女性社会

ごいし

女性社会

あなたは、良さそう。

あっちは、いまいち。


選ばれるものと選ばれないもの。その違いは、生命の意義に関わる。選ばれることは、遺伝子を残す可能性そのものだからだ。女性が配偶者を選ぶ権利が認められ、それが当然のものとなった今、女性のために生きることが男性に産まれたものの意義である。


だるい。男性に産まれたからって、こんなに品定めされる日常を送りたくはなかった。職場でも、趣味でも、人の目を惹くものがあるか、男はその点だけを見据え、目の色を変えて、打ち込んでいる。そんな欲望に忠実ながらも、どこか真摯な同士達を見ると、いい相手に認められて欲しいと思う。

おれは、そうでもない。男性としてのランクは低く、最低限の生活だが、案外気に入っていて、これ以上のものを求めるつもりはない。楽しくやるのが一番だ。水は飲める。食料も型落ち品だが、届く。番組もニュースとドキュメンタリーあたりが見れて楽しんでいる。

サービスは、月ごとに更新のシステムだ。月ごとに料金を先払いして、週ごとに受けとることになる。さすがに品質は料金の影響が大きい。上質な野菜などを頂けるサービスになると、なかなか値が張る。サービスのランクを上げるには、収入を上げること。支払う金があれば、契約内容を更新できる。そして、もう一つ、男を上げる方法もある。つまり、女性に気に入られるということだ。それこそが、今の社会で何より価値のあることである。


気ままに歩いているだけで、品定めされる。服装、顔。常に採点される毎日だ。そして、男として評価されるための情報は、データベースに載せられている。何をどの程度評価されて、どの程度のくらしをさせられているか、丸見えだ。与えられている仕事、趣味、習い事や、ボランティアへの参加歴の有無など、社会的活動の面は当然のこととして、人格面もその特徴をまとめられたものが情報として扱われている。平たく言うと、強制的にお見合いサイトに登録させられている。


ただ、可能性というやつを重んじているらしく、切り捨てられたりはしない。きちんと生かされている。サークルだのボランティアだのの紹介もしてくれるし、仕事のマッチングまで、世話してくれる。病院にかかるのに金はかからないし、何なら趣味の展覧会をやっているだけで生活しているやつもいる。才能と能力を何かの形で発揮していれば、生きることに文句をつける人はいない。ただ、常に評価され続けるだけだ。「男性」としての価値は何なのかという視点の中に生きる他ないということ。そして、選ぶのは「女性」だということ。


そして、可能性のチェックのために、定期的に面談やらテストやらを受けるのである。


言語能力、数的論理、幾何、物理、歴史、などなど。

これらは、どんな知識を持っているのかを計るものであって、満点を取るようなものではない。年表を埋められるだけ埋めろなんて問題を出されたりするし、どこぞの誰かわからない方のエッセイだの、絵画だのについて述べろなんてことも言われる。資質を計るために手当たり次第、質問してくるようなものだ。どんな基準で判断しているかは知らないのだが。


そして、面談である。

他愛のない日常について、お聞きになってくる。

根掘り葉掘り。

起床時間を覚えているか、とか。食品の購入履歴を見ると栄養の偏りがあるとか。最近、趣味の活動が滞っているようだが、それはなぜか、とか。悩みはないか、決断を迷っていることはないか、興味を持っているのに踏み出せないことはないか、など。

生活で、選択したことは、だいたい聞かれる。なぜそれをしたのか、と。


答えないのもひとつだが、あまりに黙っていると、今度は心理療法の必要ありと判断される。興味関心、熱意の欠如、精神状態に不健康ありと見なされるわけだ。

女性に選ばれることを夢見て、自分を磨き続けることが、この世の健康な男子なのである。


かと言って、下手に偽るのもつらい。絵を描こうかなと思っているなどというと、さあ大変だ。どこぞのサークルが近いだの、近所に絵描きがいるから親交を持てだの、生活スタイルのプランをあれこれ提示されて、また、返答に困ることになる。それこそ、支配と監視の恩恵を受け、精神療法のお世話になった隣人もいるくらいの圧迫感である。


さて、自分はと言うと、どうも本を読みたいというのが一番、無難らしく思えて、読んだ本がほどほど楽しいと答えることが常である。その話をしていると、おすすめの本など教えてくれることもあるので、まあ、無難である。読みたくなければ、いや、難しくて読めた気がしませんと言えばいいだけのこと。まあ、面倒なところというと、読書会や感想の発表などを勧められ続けて、最近ようやく、手をつけ始めたというところである。心理カウンセリングに時間を使いたくないのでね。


そんな自分も、勧められた社会活動に参加していると、女性様と関わる機会はあるものである。完全に男性と女性とが隔絶された生活をしているわけではなく、組織や団体の活動には、必ず異性との関わりがある。読書会にいくと、必ず男女混合のグループに分けられ、本から感じたことを語り合うのである。


ただ、そこから個人的な関わりを持つに至るには、政府、お役所からの通達を貰わなくてはならない。


女性から、興味があると申請をして、役所で審査をして、男性に声がかけられましたよ、という手順を踏むのである。


そして、仲介者のいるところで、まずお話をする。

それで、話が合うようであれば、どこぞにデートなぞ行くのである。

女性側で大変そうなのは、逐一、お役所に報告することだ。政府としては、関係が破綻することに関しては極力避けたいようで、相性というものをしっかりと判断したいらしい。男性は、女性の不満や不安が政府に伝わった場合には、答弁の機会を頂き、釈明のために延々と質問責めを受けるのである。


管理の面倒さはあるものの、政府の目があることがどうも良いらしく、男性は粛々と応じるらしい。それはそうと思うところは、断れば、また不健康男子の烙印と共に、哀れみを受け、病んでいるらしい精神を癒していただく面談づけの日々になるところだ。


試験に面談。何を計っているのだろうか。

科学によって、法則を発見し、それを使って文明は発展してきた。人の営みとは、世界と向き合うことそのものとなっているのかもしれない。それが、世界を支配するような方向に動いているような気もするが。その支配の中に、この仕組みも入っているのではないだろうか。人が人と共に過ごす、そこに発展のための効率や合理性を持ち込むことで、排除されているものもあるのではないだろうか。


愛するとは何だろう。人の探究する性質を客観的に計り、それをもとに好みを選ぶ。別にそれ自体は悪と言いきることなどできないのだが、何かを失った仕組みに思えてならない。法則を明らかにして作り上げた文明が、人間性というものを締め上げているように思えてならないのだ。それゆえに、私はこの仕組みに対してどこか消極的姿勢を取っている。

逆説的に、女性もまたその人間性を捨て去っているように思える。子を産むこと、それを重要視するあまり、ひとつの装置のような立ち位置に、自らを落としこんでいるように思える。

人は発展の道具ではない。発展とは、人の営みから生まれるのであって、発展そのものを目的としたとき、人は物質化していくのである。欲望を具現化するために、自己の存在を捨て去り、飢えの中に身をおくのである。


装置となった人は、飢えしかない。


発展のための、優れた遺伝子の優れた特徴を追い求める姿に、底知れぬ飢えを感じるのである。


人は輝かしさに目がくらむことしばしば。良いと思ったものには、盲目なのである。


さて、これを話せば、不健康と言われるのだろう。

配偶者と発展を望まない病的な価値観を持つ者として。


そろそろ面談の時間だ。


価値に当てはめられる人間の人間たらんことを。

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女性社会 ごいし @goishi

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