第3話 素直になれなくて
ふたりが去り、突然カフェの中は静まり返った。さっき目の前で起きた彼との再会は夢だったのではないかと錯覚する程である。心地よいジャズの音楽が、やっと私の耳に届き、私の心にも落ち着きがもどる。
バックにしまった彼の名刺をそっとテーブルに出してみた。薄い空色の名刺。名刺には、「レンタル彼氏 りょう」と書かれており、携帯番号が書かれている。裏側には走り書きで「メガネもってるよ」の一言。
覚えててくれたんだ、そんな気持ちになり、思わずニヤついてしまった。しかし、職業がレンタル彼氏だもんね。連絡して眼鏡をもらったところでなに?って話だもん。やはり営業活動の名刺ってことかな。
テーブルの上に名刺を置き凝視して数分、両肘をついて頭を抱える。今でも、あの日の彼との艶めかしい記憶が忘れられずにいるのは事実だ。でも、連絡したとて何を伝えるというのだ。
「あいつ、悪いやつじゃないよ?」
窓のロールカーテンをおろしにきたマスターがすれ違いざまに声をかけてきた。
「その名刺、りょうのじゃないの?」
「お知り合いなんですか?」
私は慌てて眼鏡をかけなおし、マスターにすがるような思いで問いかけた。
「まー。あいつよく、仕事でここ使うからね。最初は、なんてヤツだと思ったよ。毎日違う女の人連れてるし。でもね〜いっつも女の人達は笑顔なんだよね。たとえ泣いてても、帰りは笑ってる。職業柄いろいろ誤解もされるみたいだけどね」
確かにさっきのかおりんさんも、ずっと楽しそうにしてたな。彼氏はいるみたいだったけど、彼氏以外の人にあんなに甘えられるなんて不思議。
「はい、今回はおかわりサービスしとくね。りょうのこと気になるなら、またおいで、きっとまた会えるよ」
「ありがとうございます。あ、いえ。気になるとかではなくて、眼鏡を……」
マスターは軽く右目でウインクして、席を離れていった。おいおい、そこまで話しといて、最後はスルーかよ〜。ま。コーヒー美味しいからさぁ。また来てあげてもいいんだけど。なんて、誰に言い訳してるんだか私。
年齢をかさねる程、自分に素直になることすら難しくて。何かを、何かで隠そうとすればするほど、とても滑稽なんだよね。あんなふうに、彼女みたいに自由に甘えることができたら、窮屈な毎日も肩の力を抜いてやってけんのかもしれない。
家に戻り、愛猫クラゲの歓迎をうける。私にはお前だけだとハグしようとすると、いいからメシをくれとばかりに、にゃーと怒られる始末だ。それでもめげるものか!
「相変わらずの塩対応。それでもお前が大好きだ」
クラゲにだけは、素直に甘えられる。なんの見返りも求めない、無償の愛ってやつだからかな。
さて、どうしよう。30歳になり、親からの結婚の圧もキツくなってきた今日この頃。仕事にも先行きを見いだせない私は、クラゲを連れて、田舎の実家に帰ろうかと真剣に悩んでいたところだった。実家は田舎で小さい八百屋を営んでいる。そこを手伝うのもありかな〜なんて。弱気になったりもしたりして。
ふとスマホを見ると、会社の同僚から一件のメールが届いていた。
─お疲れさま。休み何してんの?今度一緒にメシでもどう?
ん?改まってこんなメールしてくるなんて珍しい。ごはんなら、会社で誘えばいいのに。何か相談ごとかな?ははーん、彼女絡みの相談かもな〜。
同期の
─ん?改まってどしたん?仕事帰りにでもごはん行く?相談でしょ〜聞きますよ。
すると、すぐに返信が来た。
─うん。ちょっと話したいことあるから。
そんなやりとりをして、ベットに身を預けると、私はスマホを握りしめたまま、沈むように眠りに落ちていった。
次の日、職場に到着するといつもと変わらない光樹と遭遇。紺色のスーツにストライプのネクタイ。手首には銀色の時計がキラリと光る。180ちょっとあるすらっとした姿は、経理課でも目立つ存在である。
「おぅ。おはよ、
「おはよ。今日でも夜空いてるけどどうする?」
「今日いいの?」
「うん、大丈夫だよ。別の日でもいいけど。私は暇だからいつでも大丈夫だよ。あ〜でも、誘ったの光樹だから、そっちのおごりね」
といつものようにフザケてみたんだけど、なんだか今日はノリがいまいちだな。本気でなんか悩んでるのかな?
「もちろん。お店決めたら、後でメールするわ。じゃ後でな」
一緒に仕事を始めた頃は、あの容姿の眩しさにドキドキしたこともあったりなかったりしたけど。今では良き同僚として、良き友達しとして長いつきあいである。
お昼休みが終わった頃に、光樹からメールが届いた。
─いつもの店に20時。
私は、仕事の後の美味しいディナーを楽しみに1日をこなし、いつもの居酒屋にむかったのだった。
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