【シン・御伽草子】 第一巻「桃太郎」

箱庭師

第一話 ドンブラコ

 ——時は、平安……。


 武蔵国の奥多摩、雲取山の麓の集落。そこから徒歩で半刻(一時間)ほど行くと、その小屋に辿り着く。

 住み人は、熊一とヨネの老夫婦であった。

 二人には子が無かった。

 だからと言うわけではないが、何となく童の声の絶えない集落に居づらくなって、この人里離れた場所に移り住んできた。

 それから二十年ほど経つ。


 その日……。

 初春のその日は、冷気が肌を心地よく撫でる快晴であった……。

 雪解け水が、小川のせせらぎを賑わしている、清々しい朝。

 老夫婦は、朝餉を終えると、それぞれ土間で支度を始めた。

 ヨネは、着物類が詰められた籠に洗濯板を差し込み、それを担いだ。

「あんた、今日はどうするんだい?」

「そうだな、鹿撃ちをして、適当に山菜でも採ってから、柴刈りして戻るわ」

「そう、熊に気をつけるんだよ」

「おうよ」

 毎日、同じ会話であった。

 くる日もくる日も同じことを繰り返した数十年……。二人にとって、沈黙を、或いは、何かを埋める、そんなやりとりであった。

 鹿や猪は毎日獲れるわけではない。月に一頭、仕留めることができれば御の字であった。

 だが、一頭あれば、なかなか良い凌ぎになった。夫婦で口にする分以外は、干し肉や燻製にして保存し、集落に行くことがあれば、それらを持っていって穀物や味噌などと交換した。

 もちろん、定められた量の穀物や獣皮を、税として里長に納めることも忘れない。

 また、季節になれば、川に仕掛けを施し、鮎、ヤマメ、鰻などを獲った。

 畑を耕し、根菜類、瓜類などを栽培し、梨、柿、栗などの果樹の世話をして暮らしてきた。

 日の出とともに起きて、日没になると眠る。

 季節の移ろいを歓び、穏やかに時が流れる……。

 そんな生活であった。

 あんな物が川上から流れて来るまでは……。


 熊一は、山深いけもの道を慎重に歩いていた。

 特に雪解けのこの時期、冬眠から目覚めた熊が餌を求めて彷徨っている。警戒を怠ると、即、命取りである。

 とはいえ、彼にとっては勝手知ったる道なのだ。気配を消して、物音立てずに歩くなど朝飯前であった。

 山の中腹に差し掛かった時、熊一はふと目線を下げた。

 ——しめたっ!

 眼下に、細いけもの道がある。その道の脇は、崖というほどではないが、土手が麓の方向へ転がり落ちている。

 オス鹿が、その道端の木にツノを擦り付けていた。

 どうやらツノ研ぎに夢中で、熊一にはまったく気がついていない。弓を撃ち込むにはちょうど良い塩梅であった……。

 付け加えると、その獲物は、手頃な大きさであった。あれよりも大きければ、場所にもよるが、狙わない。せっかく仕留めても重すぎて持ち帰ることができないからだ。

 この歳で無駄な殺生はしたく無い……。

 熊一は、背負ってきた弓に矢をつがえると引き絞った。

 ギリッ、ギリッ……。

 いっぱいに引き絞る。

 ふと、ほんの一瞬のことであるが、脳裏にある思いがよぎった。

 自分はいつまで狩りができるのであろうか。

 夫婦とも五十を超えた。この時代、五十代といえばまもなくお迎えが来る、つまり寿命であった。

 年々、体力の衰えを感じるのだ。それは仕方のないことであった。

 人として生を受けたからには、いつか肉体は、山に還る。

 熊一には、望みがあった。

 できることなら妻を見送ってやりたい……。

 問題は、妻より先に、自分にお迎えが来た時だ。

 遺された妻はどうする。

 集落から離れて、親戚もすっかり縁遠くなった。

 集落に降りた時は、出来るだけ親戚筋に顔を出し、他の家よりも多めに干し肉などを分けた。

 その意図は察してくれているはずである。

 だが、親戚筋も子供の世代になっており、子育てに忙しく、多分、山奥の婆さまの面倒どころではないだろう。

 熊一は、雑念を振り払うかのように首を振ると、矢を放った。

 ヒュッ……。

 矢は見事に鹿の首元を捉えた。鹿は驚いて仰け反ると、けもの道から足を踏み外した。

 ごろん、ごろん、ばちんっ!

