年、モンゴル、キャンプ・ラプトル。こんなにも寂しい場所だったかと着陸の時から考えていた。一番近くの水場は何キロメートルも彼方で、いるのは過去の覇者だけ。半分は滅んだ世界で、半分はこちらの世界で、現役の知的生命の熱意をカンテラにして漂流していた。半年前ここに生息していたトレーラーハウス、発電設備、給水車なんかの錆びた甲虫類は冬の寒さで動けなくなる前に退散し、今では死んで硬くなったハイエナの様な大地が、その砂岩の肌の色が、つまらなそうに飛行機乗りの瞳を撫でていた。

 じきに集まりだすさ。またにぎやかになる。夏が来るのだから。

 男は砂塵さじんの巻き起こす気まぐれに乗って生きてきた。大気が澄んで張り詰めれば世界で初めて空を飛んだ世代であるかの如くにヴェテランを演じたし、ぐずって泣き出す兆候を見たら、気の置けない相談相手の、翻った陽気さでもって幾日いくにち でも休暇を過ごした。そのどちらも楽しんだ。砂地をゆく者は新しくやって来た。ある者は進み、ある者は帰る。ある者は目覚め、ある者は眠る。そのどちらにもることはしない、事象の成り行きが一糸纏わぬ場所、彼が生まれたのはそんな土地だった。

 そうだ、こんな日に仕事を引き受けるのも案外、悪いものではないのだ。男はそう思い、遠い昔に自身を去ったはずの信仰心に促され無意識に聖地の方角へ目をやった。熟れた輝血ほおずき色の太陽は座礁した鯨の様なきゅうを冷まし始め、やがて見渡す限りの荒涼の世界を濃紺色の蚊帳が包むだろう。生き別れた愛らしい妹の様なオアシスも、十字架を背負った痩躯そうくの救世主に引き合わせてくれそうなヒビ割れたアスファルトの蛇も、乗り捨てられ何時しか流浪の民となった駱駝らくだも、その支配者は真っ暗な空から降り注ぐ何億もの冷たい光に替わる。

 男はクーラーボックスから炭酸飲料を取り出し博士へ手渡して言った

「あんた随分見込みがあるよ、それに運もいい。済んだのか?」

「ええ」博士は化石博物館で見るはずの生き物が、ここでは未だ絶滅していない理由を知りたがっているかの様に複葉機を観察しながら応えた。

「ごめんなさいね、無理を言って」

 男は首を振った。

「もっと早くに嵐が来ると思ってたが、こんな日もあるもんなんだな。運がいいよ。あんたも、俺も」

 こうして二人は砂から上がった。そして沈み行く太陽を背にして徐々に下がってゆく気温の中へと飛び立った。真下に広がる地球の禿頭とくとう部は古代の英雄の様な機体のスピードによって、やがて薄暗い、ぼやけた水墨画となる。月はさくで、それによりむしろ一層、この世の面白さの輪郭は際立ち、予言めいて渦巻く死に対する知覚は研ぎ澄まされる。

 コクピットの男が口を開いた

「あんた名前はなんていったっけ?」

「ルーナ。ルーナ・ハロウェイよ」

「日本生まれか?」

「いいえ、合衆国よ。どうして?」

「日本人の彫刻家だっていう男が、あんたを訪ねて来たことがあったろ。俺があそこまで乗せたんだ。見てたら、あんた随分と流暢りゅうちょうな日本語を話すもんだから」

 彼は名を楢木伴大ならきともひろといい、結婚を約束した恋人で、今では友人のひとりだった。ルーナは彼の隣に立つ、彼女より少しだけ若い古生物学者を想像した。

「ここの前はしばらく日本で研究していたの。よく気付いたわね、誰か知り合いでもいるの?」

「ああ。去年のイスタンブル五輪、俺は候補に挙がった時点で東京だと踏んで宿の予約を入れたんだ。まぁ、お陰であちこち見て廻れたから良かったよ。友人もできた。次は京都にいこうと思ってる。アマノハシダテだったか? いつか金ができたら海の近くで暮らしてみたいんだ」

「日本は何処も海辺みたいなものよ、後は温泉。私は北海道にいたから毎日海を眺めにいってた。当時は両親が亡くなったばかりで北海道の海は感傷的な思考にぴったりだった。でも時々、青黒い水の中から恐ろしい怪物が立ち上がって全てを連れていってしまうんじゃないかって、そんな風に見えることがあって。その反動でこの国に来たのかもしれない」ルーナは後ろを振り返りながら言った。

 その目には無情の風にまたがる、この星の小さな小さな死骸しがい達の、灰色の集会が映っていた。

「あんたらティラノサウルスの先生方も怖いもんがあるのかい?」

勿論もちろん。ゴジラとかね」

 飛行機乗りが笑う。

 さよなら、と彼女の口は動いた。新しい別れと出会いを見い出してくれた太古の賢者達に。そしてもう二度と見付からない、ささやかな思い出の指輪に。

 二人は目的地へ向かって進み続ける。

 遥か後ろ、その牙をむき出しにした荒地あれちの魔女によって、彼らが居たキャンプ・ラプトルはすでに名前を失っていた。

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