第ニ話 桃太郎

 太陽が真上に来ていた。


 夫婦は、十数年ぶりにまぐわっている。

 自分たちに子供ができた。

 しかも思いがけない出来事によって……。

 だからというわけではないが、昂りを抑えきれない二人は、営みをはじめてしまった。

 傍には着物に包まれた赤子が、気持ちよさそうに眠りに落ちている。


 熊一は、早撃ちとして集落で名を馳せた。

 早撃ち……。

 あっさりと絶頂に達してしまうのだ。その代わりかどうかは定かではないが、回数をこなすことができた。

 集落の者たちは、それを指して、彼を「早撃ちの熊」と呼んだ。

 その早撃ちは、四半刻もかからず、三回ほど気をやって果てた。


 この日の朝、早々に鹿を獲った熊一は、柴刈もそこそこに山を下りた。

 獲物を担いで小屋に帰ると、案の定、ヨネはまだ戻っていなかった。

 流石に疲れた。

 そう大きな鹿ではないと思ったのだが……。

 今度は、もう少し小ぶりの獲物を狙おう。胸の内が少し窮屈になる。

 熊一は、小屋の傍にある獣解体用の櫓に、鹿を逆さまに吊るすと、早速、刃物を握った。

 皮を綺麗に剥ぎ取り、腹を割いて内臓を取り出す。それを丁寧に筵に並べる。

 内臓は、しっかりと乾燥させて寺に納めるのだ。寺ではそれらを薬として調合し、人々の治療に使う。

 さらに、もも肉、胸肉などを手際よく切り分けてゆく。

 あらかた作業を終えたころ、遠くから、叫ぶ声があった。

「あんたっ……!」

 なにやら大きな荷物を積んだ荷車を、息も絶え絶えに引いている、ヨネであった。


 土間に安置されている、アレ……。

 どこからどう見ても、アレ、なのだが、にわかには肯定し難い。

 何せこの大きさである。

 また、その佇まいは、なにやら不気味であった。

 はて、どうしたものか……。

 ヨネは、疲れ切った様子で、洗濯場での一部始終を語り始めた。


 幻聴だろうか。

 気疲れが、耳をおかしくしているのであろうか?

 それとも寄る年波なのか?

 だが、確かにそれは、聞こえるのだ。


 ——ドン……、ドンブラ……、ドンブラコ……


 ドンブラコ?


