第六話 雲取山の夕べ

「なぁ、桃」

「なんだ」

「帰った時、なんで小屋の外から爺さんたちを呼ぶねん? 中に入ってからでもええやろ」

 桃太郎は、いつも小屋から間合いをとって「ただいま!」と叫ぶ。

「それはな、ばあちゃんがじいちゃんの腰を治している最中だからな。いきなり引き戸を開けたら驚くだろう」

「唐土(もろこし、中国)のあん摩です」

「いやアホか! お前らホンマに世間さまに目を向けて生きろや!」

 あの絶叫、エテ吉も飽きるほど聞いている。

 小屋で何が行われているか、猿でもわかるというもの。

 エテ吉は、桃太郎のそんな浮世離れしたところが心配なのだ。一方で、その擦れていないところが、桃太郎の魅力でもあった。


 三人は、弁慶の待つ、雲取山の頂上に到着した。

 そこは、山頂からやや下った平らな場所で、三十坪ほどのまあるい広場であった。その端には、粗末な小屋が三つほどある。

 早速、弁慶が出てきた。

「小僧ども、約束の品は持ってきたか?」

 弁慶は、弟子入りの条件として、鹿肉を持ってくることを彼らに言いつけていた。

 修行は、月に二度。

 新月から五日程度、満月から五日程度、泊まりがけで行われる。その都度、鹿を持参するのだ。

 三人で担いできた鹿を弁慶の前に、どさっと置いた。

「まるまる太ってうまそうだ。これえっ!」

 弁慶は、そう言うと奥に向かって、ぱんぱんと拍子を打った。

 すると、草むらから、ひょっこりと兎が顔を出した。それが合図かのように、ぞろぞろと兎ばかりが十数頭、弁慶の前に罷り出た。

「なんでございましょう。弁慶さま」

 先頭に傅(かしず)く、兎が言った。

「ウサミちゃん、夕餉はこれで頼む」

「畏まりました。あら、こちらの少年が、桃太郎? 随分立派な……、摩羅だこと」

 桃太郎の着物は、前がはだけ褌から釈迦如来がはみ出ていた。

 ウサミは構うことなく続ける。

「私は、雲取山の向こう、丹波山(たばやま)のウサミよ。たまに奥多摩にも寄るわ。で、この子達はわたしの子ども。ダンナと集落でワサビ田を作ってるの。よろしくね。じゃあ、さっそく悪いけど夕餉の支度を手伝ってくださいな」

 ウサミは、そう言うと子どもたちと桃太郎たちを急かして、夕餉の支度を始めた……。


 夕暮れ時の、雲取山……。

 広場の真ん中で薪を焚いている。

 一同、それを囲んで胡座(あぐら)をかいた。

 そこに架けられた鍋が、ごとごと、ぐつぐつと、静かに時を刻む。

「なぁ、桃よ」

「はい、師匠」

「今時分の刻限になると、麓から叫び声が聞こえるような気がするんだが?」

「あれは、ばあちゃんがじいちゃんの腰を治すときの掛け声だから、大丈夫」

「もろこしのあん摩です!」

「すげえ! こいつら、お師匠はんにも言い切りよった!」

 なら良いのだが、と言って弁慶は傍の刀を撫でた。

「師匠、周りにいっぱいある、あの刀はなんだ?」

 広場を取り囲むようにして、おびただしい数の鞘に収まった刀が、立てかけられていた。ここに来た時から、桃太郎は気になっていたのだ。

「うむ、これはな、俺が果たし合いで相手からぶんどった刀よ」

 弁慶は、自慢げに語り出した。

 

