#2

その指先から伸びる悪意は新生児の無垢むくないたずらの至高性を、口の中に潜む残忍な交渉術は成年期への焦燥的な憧れの心拍を、あからさまに化物じみた脚に浮かび上がる躍動は、安寧あんねいな社会規範に育まれたプラトニックな反射神経器官への、杜撰ずさんな反逆に伴う快楽を。

 羽毛はシーツと下着を、うろこは汗で彩られた肌を、骨格の空洞は穴を、尾は対となる道具を。

 咆哮ほうこうは待ち侘びた瞬間を。

 王実日子おうみかこのヴァイブレーターは恐竜だった。

 幼少期から十八まで、そして今再び向かっているアンティークの天板には――小学校三年に上がる頃、実日子は学習机を欲しがらず、レストラン「つばくらめ」を閉める事になった祖父に、店で一番素敵なテーブルをねだった。祖父はこれを大変喜んだ――至る所に三畳紀、ジュラ紀、白亜紀の痕跡がみられた。彼女はその部屋で、この机で、あの本棚を使って、二億三〇〇〇万年前から六六〇〇万年前までを過ごしたのだ。透明ビニル層を剥がし微かなへこみを探ると、羅馬字アルファベット竜脚類りゅうきゃくるいは群れを成して生息していたということが分かるだろう。大陸中央部ではコピックの骨板をまとった剣竜類けんりゅうるいが画用紙の層に鋭くて可憐な想像上の姿を留めている。海の向こうの、そびえ立つ絶壁に分厚く茂った書籍に身を潜める獣脚類じゅうきゃくるい達はいつでも実日子の喉笛を狙っていた。彼らに挑むものはあらわれないのかと天辺てっぺんを見れば、王たる風格と恐怖を備えた殺戮色さつりくいろの暴君に公然と歯向かい、絡み合い、互角の勝負を繰り広げる石粉粘土の角竜つのりゅうの勇姿がある。

 いつかの夕暮れ時、巣に帰ってゆく翼竜よくりゅうの影が琥珀こはくに変化した窓ガラスを透して部屋の隅まで広がるのを見た。深夜のまどろみの中、彼女と並んで海を漂うアンモナイトが鉛色の滄竜そうりゅうに噛み潰される音を聞いた。朝、目覚めに差し込む光は鴨嘴竜かものはしりゅうかぶるトロンボーンの雄大ないななきだった。

 実日子は、彼女にとっての孵化とは何を意味するのか考えることもなく卵を温めた。そして見事にそれはかえったのだった。彼女は金沢大学院古生物研究室の博士課程に入っていた。

 彼女がコンピュータの画面とにらめっこしていると、後ろから焼き目の付いた肉の匂いがして、表でバーべキューをやっている連中の誰かが分け前を運んできたのだろうと思った。振り向くと、パダワン時代のオビワン・ケノービに見えなくもない楢木伴大ならきともひろが廃材置き場のタイヤの様な物を持って立っていた。

「腹減っただろ。ビールはいる?」

 実日子は横より縦の長いハンバーガーを見てこれはプロの仕業だと思った。それに素人の仕業でもあるはずだった。バーベキューにこれほどの挽肉を持ち込むなんて。とにかく、初対面の面子めんつが打ち解けあい楽しんでいるという証拠だと彼女は笑って受け取った。アルコールはまだ断った。

「資料に不備がないか、もうちょっと検討したいの」

「ルーナにならそんなに形式張らなくて大丈夫さ、友達に会うと思えばいい。向こうもそれを望んでるさ」

「それはそうかも知れないけど、これは同志として重要なものだから」

 化石爬虫類信者にとって事実それは職務以上の意義があった。つまりは福音書の再編纂さいへんさんだった。今回の発見はここ四半世紀にわたる中生代史観の普遍性カトリックに対するプロテスタンティズム足りえるものだったのだ。無論、彼女達を突き動かすものは獣の姿をした神々への愛だった。

 二◯一◯年代まで恐竜類はその骨盤により二つの枝、竜盤目りゅうばんもく鳥盤目ちょうばんもくに振り分けられて来た。しかし竜盤目のいちカテゴリとされた獣脚類は、その他の形質から鳥盤目系に近縁なはずだといわれ始め、それが新たな分類を定義した。すなわち鳥肢目ちょうしもくである。ここへ来てアカデミーは正式に獣脚類へ「鳥」の称号を与えたのだ。

 教会は贖宥状しょくゆうじょうを発行した。現生鳥類が彼らの私生児だということは最早、保育園で噂されるほど周知の事実であり、ドロマエオサウルもアロサウルスもスピノサウルスも、あまつさえティラノサウルスまでもが、開き直ったかの様に、図鑑の中で、映画の中で、色とりどりのサンバを踊りだす始末だった。二〇世紀に生を受け、スピルバーグ団長のサーカスにより恐怖とい交ぜになった快楽を味わった者は皆、ルターを、カルヴァンを――ヘンリー八世でもこの際構わない――どうかどうかと待ち望む首長竜となって世相の冷たい水に潜った。

 吉報は一人の内通者から実日子元へともたらされた。これが一年前。

 伴大とハロウェイ博士が既知の関係にあると分かったのが二年前。

「できるだけ早く降りてきてくれ、君のお父さんが盛るもんだから貝塚かいづかさんできあがっちゃってて、父親がそんなだから理沙りさちゃん、凄く居心地悪そうにしてるんだよ。それにあの子、君に質問したい事をびっしりノートに書いて持ってきてるんだ」

 彼女の頭の中に、他のエージェントと古生物の情報を取引する幼いころの自分の姿が現れた。あれから十数年、新入りは何時でも何処にでもいるのだ。

「わかった。後、十五分で切り上げる」

「そう? じゃ、理沙ちゃんに伝えておくから」

 伴大は部屋を出ていこうとした。実日子は彼のランニングシャツ越しの背中を見て、その不意打ちなたくましさの予感にしれっと驚かされていると気付いた。そして切り出すなら今じゃないかとふと思いいった

「あのね、トモ君」

「何、どうした?」彼は実日子の目を見ようとした。

 彼女はというと、どうも熱心になりきれない爪の手入れが今さら気になり出したかの様な恰好で、どこか他人事みたいに言った

「あの後でね、その、やっぱり赤ちゃんが――」

 伴大は面食らった。自然、筋肉に無意識の号令がかかりエタノール由来のふざけきった羊達が追い立てられてゆく。

「まさか、今まで、そんな事――」

「本当よ。ほら」

 マウスとキーボードから放たれた音とカーペットを擦るキャスターの転回は予め譜面に記されていたかの如く滑らかで、その隙間のなさが脚本の良く練られた医療ドラマのワンシーンを想起させた。ワーキングチェアの上の女優の所作からは自身への祝福を隠しておこうという意識が、その奸智かんちをからかうかの様にしみ出していて、かえって高揚した雰囲気をあからさまにしていた。彼女は複数のエコー写真を――


……続く……


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