第21話 奇異の目


朝。

旭は、起きて気が付いた。部屋のドアが少し開いている。開けっ放しで寝てしまったのだろうか、と首を傾げながら閉めようとして、手が止まる。ドアの隙間の闇から、目が一つ、旭を見ていた。旭は深呼吸をして、ドアを全開にする。目は無い。誰もいなかった。

(寝ぼけてただけか)

旭は息をつくと、着替えて部屋を出た。


だがそれから直ぐに、旭は自分が寝ぼけていた訳でないことが分かった。

朝食を食べている時、支度をしている時、家を出て、大学に向かっている時。棚、窓、ドア、側溝の蓋等々、全ての場所で、隙間という隙間に目が有り、旭を見ている。

(頭でも打ったかな。目の病気?それとも精神疾患とか……)

旭は落ち着かないまま、大学で一日を過ごした。

いつもどこかからか視線を感じ、目が視界に入って来る。ギョロリと、旭を見つめる目。

友人にそれとなく聞いてみても、やはり数多の目が見えているのは、旭だけだった。

大学が終わった後、旭はどこにも寄らず家に帰った。帰り道も、あちこちに目、目、目。

(参ったな……気分悪いし、気味も悪い)

家に帰り、旭は真っ直ぐに部屋に入った。布団を敷いて、タオルケットを被り、倒れ込む。目を閉じて、深呼吸した。

(どうなっているんだろう)

閉じた目に手を当てて、旭は違和感に気付く。何かが、両目に張り付いている。長方形の紙を横向きにしたような、何か。慌てて目を開けても、旭の視界はいつも通り。スマホに写した顔にも、何も異常は無い。

「何だろう?これ」

(透明の紙でも貼ってあるみたいな)

取れるか試してみても、取れない。旭の指は、それをすり抜けてしまう。布団の中で呆然としていると、ノック音がした。

「旭、帰ってるよな?開けるぞ」

叔父である弥命の声。旭はタオルケットを頭から被ったまま、起き上がった。

(叔父さん、家にいたんだ)

いつもなら、旭は帰ったら居間や台所に行くが、今日は部屋に真っ直ぐ入った為、気付かなかったのだ。何より、旭にそんな余裕が無かったのである。

「はい」

ドアが開く隙間に、また、目がーー。

旭はうつむいて、目を閉じた。

(もう、目は見たくない)

弥命は頭からタオルケットを被り、座って俯いている旭を見つけて目を丸くした。

「うお、調子悪いのか?」

弥命が近付いても、旭は顔を上げなかった。

(様子がおかしいのはそうだが。珍しく、分かりやすいな)

居間にも台所にも来ず、常には無い逃げるような旭の足音が不思議で来てみた弥命は、内心苦笑いを浮かべる。

「旭?」

屈んだ弥命の手が、タオルケットをふわりとめくった。憔悴しょうすいしきってうつむき、目を閉じている旭がいる。弥命はそんな旭に、消えてしまうようなはかなさを覚え、一瞬言葉に詰まった。タオルケットを握る旭の手が、わずかに震えている。

「叔父さん……」

(何て説明すれば良いんだろう?)

旭が恐る恐る目を開けると、弥命の黒地に赤と金の花火柄のシャツが飛び込んで来る。

(……綺麗だけど。今日も派手な柄だな)

現実逃避。旭の頭は上手く働いていない。弥命が先に口を開く。

「どっか痛いのか?」

「いいえ」

「熱は?」

「ありません」

弥命からの短い質問に、旭は俯いたまましっかりと返答を返す。

「俺の顔を見ないのは、関係あるか?」

「……はい」

微かな声になったが、それでもしっかりと肯定する旭を見、弥命は顎に手をやる。

「何か、俺にバレるとやべー悪事でも働いた?」

「……もしそうでも、こんなことしてないで、直ぐ謝りに行くと思います」

呆れたような旭の言葉に、弥命はくつくつと笑う。

「だよなあ」

弥命の言葉を聞いてる間にもまた、旭は視線を感じる。

「あの。この部屋に、僕たち以外誰もいませんよね?」

「いないぞ」

「……そうですか」

そう聞いても、あちらこちらから絡むような視線を感じて、旭は落ち着かない気分になる。

「そろそろ、話してみてもいいんじゃないのか?面白そうだし」

弥命の楽しげな笑い声が、旭にとっては面白くないのにホッとしてしまう。旭は深呼吸した。

「すみません。今、顔を上げられなくて。いえ、目を見たくなくて……」

旭は今朝からの話をする。弥命は最後まで、黙って話を聞いていた。

「なるほどねぇ……目、か」

不意に弥命は旭の顎を掴み、上向かせる。

「わ、」

旭の目に、弥命の、夜に見る水のような色の瞳が飛び込んで来る。

(あ、れ……)

こんなに目で苦しんでいるのに、不思議と弥命の双眸を見たら、旭の気分は落ち着いた。弥命はじっと、旭の目を見ている。

「これか」

「えっ」

旭は、目に張り付いていたそれに、弥命が難なく触れたのが分かった。そしてあっさりと剥がされる。旭の視界が少し、明るくなった気がした。

「どうだ?」

顎から弥命の手が離れ、旭は辺りを見渡す。あの数多あった目は、見えなくなっていた。

「……目、見えなくなってます。視線も。あんなにあったのに」

「そうか」

「どうして叔父さんには、張り付いてたものに触れたんですか?僕は、触れなかったんですが」

弥命の手には、白い紙があった。御札おふだのようなもの。文字は無く、真ん中に目のような模様が描いてあった。

「さあな。旭と目を合わせたからじゃねぇの」

弥命は言いながら、紙を見た。白い紙は再び透明になり、空気に溶けるように消える。後は、何もない。旭はまだ、弥命の手を見ている。

「あのたくさん見えてた目、って何だったんでしょう。あの御札みたいなものも、いつの間に貼ってあったんでしょうか」

「俺が知るかよ。人間の目には良くないもんなんだろうが」

怠そうに答える弥命に、旭は息をつく。

「そうですね。……ちょっと、参りました」

ぐったりとする旭を見、弥命は左耳の大きな朱い金魚を揺らしながら、不敵に笑う。

「……一人で黙って部屋もる前に、俺が縁側えんがわりゃ良かったんだよ」

弥命は、タオルケットを乱暴に旭の頭へ被せ直し、そのままぐしゃぐしゃと撫で回す。

「わ、それって、」

旭がタオルケットから抜け出した時には、弥命が階段を降りて行く足音だけが、部屋に響いていた。
















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