打ち寄せる未来

彩羅木蒼

遭遇

 私の散歩は雨の日と決まっている。

 傘を打つ雨の音。規則的に鼓膜を揺らす波の音。私以外、誰もいない海辺の散歩道。そのどれもが私の心を落ち着かせてくれる。

 私は今日の様な雨の日に、良く近所の海に散歩に出かける。学校がある日は放課後に、休みの日は気が向いた時間に。逆に晴れの日は海を散歩しない。これが私の趣味の一つだ。

 この事を友達に話すと必ず不思議がられる。けれど、私としては映画を観たり、本を読んだりするのと同じくらいに自然でありふれた趣味だと思っているのだがなんだかいまいち伝わっている気がしない。

 今日もいつもの様に海岸を散歩していると、視界の隅にだれかが立っている事に気づいた。そちらを見やると立っているのは女性だった。彼女は傘も指さずに海に向って佇んでいる。その後ろ姿からはやりきれない後悔、悲壮感が漂っていた。

 私はその女性の事が気になり、遊歩道から砂浜に降りて歩き出した。

「すみませーん。大丈夫ですか?」

 近寄りながらその女性に声を掛けるが、その女性は私の声に全く反応しない。聞こえていないのだろうか?

「すみませーん! 大丈夫ですか?」

 さっきよりもさらに声を張って呼び掛ける。しかし、変わらず女性は海を眺め続けていた。まるで私が存在しないかの様に。

 そうするうちに、私は女性の真後ろにまで来た。手を伸ばせば触れられる距離感から女性の後ろ姿を見ると、その女性はオフィスカジュアルの出で立ちである事に気づく。そのファッションは洗練されており、都会のビジネス街で働くOLの様だ。この地方都市の海岸には馴染まない格好だった。都会で働いている人がなんで雨の日の海で傘もささずに佇んでいるんだろう。

 私は女性の肩を軽く叩こうと手を伸ばした。これだけ声を掛けても反応が無いのなら直接触れるしかなかった。流石にこれで気づくはずだと思いながら。

 伸ばした手が女性に近づいて行く。あともう少しで肩に触れそうだというその時、いきなりものすごい雷鳴と共に閃光が眼球を貫いた。

「わっ!」

 私は思わず目をつむり、顔を手で覆った。目をつむっても瞼を貫通する強い光と轟音に、一瞬私はどこに居るのか分からなくなる。

 雷鳴がとどろいたのはほんの一瞬だった。光が止み、波音がまた聞こえて来ると、私は女性の無事を確認しようと目を開け、手を顔の前からおろした。

「……は?」

 私は目の前の状況を直ぐには理解できなかった。

 さっきまで目の前にいたはずの女性は、跡形も無く消えていた。


 最初、私は雷に打たれておかしくなったのかと思った。雷が鳴り、私が顔を覆っていたのはほんの数秒間だけだ。その間に人が消える? そんな訳はない。幽霊じゃないんだから。

 だとしたら……あの女性はどこに行った? 私は直ぐに周辺を探し始めようとしたが、直ぐにそれはそもそも無理な事に気づく。ここは海岸だ。隠れる事が出来る場所は何処にもない。目の前は広大な海、左右は一面の砂浜が広がっている。私の背後には遊歩道があるだけ。この状況でどうやって隠れるというのだ。

 しかも、女性の足跡は女性が立っていた場所からどこにも伸びていない。この事から、女性は一歩も動かずに消えた事になる。これではまるで幽霊じゃないか。だが、女性は確かにここに存在していた。実態のある人間だった。

 私はだんだん女性がさっきまでここにいた事にすら自信を持てなくなっていた。

 警察に相談する? ——いや、上手く相談できるか分からない。まともに取り合ってくれるかどうかも怪しかった。

 しばらくその場で佇んでいたが、もうこれ以上出来る事も思いつかず、私はその場を後にした。


「ただいまー」

 玄関ドアを開けると、恋人の怜花れいかが映画を観ていた。

『あれ、今日はバイト無いんだ』

この時間帯、怜花はバイトをしている事が殆どだから、休みだという事が珍しかった。私もバイトをしているが、怜花程シフトを詰め込んではいない。

「あ、お帰り。また海行ってきたの?」

「うん、今日は雨降りだしバイトもないからね。怜花今日バイトは?」

「休みー。久し振り過ぎて休み方を忘れた」

 しっかり映画観てんじゃん。と私が言うと怜花は楽しそうに笑った。

「バイト無理し過ぎないでよ。怜花が倒れでもしたら朝食と夕食が私のクソまずいごはんになるんだからね」

 朝食と夕食は怜花が作ってくれている。怜花のごはんはとにかくおいしいのだ。

「うっ……それはちょっと」

 冗談めかして口元を押さえる怜花。

「ひっど じゃあ私部屋で課題やってるから」

 軽口を叩き合った後、私は洗面所で手洗いうがいを済ませ、部屋に向かった。

 部屋に入る前に怜花の方を見やると、もうすでに怜花は映画の中だった。

 

 その後、怜花が作ってくれた夕飯を食べ終えた私たちは、二人でベッドにもたれかかってテレビを見ていた。面白くもつまらなくも無いバラエティ番組が流れている。

そのままなんの気なしにテレビを観ていると、ふと柔らかい花の香りと共に怜花が私の左肩に頭をもたれて来た。

「ねえ、美奈穂みなほ。最近何かあった? 様子変じゃない?」

「んぇ?」

 思わぬ怜花からの問いかけに変な声が漏れてしまった。海での出来事が脳裏をよぎる。何かあったとすればこれだが、上手く伝える自身は無かったし、何より本当に女性が海岸に居たのかすら自身が持てなくなっていた。

「別に何もないよ。大丈夫」

 すると怜花はまたいぶかしむ表情を私に向けた後、いきなり両腕を私の首に回し、体を密着させて来た。

「んーホントかな。何か隠してるでしょ」

 すると怜は私の首すじに顔を寄せて来た。花の香りにと共に怜花の匂いが私の鼻孔をくすぐる。何をするつもりなのかと思った直後、首筋に柔らかいものがあたった。私の良く知っている柔らかさ。この部屋で何度も重ねた柔らかさ。私の体中を這いずった柔らかさ。その怜花の唇に、私の思考は乱れて行く。怜花はそのまま私の首筋にキスをしながら上へと上がってゆく。そして耳の近くに来た怜花はそのまま私の耳をんだ。腹の底から熱い物がこみ上げて来る。体中が熱くなっていく。

 私の方からも怜花に近づいて行こうとしたその時、突如脳裏に他の女と寝る私の姿が浮かんだ。その映像と共によみがえる快楽、優越感、そして強烈な罪悪感。腹の熱が急速に静まっていく。気づくと私は怜花を押しのけていた。

「ちょっと怜花⁉ 酔ってるの?」

 すると怜花は残念そうな顔をして離れた。

「えーダメ? っていうか最近いっつも拒否るよね美奈穂。前は最後までしてたのに」

「そっ、そんな事なくない? ほら、タイミングというかそういうのだよ」

居心地の悪さを感じた私は立ち上がり、浴室の方へ歩き出そうとした。一旦この場から離れたかった。さっきの映像が脳裏から離れない。

「ちょ、ちょっとお風呂入って来るね。怜花はゆっくりしてて」

 不満げな表情を浮かべたままひらひらと手を振る怜花を横目に、私はそそくさと浴室に向かった。最悪のタイミングで脳裏に浮かんだ光景。怜花は気付いて居ない私の姿。

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