第肆話
卯月 壱拾伍日
カーテンから差し込む日差し。心地よく鼓膜を波打つさざ波の音。大自然に恵まれる環境の者のみが味わえる至高の目覚め。転校初日の幕開けとしてはこれ以上ない麗やかな日和だろう。
しかし、気持ちのいい朝に駿之介の第一声は──
「恐るべし、ミルクココア」
昨晩謎の差出人からもらったミルクココアへの衝撃だった。それは彼が風呂から自室に帰る途中で部屋の前で置かれたのだ。
その名も『飲めばぐっすり眠れる! まろやかなミルクココア』という。
最初はあからさまに盛られた売り文句に眉を顰めたが、飲んでみたらまさか効果覿面とは。
「本当にぐっすり眠れたとは……ミルクココアの力、ぱねえなぁ」
ミルクとココアの絶妙なバランスが舌の上で優しく甘いハーモニーを奏でる。けれどその味を一言で説明するのは至難の業と言えよう。
例えるならそう、全てを包み込んでくれる聖母の腕の中のよう──。
思い出すだけで二度寝したくなるが、逆に恐ろしく感じさえもした。完全に名前勝ちしたことに。
「って、いつまで布団から出ないつもりだ俺は」
幾ら二度寝の誘いが魅力的とは言え、そろそろ着替えないとマズい。もそもそと布団を抜け出した彼は急いで登校準備をすることにした。
「柚ー、起きろー。朝だぞー」
階段に面した部屋の襖に三回叩いたが、依然として起きる気配は皆無。仕方なく開けることになったが、肌に刺す冷気に思わず身震いした。
「うわさっむ! こいつ、なんで眠れるんだよ」
安全地帯まで避難し、両手を擦り合わせる。暖を確保するまでは程遠いが、このまま引き下がるわけにはいかず、負けじとリベンジ。
しかし部屋に入れば無防備にエアコンの攻撃に晒されるため、引き続き隙間から起こす作戦を決行。けれど二回目、三回目も失敗に終わり。それでも彼は諦めず、四回目の挑戦へ――。
「ゆゆゆゆゆず、た、たた頼むから早く起きてエアコンを、エアコンを切ってくれええ!」
「んぁ……駿兄……。妹の名……言ってみろ」
「は、はあ? ななな何言ってんだ、柚だろ」
「そ……。ぐずぐずするのが……あたしの、し……ごどぉぉ……」
「いいから、はよ起きろ!」
遂に我慢の限界が来た駿之介は部屋に踏み入れて物理的に彼女を叩き起こす──もとい、爽やかな朝を迎えて頂くことにした。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「おお〜。二人共、制服がよく似合っておるのう〜」
「ありがとうございます」
「や、やったぁ……。駿兄の言う通りだぁ。えへ、えへ、えへへ」
居間に向かっているところを偶然大石とバッタリ会った萱野兄妹。頬を紅潮させながらももじもじする柚の頭を撫で。なんとか上手く行って良かった、と内心でホッとする駿之介。
それは数十分前、彼が柚の着替えを手伝っている時のこと。彼女が突然『学校は教育機関による洗脳施設だ』とか『情報化したこの社会に学校に行く必要ない』とかの理屈を並べて現実逃避したのだ。
最初は諭す方向で説得するつもりだったが、『『えっ誰だこの美少女は?』と思ったら柚だったのか!? なんだよ、ビックリしたなおい』から始まり、『柚の独特なオーラがどんどん溢れてくるぞ……! こりゃあ人気者待ったなしだな……!』で終わる渾身のべた褒めした結果。些細な褒め言葉でも気持ち悪い笑いをする妹の出来上がりという訳だ。
「うむうむ。駿之介は凛々しく見えるし、柚ちゃんは抱き締めたくなるくらい可愛らしいのう〜。それ!」
「うわっ!」
凄まじい瞬発力で二人の背後に回った大石。運良く躱したまで良かったものの、結果的に柚が押し倒される形になってしまった。
褒めながらさり気なく堪能する辺り、さぞかしベテランと見た。けれど、
「ハッ、これは所謂『女同士のスキンシップ』というやつなのかしかもまさかされる側なんてどどどどどうしよう夢が叶ったよ駿兄! こここここうしちゃいられない永久保存のために早速記録をうひょおおお」
柚は何らの抵抗もせず、むしろ大興奮。
しかし妹が大ピンチなはずなのに兄の方は、
(くっ、すまない妹よ。本当は助けたいんだ。でも、でも俺がいけないんじゃなく、百合リストのルールがいけないんだ。そうだ、百合を愛でる者として花園に踏み入れちゃいけないんだ。だからこのまま眺めさせてくれ。思う存分、見せ付けてくれよな……!)
