宵街ブース
月輪雫
第1話 カクセイ ノ ミョウジョウ
僕の耳に鼓動が届いた。
どくん、どくんと、ゆっくりだが力強く鳴っていて、すこし温かい音。胸の鼓動。生き物の、生きている音だ。
その音に手繰り寄せられるようにして、思考が紡がれていくような感覚。どこまでも広がる真っ黒な何か、ここはどこか、こうして思考しながら揺蕩う、僕は一体……
「おぉ、珍しい」
パチン、と光がはじけた。
その一言で、僕の意識は覚醒する。
閉ざされていた双眸がゆっくり開いた。
(そうだ、ここには僕がいる。)
そんな思考が脳内に湧き出る後ろで、バタンと扉の閉まる音がした。
僕の瞳に映る世界は、少なくとも危険が迫っているような場所では無さそうだ。早朝のような薄暮の中、深緑の壁紙に少しくすんだフローリングの床。そして、足の甲に筋の浮いた僕の足。
体も頭もふわふわしていて、地に足がついていないような感じがする。頭が揺らされるような脈動で、余計にフラフラする。
忘れていたように息を吸うと、涼しさを残した初夏のような、キリリとした空気に優しい木の香りが体に流れ込んでくる。
「こんなところに…… 変わった異邦人〈ストレンジャー〉もいるもんだ」
少し驚いたような声が聞こえてきた。すとれんじゃー、とよばれた。
(――それは、僕の名前じゃない)
驚いていたその声は、ふわふわしたままの頭にするりと入ってくる。どこか中性的な、少女というよりは少年で、男性というよりは女性……そんな感じの声だ。
「――誰……?」
声がした方向にゆっくりと顔を向けた。発してから思う、これが僕の声だった。
大きな出窓のところに腰を掛け、文庫本を手にしている人物――といっていいのだろうか。その出で立ちを見ても驚きの声が上がらないぐらいには、僕の思考回路は緩慢な動きをしている。
「くま……?」
その人は熊の被り物を被っている。そう、クマの頭を被っているのだ。
「……好きに呼んでくれて構わないよ。この見た目からクマさんと呼ぶ人もいるし、宵さんと呼ぶ人も、お前と呼ぶ人も、パーソナリティーと呼ぶ人も、化け物と呼ぶ人もいる。まぁ、君が呼んでくれる名なら、喜んで受け入れるし、覚えていようとも」
その人物はスラスラと話しながら、手にしていた文庫本にしおりを挟んで、腰かけていた窓辺に置いてこちらへと歩み寄ってきた。ぺた、ひた、という足音と共に近寄ってくる。
「クマ……? 宵……?」
だんだんと近寄ってくる姿を目で追った。鼻の下、口元から足先まではどうやら人間のようだ。健康的な血色の良い肌が袖口から覗いている。
しかし、鼻や目元は熊の上顎から鼻、目、耳、後頭部までの剥製のような熊の被り物をしているので、クマそのものだ。
「……まぁ、別に呼びたい名前がないなら構わないけど」
僕より身長は少し低いか、いや、ほとんど同じだろうか。人間の体の方はスキニーのジーンズにカーキ色した7分丈の袖のTシャツ。首元では、にっかりと笑った口元のような、三日月のネックレスが薄暮の中で金色の光を散らしている。
彼だろうか、彼女だろうか、わからないが、僕は少しの間思案して、
「――じゃあクマさん」
結局、見た目のインパクトに負けた。
「シンプルで素直で、とても良いね」
くすくすと楽しそうに言うと、僕のことをまじまじと頭の天辺からつま先まで興味津々に視線を走らせている。
「――良いの?」
どうしても返答までに一呼吸置く必要があった。それもそのはず、うまく言葉が出てこないのである。
「いいとも、そうだ俺ばかり話してしまったけど、君、名前は? どこから来た……とかはわからないんだろうけど」
「そうだ、僕の名前……なま、えは……?あれ」
僕の名前、大切な、僕の名前。思い出せなかった。
「思い出せない……」
大事にしてきたことは、わかる。しかし、思い出せない。それだけじゃない。僕は自分が何者なのかも、どこから来たのかも、覚えていなかった。思い出せなかった。頭の中には考えのまとまらない暗闇だけが広がっている。
僕は震えながら首を横に振った。
「……無理に思い出そうとしなくて良いんだ。ここは、そういう者たちも良く現れるから」
クマさんの手が僕の肩にそっと置かれる。置かれたところがじんわりと温かくて、はやる鼓動が少しだけ落ち着いた。
「そうだな…… ちょうど部屋も空いてるし、一人と一台だけの暮らしも悪くはないけど、マンネリ化してきたところさ」
そう言ってクマさんは、僕の肩に置いていた手を離して、改めてこちらに差し出してきた。
「え……」
僕は戸惑いながらもその手をそっと握った。温かくてしっかりした、どこか大木のような安心感をその手の温もりをから感じている時だった。
「っ……」
僕の視界は再び暗転することになる。力が抜けて、膝から崩れ落ちた。
遠のく意識の向こう側で、クマさんの話す声が聞こえる。意識を手放すのが怖くて、必死に何かを考えようとした時、ふと「もう一人になりたくない」と思っていた。
――そして、なぜそんなことを思っているのかさえ、わかっていなかった。
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