第36話 トマス卿
翌朝、リー・トマスが娘の寝室に召使いをよこしたが、メアリーは部屋にいなかった。皇女の寝室にいたのである。
宮廷人たちの朝食は〈皇帝の宮〉の大広間で行われる。リリィとメアリーとアレックスの三人は連れ立って、大広間まで歩いていった。アレックスは顔を洗った以外は昨夜と同じ服装である。メアリーはリリィのドレスと化粧道具を無断で借りて、
「『カンティノン妖精の歴史』、読んだ?」
リリィは昨夜兄に貸した本の感想を、早く共有したかった。
「
アレックスが庭にはみ出してきた小石を蹴る。
「全部が本当だとは思わないけれど、一個くらい真実が
「本当だ。あれは馬鹿げているよ。子どもだましにもほどがある。妖精の存在さえ疑わしいのに、ドラゴンが出てきてはね」
アレックスが勢いづいて言う。
「ああ、でもその話、本当だったらいいのに。孤独なドラゴンにはその妖精がちょうどいい相棒じゃなくて?ねぇ、そう思わない、メアリー?」
思案顔をしていたメアリーがハッとして二人を振り向いた。
「ドラゴンですって。ずっと遠くまで探しに行かないといけないわ」
大広間は普段通り、たくさんの料理とたくさんの人で溢れていた。三人は女官に案内されて、上座についた。リチャードはもう来ていて、貴婦人と話しながら、ハーブ、にんにくとシナモンで味つけした鶏料理を一皿平らげている。ヘレナはまだ来ていなかった。
アレックスはミルクと黒パンを片手に、父親と同じ鶏料理を食べている。朝から
「メアリー、ちゃんと食べてちょうだい。それじゃあ、貧血起こして失神してしまうわ」
リリィが言う。
するとメアリーが目を見開いてリリィを見た。
「リリィ、あなたリロイの指輪を忘れてるわ」
今度はリリィが目を見開いて、メアリーを見る番だった。いつもだったら、メアリーが大広間に入る前に教えてくれるのに。
リロイの指輪はイリヤ皇帝の長女が
「ああ、いけないわ。父がきた。知らせに来るのよ。アレックス、助けて」
メアリーが隣にいたリリィの手を掴んで言った。
トマス卿がまっすぐメアリーの方へ向かってくる。陰気な顔をしていた。当然だが、リリィはメアリーを助けることはできない。助け舟を出してくれるように思われたアレックスは制止してトマス卿相手に何も言わなかった。メアリーが必死になってアレックスを見つめていたのにも関わらず。
「お父さま、ご機嫌よう」
メアリーがなんとか陽気に振る舞おうとして言った。
「メアリー、今日の昼前にここを発つ。朝食はやめて今すぐ荷造りしなさい。口答えは許さない」
リーが変わらず陰気な口調で言う。
「お父さま、そんなの。まだ春なのに。すぐに帰れるんでしょう?」
メアリーがパニック状態でほとんど泣きそうになりながら言った。
「いや、ここを発ったら二度と宮廷には戻ってこない。お前の母親も一緒に帰るんだ。それかお前とマティアス・トルナドーレの婚姻を待って、アビゲイルと私だけで帰るかだ。マティアスと結婚したら、二度と母親には会えないがな」
トマス卿が冷淡に言い放つ。
メアリーは
「お父さま、私マティアスとも結婚できないし、宮廷を去る気もありません。どうして私一人ここにいてお父さまの迷惑になるんです?お願いですから、そんな非情な命令をしないでください」
メアリーが切々と頼み込む。こんなのでリー・トマスの心が動くわけないと知っていたのだが。
「お前には二つの選択肢があるんだ。マティアスと結婚するか、それともエル城に帰って母親と運命を共にするかだ」
父の変わらぬ物言いにメアリーも黙った。無駄なのだ。どちらかを選ばなければならない。
アレックスが静かに立ち上がった。
「あなたにはそんなことをする権利はない。メアリーはここに留まり、然るべき配慮を受けるべきだ。少しでも娘への愛情があるのならそうするはずだ。エル城に連れ帰ってメアリーが何を得る?あそこは女の暮らせる場所じゃない」
リーはアレックスの言葉に顔を真っ赤にして
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