第5話


         ※


「えー、というわけで! 社会の特別講義を終了します! 今後は皆さんも、授業前後と授業中、きちんと大人しくしていられますように! 解散します!」

「……ありがとうございましたー」


 俺が特別講義に拘束されている間に、太陽は随分沈んでしまった。眩いほどの橙色が光線を放ち、迫りくる夜闇に抵抗を試みているかのようだ。


 机の上のテキストやペンケースを黙々と仕舞っていると。

 ……ん?

 この雰囲気は、殺気か? 背後から何者かに狙われている。


 俺は見える範囲で、現在の状況を確かめた。

 長時間拘束されたせいか、追加講義を喰らった連中は既に退散している。社会科の教諭も、肩をぐりぐり回しながら退室したようだ。

 つまり、今この部屋にいるのは俺、それに殺し屋的な何者かだ。

 真後ろから発せられてくる殺気。零距離に近い。そして、小さな拳銃と思しき物体が、俺の脊椎をぴったりと狙っている。非常に笑えない状況だ。


 この距離で迎撃し、追い払うのは極めて困難。対話を試みるしかない。

 誰もいないのを何度か気配を探ってから、俺はこう言った。


「今日もきっといい月が見られるぜ」


 相手の呼吸が僅かに乱れる。俺に気づかれている、ということに気づいたというべきか。

 無言を貫くのかと思われた瞬間、相手の殺気がふっ、と薄まった。

 俺を殺そうとするのを止めた? 何がどうなってる?


「ふふっ、ははははっ……」


 笑っている? 女、それもかなり若い。それこそここに通っている生徒みたいだ。


「ごめんなさい、柊翔先輩。先輩があんまりにも姉さんとくっつきたがるから、脅して改心させようと思ったのですけれど」


『姉さんとくっつきたがる』? 聞き覚えのある声に、俺の脳内でパズルのピースがはまるような感じがした。ああ、そうか!


「その声! 美耶? 美耶だな?」

「はい。私は、月野摩耶の妹、美耶です」


 ものすごく丁重な声音で、自己紹介を済ませる美耶。

 俺が振り返ると、そこにあったのは僅かに口角を上げ、満面の笑みを浮かべる美耶の顔だった。


「だはあっ!」


 俺は息をつくつもりだったが、上手くいかなかった。

 いや、呼吸が上手くいかないっていうのは余程の非常事態、ということにはなるが……。

 肺を成す細胞の一つ一つが、一気に酸素と二酸化炭素の交換を求め、オーバーヒートしたらしい。


「ああっ! 大丈夫ですか、柊翔先輩!」

「……」

「えっ? なんですか?」

「俺に殺気を向けたのがお前じゃなかったら、絶対にぶん殴ってるところなんだがな……」


 息も絶え絶えにそう言うと、今度は美耶が黙り込んでしまった。

 

「しかしなあ……。一つ訊かせてくれ、美耶。どうして俺を襲ったんだ? いっつもあんなに大人しいお前が。人格が変わっちまったみたいだったぞ」


 特に殺傷性の高い武器を携行していなかったところからして、本気で俺を傷つけるつもりはなかったとみるべきだろう。いや、だったら猶更分からない。俺に、いわばストーカーごっこを仕掛けて、その先に何を望んでいるのか。


 それを問いただすことができればいい。俺は美耶と目を合わせようと試みた。

 真っ直ぐ美耶を見つめる俺。目線を無造作に巡らせながら、落ち着きを失っている様子の美耶。


「美耶、お前は俺に、何か恨みでもあるのか?」

「恨み……違う。あなたじゃない……。この気持ち、確か最後に……」


 美耶はぶつぶつ呟きながら、かくんと俯いてしまった。これでは感情が読み取れない。もしかしたら、美耶本人も自分が何を考えているのか、よく分かっていないのかもしれない。


「もうじき日が暮れるし、さっさと帰ろうぜ。あ、そういや摩耶は? 寛もどっか行きやがったな。仕方ない、一緒に帰るか」

「だからそうなって……やっぱり違う……えっと……あ、は、はいっ!?」

「ああ、考えてるところ悪いな。たった今、弦さんから連絡が来たんだ。今日は摩耶も美耶も、俺の邸宅に泊まっていって構わないってさ。最近物騒だし。弦さんがすぐそこに迎えに来てるそうだ」