 土手をもんどり打って転げ落ちた鹿は、途中、大木にしたたかに頭を打ちつけ、失神してしまった。


 *  *  *


 五百年前、飛鳥時代——。

 大和の国は、大地震に見舞われました。

 両親が建物の下敷きになって亡くなってしまった、双子の兄弟、藍(アイ)と朱(シユ)は、里長(さとおさ)に引き取られて暮らしていました。

 ——こら、シユ! 何度言ったら分かるんだ!

 米とぎがままならない弟のシユは、毎日のように里長に叱られていました。

 里長は、いつもこの兄弟に辛くあたりました。

 時には、平手で兄弟をぶちました。

 ——ごめんなさい! ごめんなさい!

 兄のアイは、弟に代わって何度も謝りました。

 ある日、隣の家のセツという女の子が、二人に言いました。

 ——里長は、欲深いの。あちらこちらの家から、税だって言っていろいろ持っていくのよ。でもね。怒ってはダメなの。これは仕方のないことなの……。

 セツは、くりっとした瞳とぷっくりとした唇が愛らしい女の子でした。少年たちと同じ歳の頃のこの少女は、悲しそうに首を振りました。

 ——だからね、わたしたちだけでも慎ましく正直に暮らしていかなくちゃいけないの。

 でも、アイは、合点が行きません。

 自分たちも里長も同じ人間のはずです。

 その額には、青筋が立っていました……。


 *  *  *


 ヨネは、川に着くと籠をおろした。

 川辺のいつもの場所に置いてある桶を掴むと、水を汲んだ。そして同じく置きっぱなしの荷車にそれを乗せた。

 山奥である。

 訪ねてくる者などいない。農作業の道具など畑の近くに置いておけば良い。物取りに遭うこともないのだ。

 ヨネは、今度は大きめの桶に水を満たすと、そこに持ってきた着物類を浸した。

 そして荷車を引く。

 川辺から目と鼻の先の畑にやって来た。洗濯の先に農作業を済ませるためだ。

 作物に、汲んできた水をやる。

 大根、蕪、あしたば、マクワウリ……。

 ヨネは、根菜類は漬物に、あしたばはお浸しに、などと献立を思い浮かべながら、鼻歌を唄う。

 そうして食べる分だけを収穫し、荷車を引く、ヨネ。


 いつもと変わらない、朝の農作業……。


 川辺の洗濯場に戻ったヨネは、桶の前にしゃがみ込み、水によく浸った着物類を洗濯板に載せて、じっくり、じっくり擦り始めた。

 じやっ、じやっ、じやっ……。

 旦那の褌(ふんどし)を擦り上げる。五年ほど使っているだろうか。黄ばみが取れない。そろそろ新調したほうが良いのだが……。

 新調か……。

 あと、何度、褌を新調できるのであろうか。

 それは、あと、自分も旦那もどれぐらい生きるのだろうか、という自問でもあった。

 出来れば先に旅立ちたい。愛する人に見送って欲しいのだ。

 でも逆になったら……。

 ヨネから嘆息が漏れる。

 やがて、四半刻(三十分)ほどで洗濯はあらかた終わった。

 立ち上がり、手拭いで額の汗を拭う、ヨネ。


 いつもと変わらない、朝の洗濯……のはずであった。


 ——その時……。

「……?!」


 ——ドン……、ドンブラ……、ドンブラコ……。


 すわっ、邪教のまじないか……?!


 人が来るはずのない山奥……。

 聞いたことのない言葉……。

 金縛りにあったかのようにヨネは、かたまった。

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