第5話 突然

「おい、待てというのに」

 サワの制止を雪花は聞き入れることはなく、まっしぐらに駆けて行く。

「危ねぇぞ!」

 注意喚起は、がなるほどになった。制限速度を超えた一台の軽自動車が見えたばかりではない。スピードを緩めないのは雪花も同じだった。突如として立ち止まったサワを追い越して、

「波野!」

 謙吾がもう一度声を出すと、雪花の進行が止まった。

 その前方を、ヘビーメタルをでかく漏らせながら、派手に装飾された車は通り過ぎて行った。

 吐く息とともに肩から力が抜けて、謙吾は雪花の横へ。

「何やってんだ、波野?」

 危険を回避できたことに胸を撫で下ろした謙吾であったが、突然止まった雪花は、単にダッシュを止めたわけではない様子だった。彼女は走っている姿勢のまま、まるで立てかけられた分厚いマットの壁に埋まっているかのような状態だったのだ。それがなければ、まだまだ駆ける勢い。

 謙吾は、雪花が埋まっている方へ手を伸ばしてみた。比喩のまんまに、掌は空間にクッションのような柔らかさを感じた。

 突っ込んでいた身体を起こし、荒い息継ぎをする雪花。

「間に合って何よりだな」

 ゆっくりとして、サワが並ぶ。謙吾はその手にディスプレイがほのかに光る長方形を見た。それは形状からして、スマホ以外には見えない。

「轢かれたら、どうするのだ?」

 雪花の傍で腰に手を当てて諭す。サワのテクノロジカルな何かのせい、いやおかげか。何せ眼前で人間=イルカのメタモルフォーゼ・テクノロジーがすでに披露されていた上に、サワの手には使用中とばかりの物的証拠が握られていたからである。

 成り行きに戸惑っている雪花だが、身近のサワから視線を外すのが精いっぱい。依然として、謙吾とサワの密着状態の妄想継続中だったからである。

 とりあえずは、曲りなりでも事情を説明しようとする謙吾であったが、サワの手のスマホ型ツールが警告を促すようなアラームを奏でた。

「気を付けろ」

 言うは易いが、具体性のない回避の催促はただの微動だにせずの継続にしかならない。

 それを見たサワがじれったそうに、スマホ型ツールの画面に指を動かそうとした途端に、バケツ数十杯分がひっくり返されたくらいの大粒の雨に三人は打ちつけられた。

 数秒後、雨上がり、謙吾は空を見上げる。真っ青な空にほんのりとだけ薄い橙色がにじんでいる。

「夕立にしちゃ、雲ねぇな」

 しかも、雨は超局地的であったようで、半径一メートルの円内にいる三人以外は降られたところも、濡れた形跡もなかった。アスファルトが黒色に変化している場所は三人の足元以外にいない。

 ジト目で謙吾はサワを見やった。サワの手に握られている例のツールの、とある機能によって引き起こされたハプニングを疑うには十分だった。

「私は何もしておらんぞ」

 濡れた前髪を掻き分けて自己弁護するイルカ女子。

「これ……海水っぽいよね」

 雪花に言われてみれば、潮気のある匂いも、生ぬるく肌に残る感触も確かにそうである。だから、もう一度視線をサワに送った。

「だから、私は……」

 サワが反論しかけると、雪花の小さなくしゃみが遮った。

「シャワー浴びるか……でも、さすがに女子用の着替えねぇな」

「なら、私の家に来るか?」

「家? どこの?」

「だから、私の家だ。ケンゴの隣にあるではないか」

 謙吾の困惑に対して、さも当然な風にサワは謙吾の家の隣を指さした。平屋建ての新築の一軒家がそこにはあった。謙吾の表情が硬くなる。なぜなら、そこは今朝まで更地で、雑草が緑豊かに生い茂っていたからである。

サワがしでかしたことは判然としているのだが、あまりの突拍子の無さに、文字通り空いた口が塞がらない謙吾。マンボウでももう少しは口を閉じるというのに。

「私はサワと言う。見ての通りケンゴの隣に越してきたものだ。えっと……ナミノと言うのか?」

 窺うように雪花の顔を覗き込む。

「はい、波野雪花です」

「そうか。では、ユキカよ。シャワーを浴びるに来るが良い。ケンゴよ、お前も来たければ、来ると良い」

 遠慮がちな雪花を引き連れて、ツカツカとさっさと自宅へサワは向かって行ってしまった。

「何なんだよ……」

 謙吾は頭を掻いて、それから一つ切れのあるくしゃみをした。

 “ドッ ドッ”

「俺もまずはシャワーだな」

 早まる鼓動の理由を考えるよりも、そそくさと家に戻る方が先決だった。

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