 仏法に背く邪教のまじないか……。

 ヨネは恐る恐るあたりを見渡す。

 人の気配は無い。

 だが、


 ——ドンブラコ、ドンブラコ……。


 次第にその「音」は大きくなる。

 ヨネは思わず耳を塞いだ。

 それでも、はっきりと聞こえるのだ。

 いや、それは正確ではない。

 ヨネの頭の中だけで、ドンブラコが繰り返し、繰り返し鳴り響いているのだ。


 ヨネはここを離れるのが得策と思い、洗濯物を慌てて荷台に載せると、荷車に手を掛けた。

 その時、視界の端に奇妙なものが映り込んだ。

 桃色の、なにか、こう、丸みを帯びた……。

 好奇心がヨネをくすぐる。

 怖いもの見たさか。

 ヨネは、ままよっと、川上に視線を向けた。

 なにやら、大きな桃色の物体が川面に浮かびながら、ゆっくりとこちらに近づいてくる。小屋にある餅つきの臼ほどの大きさもあろうか。


 ——ドンブラコ、ドンブラコ……。


 その物体は、ヨネの頭に響くドンブラコに合わせるように、左右に揺れながら近づいて来る。

 それも川の中程から、洗濯場を目指すように流れてくる。

 まるでそうすることが予め決まっていたかのように、時には流れに逆らい、不自然な航路を描いて、洗濯場にそれは流れ着いた。

 間違いない。

 桃だ。

 それも、とびきり大きな……。


 はて、どうしたものか……。

 二人は板の間からしげしげと桃を見つめた。

 乳房のような丸みを帯びた佇まい。尻の割れ目よろしく、筋が縦にとおっている。

 なにやら甘い香りが、狭い小屋に立ち込めていた。

 間違いない。

 桃だ。

 それも、とびきり大きな……。

 その時であった。

 ぶるん、ぶるん……。

 大桃が小刻みに震え出した。

 驚いた夫婦は、「ひゃっ!」と短く叫んで抱き合った。

 暫くすると、ぴたっと大桃は震えを止めた。

 そして、ぱかっと綺麗に真ん中から割れる。

 そこから、ばっと何かが飛び出した。

 赤子であった。


 赤子は、板の間に仁王立ちした。

 くりっとした瞳に太い眉、股間には立派な一物がぶら下がっている。

 見つめ合う三人。

 庭では、鶏が忙しなく右往左往している。

 すると、赤子はみるみる涙目になり、

「あぎゃ! あぎゃ!」

 と元気よく泣き出すと、その場にしゃがみ込んでしまった。

 ヨネは慌てて着物を取り出すと、丁寧にその赤子を包み込んだ。


「あんた……」

「おまえ……」

 赤子の鳴き声がこんなに心地よいものなのか。以前は、煩わしくさえあったのに……。

 子のない者の疎外感……。

 いつの間にか二人は、それに取り憑かれていたのかもしれない。

 赤子はすでに泣き止んで、すやすやと眠っている。

「この赤子は、きっと雲取山の神様が、ワシらのことを憐れんで、授けてくださったに違いない」

 神妙な顔で赤子を見つめる熊一の傍で、ヨネは、何度も頷いて涙を拭った。

「あんた、名前はどうする?」

「そうだな……」

 熊一は、ヨネを見つめた。

 こんなにいいおなごであったか?

 熊一は思わず目を剥いて、ヨネを見つめた。

 長年連れ添って、互いに空気のような存在になっていたのかもしれない。そういえば、ここ数年、まともに顔を見ることも無くなってしまっていた。

 ともに住んでいるのに情けないことだ。

 早撃ちの心がはやる。

「そんなことより、おまえ……」

 力強くヨネの肩を抱き寄せると、着物の隙間に手を這わせる。

「嫌ですよ、あんた。赤子が起きます……ひゃんっ!」

「構うものか……!」

 ヨネは、頬を赤らめて、やんわりと熊一の手を払い除けようとするものの、はなから力など入れていない。

 ヨネもまた、満更でもなかったのだ。

 すやすやと眠る赤子の傍で、夫婦は営みを始めた。

 初春の昼下がり……。


 *  *  *


 アイとシユは、一所懸命に働きました。

 夜明け前に起きて、川へ行き、水を汲んで甕(かめ)を満たしました。

 夜明け前に起きて、厠の便壺をさらい、畑に蒔きました。

 夜明け前に起きて、縄を編みました。

 夜明け前に起きて、柴刈りをしました。

 夜明け前に起きて……。

 それでも里長は、ただ腹いせのために、兄弟に以前よりもずっと辛くあたりました。

 ある時は、兄弟の頬を殴りました。

 ある時は、兄弟の腹を蹴り上げました。

 ある時は、兄弟を何回も鞭で打ちました。

 ……そうこうするうちに、兄弟の胸に、なにやらおぞましい心の渦が芽生えはじめました。


 *  *  *


 さて……。


「名前なぁ」

 黄ばんだ褌を締め直しながら、熊一は天井を見つめた。

 彼は、指先で赤子の着物を捲ると、一物をしげしげと見つめた。

 立派であった。

 なにより佇まいに貫禄がある。

 後の話になるが、奥多摩から東に五里ほど行った五日市の和尚、柿珍念が、この一物を見て感嘆し、まるで釈迦如来のようだと、評した。

 褒めているのか、貶しているのか、真偽の程は不明であるが、なにやら器の大きさを予感させる、そんな存在感があった。

 熊一は手を打った。

「魔羅太郎! これだ!」

 土間におりて、甕から掬った水で、股間をびちゃびちゃと洗っているヨネに言った。

「嫌ですよ。あんた」

「じゃあ……、桃太郎か……」

「まぁ、そんなところでしょうね」

 こうして赤子は、桃太郎と名付けられた。

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