第2話 アレックス皇子

 兄のアレックスは軟禁生活の不満を聞いても、妹の髪をぐしゃぐしゃにして豪胆に笑うだけだ。

「可哀想にな。リリィは一人きりで外出するどころか、寝ることさえ許されないんだから」

 こんなふうにアレックスにからかわれても、せいぜい膨れっ面して腕組みするくらいだ。リリィは腹違いの兄が大好きだった。生まれつきの明るい性格や機転のきいた立ち回り、妹にだけ見せる温かい思いやり。ハンサムで、背が高い。優雅な金髪は波打っており、目尻のあたりにできた笑い皺が魅力的だ。


 イリヤの宮廷では、アレックス皇子は貴族の令嬢たちの憧れの的だった。舞踏会での洗練された身のこなし。皇子が女性に粗野な態度を取ったところなど誰も見たことがない。それから隙のない剣さばき。馬上槍試合はアレックス一人のための見せ場だと言っても過言ではない。


 皇女の兄への愛情は深かった。時々どうしようもなく心配になるくらいに。

 兄は外国に遊学に行ってから変わってしまった。いつも通り快活ではあっても、時折一人で黙り込んで暗く沈んだ目つきをする。一気に老け込んでしまったような気がするのだ。リリィは何があったのか聞けなかった。アレックスも遊学の間に起きたことを言うのを避けている。だから、兄には細やかで健気な愛情を向けるしかなかった。


 イリヤ帝国の皇帝には三人の子どもたちがいた。長男アレグザンダー、長女リリィ、次男ウィリアムである。その内長男のアレックスだけ母親が違った。リシャールの前妻、イライザである。イライザはイリヤの皇帝と結婚するに相応しい家柄の娘であり、夫には誠意を尽くしていた。妻として、皇妃としての義務を果たし、リチャードを愛していたはずである。ところがある日、地方貴族の娘のヘレナが宮廷に現れ、イライザから平穏と夫と地位の全てを奪ってしまったのだ。

 前妻は泣く泣くイリヤの宮廷を去り、母と共に修道院にこもった。宮廷人の多くがイライザに同情したはずである。しかもヘレナは皇帝に出逢った当初、人妻だった。皇帝を誘惑し、夫だった男を捨てたのだ。皇妃になって15年経った今でもヘレナを悪く言う人は多い。娼婦や魔女と言う者もいた。

 リチャードは皇位継承者を長男のアレックスと決めていた。生まれにしても、統治者としての教育や才能にしても、アレックスの方が良いのである。だが、ヘレナは公然とアレックスを嫌っていたので、そんな未来を赦せるはずがなかった。次の皇帝は私の生んだ子、ウィルこそが相応しいのだと、毎晩夫の寝物語に聞かせる。あなただってウィルの方を可愛がっているわ。どうしてウィルに帝国を譲ってあげないの?

「それに私たちがいなくなって、アレックスが皇帝になったら、ウィルはどうなるのかしら?アレックスは弟を嫌っているのよ。殺されるかもしれないわ」

 アレックスがウィルを嫌っているなんて、根も葉もない。二人は会ったこともなかった。ヘレナが執拗に赤ん坊をアレックスから遠ざけたためである。

 リチャードはウィリアムを皇帝にするのが妻の達っての願いであったとしても、話半分にしか考えていなかった。イライザとの離婚もヘレナとの再婚も、内心では失敗だったと思っている。ヘレナは自分勝手で堕落した女だった。だが、今更ヘレナを離縁する理由もない。離婚を強行としようとなると、気の強い女だ。何をしでかすかわからない。

 とはいえ、継母のせいで、アレックスの皇位継承権が危うくなっていることも事実だった。リチャードはヘレナの口出しに意見を変えるつもりなど毛頭ないが、自分の死後のことまで保障できるわけではない。皇帝は自身の右腕であり、敏腕の政治家のテリー公をアレックスの側に置き、後ろ盾になるようにした。

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