第8話 壊れた日常。
俺たちの夜には何もなかった。
俺は横にいる萩生紅葉の存在に心奪われていて、居てくれるだけで嬉しい気持ちになってしまい、抱き寄せて「嫌でなければこうさせて」と言っていたし、萩生紅葉は俺の胸で深呼吸して、「このまま眠れるのが嬉しい」と言っていた。
そしてゲリラ豪雨の音を聴きながら眠り、朝を迎えた。
雨は朝には止んでいて、萩生紅葉の寝顔を見て目を覚ました時に、こんな幸せな時間があるのかと思ってしまった。
起こさないように気をつけたが、萩生紅葉は朝ごはんの為に目を覚ますと俺と目が合う。
そして嬉しそうに微笑んで、「おはようございます」と言ってくれた。
俺は嬉しさを隠さずに「おはよう」と言うと、萩生紅葉は「甘えていいですか?」と聞いてきて、俺の返事を待たずに俺の胸で深呼吸をすると、「後5分〜」と言ってグリグリと顔を押し付けてきて、本当に5分ほど二度寝をしてから、「朝ごはん作りますね」と言ってくれた。
その日は朝ごはんを食べてから、昼は昨日の残り物を片付けて、夜は2人で買い出しをして料理を楽しんだ。
傍目に見ても夫婦に見えたのではないだろうか?
名残惜しい中「また泊まってください」、「うん。紅葉さんが許してくれれば」と言って帰った俺は、悪夢のような状況に目を疑った。
母が荒れていて、家中散らかっているのに、料理をキチンとして俺を待っていた。
「帰ってこないで何やってるの!?心配したのよ!」
小学生の時ですら聞いたことのない言葉に、俺は夢を見ているのかと思ってしまう。
「昨日はなんで帰ってこなかったの!?」
「ゲリラ豪雨が降ったからだよ。傘を買うのも馬鹿らしいし、友達が泊まって行けって言ってくれたんだ」
「今日も遅いし!」
「今までだって、帰ってこなくてよかったのにとか、夕飯作りたくないからとか、帰ってきても何もないとか言うから気を遣ったんだ」
俺は母の「折角作ったんだから食べなさいよ」の言葉に従い、萩生紅葉の作ってくれた肉じゃがで満たされていた腹に、母の作った筑前煮を押し込んで母の機嫌を取りなすと、リビングだけでも片付けてから眠りにつく事にした。
この日から母はおかしくなった。
今までなら放置してソファに寝そべってテレビを観ているだけだったのに、夕飯を用意して待つ日が生まれてしまった。
そして連絡をしないとメッセージアプリに「何時に帰ってくる気?」と入るようになる。
俺は急な過干渉に辟易としながら、それとなく返事をして済ます。
事の次第を萩生紅葉に話すと「お母様はきっと真さんは死なないって思っていたし、真さんが亡くなって、匠さんまで居なくなると思ったら不安になったんですね」と言って、ある程度好意的に許してくれた。
だが前と違って、完全に手放しで好き勝手出来る状況でもなくなり、不便さに俺は1人でイライラしてしまう。
それでも萩生紅葉との時間はなるべく残すように努力したし、土日が妨げられるならと残業した事にして、平日は萩生紅葉の所に顔を出していた。
だが俺には踏ん切りが付かなかった。
俺にはこの母がついてくる。
母を見て萩生紅葉が俺を嫌うことが怖かったし、これは勘違いで、俺が何かを言ったらこの関係が終わってしまうのではないかと思っていた。
母がおかしくなって1か月が過ぎた。
俺が萩生紅葉の所に顔を出すと、萩生紅葉は「来てくれるのは嬉しいけど、必死な顔になってます」と心配してくれた。
「俺のほうこそごめん」
「謝らないでください」
別れ話に聞こえてしまう会話に、俺は堪らず不安になって萩生紅葉を抱きしめると、萩生紅葉は俺の胸で深呼吸して、「匠さんはどうしたいんですか?」と聞いてきた。
「ずっとこうしていたい」
「ずっと?」
「紅葉さんといたい。前みたいに一日中過ごしたい」
「はい。私もです」
「でもあの母が邪魔なんだ」
「邪魔なんて言ってはダメですよ?」
「でも居なければ一緒に居られるのに」と漏らす俺に、萩生紅葉は「少し話を変えましょう」と言うと、職場がそこそこ近い萩生紅葉は、俺と買い物をする姿を職場の人に見られていたらしく、職場で少しだけ話題になったと言う。
「私は営業補佐の事務ですから、日中は電話がなければ世間話くらいできるんです。皆さん私と匠さんを見てお似合いだと言ってくれました」
その言葉は聞いていて嬉しい気持ちになる。
だが萩生紅葉は「その時、小菅さんから「あらら。山田くんは不戦敗かぁ」と言われました。山田さんは同期の男の子です」と言った。
詳しく聞くまでもない。
山田という男は、同期なのもあって萩生紅葉と仲良くなりたいと思ったのだろう。
俺は無言で萩生紅葉を抱きしめる手に力が籠る。
力を入れてしまうと「ふふ」と笑う萩生紅葉。
俺が困惑する中、「今度の金曜日に、新人だけの飲み会があります。誘われていて返答していません」と言うので、俺は慌てて顔を見る。
「もしこの距離感が匠さんを困らせるのなら、少しだけ私も外との付き合いを持った方がいいかもしれません」
そう。
その言葉は俺がずっと萩生紅葉に対して思っていた事。
俺なんかといたらあの母が着いてくる。
あの母がいたら萩生紅葉は俺を嫌う。
だからこそ俺は離れるべきだと、今の関係を終わらせるべきだと思っていた。
だがいざその話になると、俺は冷静ではいられなかった。
何を言ったらいいのかわからない俺が、何かを言わなければと慌てた時、俺のスマホには母からのメッセージが入り音が鳴る。
「時間ですね」と言って、俺の胸から名残惜しそうに離れる萩生紅葉。
俺は離したくなくて手に力を入れたが、萩生紅葉は「次は土曜日です。出来たら朝から会いたいです。メッセージくださいね」と言いながら立ち上がった。
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