「師匠、すげえなぁ!」

 桃太郎は驚いた。

 弁慶は、昔から全国をわたり歩いて、剣に心得のある者と真剣勝負していたのだ。勝った方が相手の刀をいただく。弁慶は、負け知らずであった。

 桃太郎の感嘆の声に、弁慶は気をよくした。

「桃、お前がしっかり修行して剣を修めた時、一本くれてやるわ」

「本当か!」桃太郎は飛び上がらんばかりに喜んだ。「で、シロは何をやっているんだ?」シロの手元を覗き込む弁慶。

「はい。唐土の典籍を読んでおります」

 見ると四書五経とある。

「こりゃ、たまげた。大したもんだ。昨今の犬は漢籍を学ぶか」

「はい。これからの世は、学問ですから。いつか京(みやこ)にのぼって学問を修めたいと思います」

 そして浮かぬ声音で「でも、難しくて、学問の道は険しいですね……」と言った。

 その様子を見た弁慶は、思案した。せっかく縁があって弟子となったのだ。

 はて、師匠として何かしてやれぬか……。

「おっ、そうだ! これえっ!」

 弁慶は、ウサミを呼んだときとは別の方へ向けて柏手を打った。

「お呼びでございましょうか。弁慶様」

 どこからともなく低い声がする。

「おお、鋏之助。そなたに頼みがある」

「何なりと」

 声だけが闇に溶ける。

「そこにおる犬のシロに学問を講じてやってくれ」

「ほう、その方が我が主の眼に適った者か」

 シロは地面に鼻を擦り付けるように声の主を探った。気配はするのだが……。

 その時であった。

「痛たたたっ……!」

 シロは悲鳴を上げた。

 その鼻先を、大ぶりの蟹が、その鋭い鋏で挟んでいた。

 弁慶が鋏之助をつまみ上げる。

「鋏之助、ここは穏便に頼むぞ。シロよ、これにある鋏之助は、文武に優れた才があってな。古今の典籍に通じておる」

 蟹が犬に相対する。

「なぜ、学問を修める?」蟹が問う。

「桃が馬鹿なので、ボクが代わって学ぶのです」

 桃太郎は嬉しそうにシロの頭を撫でる。

「嘘やろ! シロ! そんなこと考えてたん!? 桃! お前、堂々と下げられてんねんで! 喜んでどうすんねん! 突っ込みが間に合わんわ!」

 ひととおり仕事の終えたエテ吉は、ごろんと仰向けに寝そべった。鋏之助は続ける。

「ふん、愚かな望みよ……」

 そう言い捨て、もときた草むらへ向かった。その背にシロは叫ぶ。

「先生!」

 蟹の足が止まった。

「お待ちください。ボクは犬畜生でありますが、どうか、どうか……」

 蟹の甲羅に積年の想いが去来した。

 沢で体を清めている時、「こいつ、横にしか歩けないんだぜ」と、人間に馬鹿にされた。

 ——仕方あるまい。虫、甲殻類ゆえ……

 またある時は、「どけいっ!」と、猿に放り投げられた。

 ——仕方あるまい。虫、甲殻類ゆえ……

 辛酸を舐め続けた日々……。

 ところが、今、人からはじめて「先生」と呼ばれた。

 まあ、犬なのだが……。

「先生!」そんな事情を露知らぬシロが、駄目を押す。

「よ、よかろう! 我こそは、鋏斬剣(きょうざんけん)雲取流の師範、第八十九代当主、蟹澤鋏之助(かにざわきょうのすけ)なるぞ!」

「先生! よろしくお願いします!」

「うむ!」

 鋏之助は、主人に似て世辞に滅法弱かった。


「エテ吉、どうだ?」

 弁慶が言った。傍では、早速、鋏之助が朗々と講じ始めている。

 エテ吉は迷っていた。そして、思い切って言った。

「お師匠はん、オレ……」

「みなまで言うな」

 弁慶はエテ吉を遮った。

「お前が望まずにここに来たことぐらいお見通しよ」

「………」

「なに、余興だ、余興」

「よ、余興?」

「そうだ。おかしげに桃たちと野山を駆けい。あやつらと離れたくないのだろう?」

「そ、それは……」

 図星を突かれたエテ吉。

「よいよい!」

 破顔一笑の弁慶。

 その大笑いが、エテ吉の胸のつかえを洗い流していた。


 鍋が出来上がった。

 鹿肉、アシタバ、大根がどっさり煮えていた。

 これに、すりおろしたワサビをつけて食べる。

「最初は、ピリッと来るんだが、それがミソよ。徐々に辛さが鼻に抜けて、脳髄に旨さが行き渡るのよ」

 桃太郎たちも次々と箸をつける。

「うめぇ!」口々に叫ぶ。

 そこにウサミがワサビが盛られた皿を弁慶の前に置く。

「どうぞ、弁慶さま」

「悪いね。ウサミちゃん」

 桃太郎は、山盛りのワサビを見つめた。

「弁慶さまは、インキンなのよ」

「ウサミちゃん、あんまり他所で言わないで」

 肩をすくめる弁慶。

 そして、指先でワサビをつまむと褌から取り出したふぐりに塗り始めた。

 ——むおおっ!

 弁慶の悶絶が響き渡る、雲取山。

 耳を澄ますと、あん摩の掛け声が遠くにこだましていた。

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