月を喰らう影

笠井 野里

月を喰らう

 夜、どうしても眠れないときは近くの公園に行って月をみるようにしている。――というと明らかに嘘だ。

 一人の女が、毎度公園のベンチに座ってタバコの煙をくゆらせている。それに会いに行くのだ。歳は私と近い、大学生ぐらいだろう。NIRVANAの“イン・ユーテロ”のアルバムジャケットの絵が描かれたブカブカのTシャツとクタクタのジーパンを履いた金髪ショートヘアで、右の耳にはピアスが三つ、星のように輝いている。紋切型もんきりがたのグランジきどり女のようだが、目は丸っこくて妙にキラキラしていて、その瞳の光だけでこのファッションが似合わないのがわかる。


 彼女の座るベンチの隣に座ると、毎回無言でマルボロのメンソールを渡してくる。そしてそれを受け取り吸う。一時になった夜の空は、南のほうは薄くオレンジ色に焼けていて、夜でも雲が白いことがよくわかる。少し上を見上げると、そこには月があって、今日は上弦じょうげんの三日月だ。


「今日は月が綺麗だね」

 月が綺麗であることを告白ととらえることのない彼女のすぐれた感受性かんじゅせいは、僕の中で少しの救いになっている。


「そう? どうもありきたりな形すぎて私は好きじゃない」

 彼女は月には目もくれず、タバコについた火をぼおっと眺めながら言う。

 鈴虫の鳴き声が、街灯の近くからずっと聴こえるだけで、車の通る音さえしない静かな公園。私たちはこうしてしょうもない会話をする。お互い、なにも知らない。ほとんどなにも。


「ね、小説の進みはどう?」

「うん。悪いね。ストーリーは置いといても、描写がえない」

「見るしかないよ。モノを」

「モーパッサンも同じようなことを言ってた気がする」

「……」


 会話は続かない。この無言にさえ、私は心地よさを感じる。夜とニコチンの魔力のおかげもあるかもしれない。ゴキブリのように黒光りした小さな虫が、足元のひび割れたタイルを音もなく這っていた。

 私は彼女が何をしている人なのかさえ知らない。そして彼女は私が小説を書いていることしか知らない。


「私さ」

 彼女はタバコの先に溜まって重たそうにしている灰が落ちるタイミングで語りだした。

「……絵を描こうと思って」

 私は素敵なアイデアだと思った。彼女の瞳は何を映し何を描くのか、私はそれが素晴らしいもので、この世に残るだろう美しさであることを何故か信じていた。


「いいね。どんな絵を描くの?」

「……月、かな」

「月? でも月嫌いじゃなかったっけ?」

 彼女が月の美しさを否定していることだけは、知っていた。

「だからかな」


 彼女は眼の前にある、動くこともないブランコを憎々しげに見つめながら、よくわからないことを言った。月が嫌いだから月の絵を描きたいという心理は、私には理解できない。

「よく分からない。嫌いなものを描く理由りゆうって?」

 私の問いに対する答えはなかった。一瞬風が吹いて、彼女の吐いたタバコの煙が、私の顔を横切った。


「あのさ、なんで小説書いてんの?」

「なんでだろうな。……いつか届くと思ってんだ、月にさ」

 彼女のふーんという声は、見えない重みを持って、どこか遠くへストンと落ちて消えていったような気がした。

「届くよ。タブン」

「そうだといいな」


 彼女はようやく月を見た。月光に照った彼女の顔は、光輪こうりんを授かった天使のように輝いて、紫煙しえんを天上の雲にして、私の横に座っていた。

「……絵かあ。うん。多分、いい絵が描けるよ。月に愛されているみたいだ」

 その台詞が私の口から出た瞬間、彼女は月を見上げるのをやめて、私を見た。瞳の中が、何回も動いて、その度丸いきらめきを増していく。


 彼女は半分も吸っていないタバコを足元に捨てて、少し汚れた黒いスニーカーでぐしゃぐしゃにして火をもみ消した。私はまた月を見た。


「月に愛されてもね」


 彼女はそう言い残して、手をヒラヒラ振って去っていった。足取りはぎこちなさを感じるほどに軽く、公園の街灯の灯りの奥へ消えていった。


――――

 それから約一ヶ月が経ち、私は、隣に誰もいない、本当に静かな公園のベンチに座って、あの日と同じような形の上弦の三日月を見ている。まんまるな月を食いちぎる影ばかり目立つ、あの上弦の三日月を。

 今夜は一切、雲がない。

 ――私は、今日の月が綺麗だとは思わなかった。

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月を喰らう影 笠井 野里 @good-kura

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