「そ、そうですか……。ありがとうございます」


 これだけ言葉を交わし、俺たちは昇降口へと向かって歩き出した。

 そしてそれは、決して平易な道のりとはならなかった。


         ※


 俺と美耶は、ぽつぽつと言葉を交わしながら昇降口に向かっていく。


「それにしても、ひどい雨だな」

「ですね」

「弦さんの車は校門の右側で待機している。きっと摩耶もいるだろうな」


 俺はなんとはなしに、窓の外に視線を投げた。不快げな俺と心配げな美耶の顔が、並んで写っている。


「えっ? 柊翔先輩は……?」

「少し用事を思い出した。美耶、先に車に行ってくれて構わないぞ」

「用事……? なら私も同伴します! 少しはお役に立てるはずです!」

「んー、役に立つとか立たないとか、そういう問題じゃないんだよな。絶対安全だからさ、俺は。だから今は俺の言うことを聞いてくれ」


 すると、美耶は僅かに唇を噛みしめて頷いた。


「……分かりました」

「よし。昇降口で泥に滑るなよ。んじゃ!」

「はい、お気をつけて」


 ぼそっと呟く美耶。今生の別れでもあるまいに。


         ※


 俺は廊下の一角にある立ち入り禁止の扉を引き開け、地下に繋がる階段をゆっくりと降りていった。裸電球数個で照らされた階段は、なんとも侘しいというか寒々しいというか。

 いずれにしても、照明が稼働するということは、この先にある研究室の主はまだ帰宅していない、ということだ。


「あの悪戯好きの馬鹿野郎め……」

「バカヤロウメ」

「おっと」


 俺の言葉を拝借した『そいつ』は、人間離れしたヘンテコな声音で応じた。

 部屋主が飼っている鳥である。インコの声帯を広く設定し、遺伝子改良して……って、そんな詳しい話は俺には分からない。とにかく、喋るペットである。

 もう少し大きな鳥籠を用意してやればいいのに。


 それはともかく。

 近くで人の気配は感じるのだが、姿が見えない。ついに完成させたのか、部屋主め。


「おい、光学迷彩なんてSF世界の話だぞ! 見えるようにしろよルリア、これは現実だ!」

「コトワル」


 なんでだよ。と、ツッコミたいのは山々だった。だが、今俺が対峙しているルリア・フォスターがどこにいるのかが分からない。

 薄暗い廊下という状況が、彼女にとって有利に働いたことは事実だろう。だが、これほどしっかりとした光学迷彩に遭遇したのは初めてだ。


 俺は眉間に手を遣って、やれやれとかぶりを振った。

 ルリア・フォスター。俺たちと同じ一年生の生徒で、理系科目に特化したカリキュラムを受講しているオタク系女子だ。


「でいっ!」


 俺は気配だけで無造作に腕を伸ばした。ちょうどよく布を引っ掴む形になる。そして容赦なく、ばさりとその布を背後に投げ捨てた。

 そしてそこにいたのは――。

 

 いや、人間であることには変わりない。だが、見た目がどうにも人外の存在になろうとしているかのように感じられて仕方がない。

 彼女こそが、ルリア・フォスター。一応日本人だが、家庭事情でイギリスに住んでいた時期が長いので、時々日本語が拙かったり、英語が流暢しすぎたりといったことはある。日常生活に問題はないけれど。


 外見を見てみると、いつもと同じだった。

 長身痩躯でロングの長髪。ただしこの髪、黒一色ではない。ところどころに銀色の筋が走っているのが見える。本人曰く、流星群が降ってくるようでカッコいいから、この色合いに染めているらしい。

 眼鏡をかけているが、二つの円形フレームの大きさが違う。目の大きさ自体は一緒のはずだから、これも目立つためのファッションみたいなものなのだろう。

 いかにも科学者然とした白衣をまとってはいるものの、絵の具をぶちまけられたかのように今はその色合いが滅茶苦茶になっている。

 白衣と同色のゆとりのあるズボンを穿いていて、その長い足は、いつでもポッキリ折れてしまいそうに見える。

 

「ういっす。こんなところで何やってんだ? また実験のために居残りか?」

「そんなところ! ここは設備が脆弱でーす! もっともっとグレードの高い機材がほしいでーす!」

「いいじゃんか、光学迷彩まで作れたんだからよ」


 光学迷彩。それは、簡単に口にできる代物ではない。最先端技術を総動員して完成された、人間工学の最高傑作と名高いものだからだ。

 そうはいっても、真っ先にこれらを使うのは各国エリート部隊の兵士たち。物騒な世の中である。


「でもさ、ルリア。お前、よくこんなもん作れたよな。本当に民間人か?」

「もちろんでーす! それより、本当はもっと変な声で柊翔くんを翻弄させたかったのですが!」

「いやいや、これ以上俺を実験台にするな」


 俺をからかうことができたからか、ルリアは得意げにのけ反りながら息をついた。……貧相な胸だなあ。


「って、何を考えてるんだよ、俺は!」

「どうかしたのでーすか?」

「い、いや、何でもない……」


 じっとこちらを睨みつけるルリア。しかしちょうど、俺の携帯が鳴り始めて、緊張を解いてくれた。


「も、もしもしぃ? ああ、弦さん、どうかしたんですか?」

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