前のめりになってスマホを取り出し録画のボタンを押した。撮影が始まって数分も経っていない頃、反対側から声がやってくる。
「こら、会長殿。柚ちんにまで手を出さないでくださいよ。ほら、こんなに怯えて──」
「はあ……しゃあわせえ……」
「──でもないか。たははは、強いね……」
だらしなくヨダレを垂らしている柚の顔を見て、苦笑する夏目。第三者が止めに入ったおかげで駿之介も現実に戻され、慌てて撮影停止のボタンを押した。
「いやぁ、久しぶりに堪能したわい」
「もう。あれほど女の子に飛び込んではダメって言ってたのに、会長殿と来たら」
「おほほほ、目の前に可愛い
少しも悪びれない顔に夏目が無遠慮な溜息をつく一方、駿之介はまだ妄想の世界に浸っている柚の身体を軽く揺さぶった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
月華荘の全員と一緒に登校する最中に、大石と小夜と途中で別行動となった。何でも最近は物騒になったらしく、その送迎を大石が担当とのこと。傍から見れば仲良しの小学生二人が登校するように見えるのはさておくとして。
やがて高校生組が
元々上流階級の皇国民のみが入学特権を得られる教育機関だけあって、広大な敷地を有していた。夏目曰く、生徒のみ限らず、誰もが一度迷子になるのが名物とのこと。
「ちなみにこちらの光風さんというと……?」
「おうよ、今でも迷子になってるぜ! だから安心して迷子してってくれよな!」
二人のコントじみた会話を放っておくとして、次々と校門を潜っていく生徒達に駿之介は違和感を覚える。制服とは、統一性を持たせる目的で作られた服装のこと。だがおかしなことに、どうやらここではその意味が通じないようだ。
駿之介と光風が着ているのは詰襟の制服に学帽、柚と夏目が身に付いているのは桜色の袴。だが金髪の生徒達全員がブレーザーを着用している。
そう、夏目以外の金髪生徒が。
「髪が違うだけで?」という彼の疑問を見抜いたかのように、夏目が説明する。
「ああ、制服にはね。二種類があって、それぞれが皇国仕様と共和国仕様って言うんだけど……。アタシ達が着てるこれは、まあ所謂皇国仕様で。んで、あっちの共和国人が着てるのは、共和国風仕様なんだ」
「制服なのに統一しないなんて」
新環境に怯えながらも発言する柚。だけどすぐに兄の背中に隠れる辺り、恐らくその一言を言うためだけにかなりの勇気を振り絞ったと見受けられる。
「『生徒達の自由と自主性を尊重します』って、確か生徒会長さんがそんなこと言ってたっけ」
「っけ! 単にどっちが皇国人で、どっちが共和国人なのを見分けたいだけだろうが。何が自由性だ」
露骨な嫌味を吐き捨てる光風の言葉に対し、たはははと苦笑する夏目。
共和国人と皇国人のハーフとは言え、皇国人に囲まれる環境にいるとどれだけ肩身狭い思いをしてきたのかが目に浮かぶ。
「んまあ、キミ達は自由に着ていーよ。こんな醜い争いに付き合わなくたっていーからね〜」
明快な声を最後に微笑を添える夏目に、駿之介は唇を引き結び、彼らの後に続く。両側に設置された四角柱型の行灯の行列を通り過ぎると、いつの間にか周囲の視線が集まる。
落ち着け、怪しまれないように振る舞っておかなければ。
心中で吼えても手の震えが収まるはずもない。けれどそれが、背中にくっついている妹に気付かれてしまった。
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