第39話 海辺を駆ける馬

 リリィはチュール生地の藤色のドレスに着替えて赤いべにを引いた。身内でのお祝いである。気分が華やいで、おしゃれがしたくなった。


「いつもの指輪は?」

 レイチェルが鏡台の上のリロイの指輪を見て言った。


「今日はつけなくていいわ。人の目がある時だけなの」

 リリィが幸福そうに微笑んで言った。


 二人が出かけようとした時に、アレックスが来た。リリィがクスクス笑いを助長じちょうさせ、レイチェルが膝を折ってお辞儀する。〈崖の家〉から迎えに来たのだという。


 三人は〈皇妃の館〉を出て、長いゆるやかな下り坂を歩いた。レイチェルは皇子を前に、何となく気づまりな顔をしていた。


「マティアスも来てるの?」

 リリィが訊ねる。


「もちろん。メアリーは?」

 アレックスが向かい側からやってきた荷車を見ながら言った。


「後でジョンが呼びに行くわ。今はお母様のところにいるの。メアリーとマティアスの婚約は破談はだんになっちゃったけど」


 アレックスは鷹揚おうような笑い声を上げた。

「あれは父上が慌てて考えた縁組で、トルナドーレ卿には知らされてもいなかったみたいだね。茶番ちゃばんとはいえ、マティアスも残念がってる」


「私だって残念よ。二人っていい恋人になったと思うの。昨日で白紙に戻っちゃったわ」

 リリィがそう言って芝居がかった嘆息たんそくをもらした。


「メアリーときたら」

 アレックスが面白がって言う。


「あら。でも今回のはメアリーのせいじゃないでしょ。お兄さまったら、何でもかんでもメアリーを槍玉やりだまにあげるんだから。まるでメアリーに恨みでもあるみたい。それよりもトマス卿って、いやな、冷徹れいてつな人ね」


 〈風と波の宿〉にはマティアスといつもの使用人しかいなかった。マティアスは居間の窓辺にたたずんでいる。四人でミントティーを飲み、さくらんぼパイを食べた。甘酸っぱいさくらんぼとサクサクのパイ生地に、リリィはどうしようもなく幸福になる。部屋中に香ばしい匂いが広がっていた。


 アレックスとレイチェルは同じ長椅子に座っていたが、まるでお互いの存在に気づいていないかようだ。皇子の方はマティアスと同じ、窓の外を見ているし、レイチェルは部屋の空気と同化しようとしているかのように、宙を眺めている。


 リリィは立ち上がって、マティアスの隣に行った。

「あなたとメアリーが結婚しなくて残念だったわ。今朝けさの騒動、知ってるでしょ」

 声を低めて言う。


「メアリーのためなら喜ぶべきだな。それより二階に行こう。ちょうど君に見せたいものがあるんだ」

 マティアスがチラリとアレックスを見て言った。アレックスは上の空の様子である。


 リリィはマティアスについて階段を上がった。この館は階段が狭いのが難点なんてんである。ドレスを着ていては早く上がれない。マティアスは時々後ろを振り向いてはリリィが追いつくのを待った。


 リリィはマティアスの寝室に通された。書見台と寝台以外は何も置かれていない、薄暗い部屋である。


「君はアレックスに剣術を教わっているよな。僕は、その寝台の上の剣はもう要らないから君にあげるよ」

 マティアスが静かな口調で言った。


 リリィは瞬きし、マティアスの沈んだ表情と寝台の上の剣を交互に見る。剣は中くらいの大きさで、リリィの腕くらいの長さはあった。つかには銀が使われている。かなり立派な剣だ。皇女には大き過ぎるし、立派すぎるくらいだった。


「これって素敵だわ。素敵すぎるくらいの贈り物。でもどうしてくれるの?今日はメアリーのお祝いの日でしょ。どうしてこれが要らなくなったの?」


「メアリーにあげようとしても、使えないからね。当てつけみたいになってしまう。僕は祖父のもとに帰るんだ。元から僕がここにいるのはトマス家の婿むこになるためだったんだ。それが気づいたら、本気でメアリーを好きになっていたわけさ。メアリーって恐ろしい人だよ。ところが、今朝、皇帝と宮廷の面前めんぜんであんな侮辱的な断り方をされてしまって、全てが終わってしまった。僕はゆるせても、祖父は赦さない。プライドの高い人だから。その内、この騒動は祖父のところに伝わるはずさ。遅かれ早かれ。僕は祖父の命令より早く、命令に従うわけだ」


 暗い、情けない感じの口調だった。


「全てが終わったわけじゃないわ。メアリーだって、あなたのこと、邪険にしたことないでしょ。結婚なんて話、いきなり言われて決心のつくものじゃないわ。特に女ならね。またやり直せるのよ。お祖父様は皇帝からの提案ともなれば考え直さずにいられないでしょう?」

 リリィがいたたまれなくなって言う。


「いや、リリィ、全てが終わったんだ。メアリーが愛してるのは僕じゃない。アレックスだ。今は落ち込んでいるけれど、本当のことがわかって諦めがついたよ。君は優しいから本当のことは教えてくれない。つくづく思うんだ。メアリーは君にふさわしくないって。君も、恋に狂った馬鹿な男たちも、だいたいは逆のことを考えているけれどね」

 マティアスがそう言って、窓の外を眺めた。


「メアリーが皇女ならいいのにって時々思うのよ。逆の立場だったらね。でもマティアス、帰るにしても、永遠の別れじゃないでしょう?私がイリヤの皇女でいる内に戻ってきて。可哀想な人!私があなたと結婚できたらいいのに」

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