国語・算数・理科・社会に給食
@qoot
1時限目は国語
《20××年6月15日(金)晴
明日は中学最後の運動会。悔いが残らないようにと学年中が異常なほど盛り上がり、今日が最後の最後とクラスのみんなで猛練習。応援団は男子も泣いていた。でも運動会なんて超が無限に付くほど嫌い。なのに天気予報はどのチャンネルもくもり時々晴。神様お願い、朝起きたら雨に!運動会を中止に!》
ゆかりと日記との出会いは小学校の4年生になったその日だから、ネズミの襷がアンカーのイノシシまで繋がった、つまり日記経験は今年で12年目ということになる。
書き始めの頃は何を書いていいやら皆目分からず、初日こそ日記を書くことになった経緯や日記に対する思いが綴られているが、2日目はもうこんな風であった。
《朝は7時に起きて、トーストとスクランブルエッグを食べた。歯を磨いて顔を洗い、ランドセルから昨日の教科書とノートを取り出し、机に貼った時間割りを見ながら今日の授業の用意をした。「昨日のうちに準備しなさいって何度言ったら分かるの」と言いながらママが髪の毛を結んでくれた》
“一日の日記が朝のことだけ?”“週に4日はこんな日じゃないの?”と突っ込みたくなるが、当時のゆかりはもちろん大真面目に書いていた。
日記を始めてから数ヶ月が経っても、書きたくないと思う日はそれこそ毎日であった。“今日は体育の授業で疲れた”からとか。“少し熱っぽいので早く寝るようにとママに言われた”からとか。決して怠けたいんじゃないんだ。書きたいけど書けないんだという理由を毎日探していた。
それでもどうにか途切れることなく地味な大学ノートに書き続けた。ただただ毎日同じ時間に大好きな大沢先生と同じことをしていたい。中学になって大沢先生に会えなくなってからもゆかりはその一心に支えられて書き続けて来た。
ずっと愛用しているB5サイズ7ミリ幅の大学ノートは字を割に大きく書けるので、日々新しい漢字を覚えて見様見真似で書く小学生のゆかりにはとても使いやすかった。覚えたての難しい漢字は不自然なほど大きく書きがちだ。
ゆかりは一冊分の30枚60ページを一年間で埋め尽くすことを目標に定めた。ということは毎月5ページだから案外容易いことではないかと思いきや、いやいや一日当たり5〜6行を書き続けなければならない。毎日のことだからこれは結構キツイと言って良い。
飽きっぽい性格のゆかりでも、毎日続けていれば、次第に日記の面白さが分かるようになった。一冊目を書き上げた時のちょっとした達成感は、ゆかりが大人になっても忘れることはなかった。やがて日記は寝る前のちょっと気の進まない歯磨きのようになり、かけがえのない親友時代を経て、日記を書かなければ明日が来ないと感じる程の存在になったのである。
《20××年6月16日(土)雨のちくもり
ミラクル!ラッキー!朝起きたら運動会が中止には十分な雨。テレビでお天気おねえさんがごめんなさいと謝っている。どういたしまして、ありがとう!“運動会は延期”と早朝に連絡用のライン。“明日もし出来なければ今年は中止”と校長先生のコメント。明日はくもりの予報、もう一度はずれて雨になれ!運動会よ中止になれ!》
ゆかりが中学3年のゴールデンウィーク。ある日の日記には《ジモジョからジモタンなんだろうな》とそんなことが書いてある。ジモジョとは自宅から自転車で通える地元の女子校で、いつの頃からか略して皆んなこう呼んでいる。そしてジモタンは隣にあるその系列の短大のことである。
この進路には卒業後を見据えた積極的な理由なんて何もない。「ねぇどうするの?」「ジモジョからジモタンかな」「右に同じ」「だよね」この時期になると学校中のあちこちで飛び交う会話、中位の成績で中の上から上の下クラスの家庭にありがちな進路選択である。
ある程度予想はしていたが、これほど激しく反論されるとは。ゆかりの考えなど全く聞く耳持たず、安易な選択を教育熱心な母親は絶対に認めなかった。自分たち夫婦の学歴はひょいっと棚上げし、東京の有名私立大学以外は絶対にダメと言う。いや学歴による自らの苦労と悲哀を知るからこそ、子供には同じ思いはさせたくないという信念なのだろう。無名の短大と有名私大では、卒業後の選択肢で量と質が圧倒的に違うと言うのだ。その差は結婚にも、子供の進路にも、そして老後の暮らしも大きく左右すると。
本人に何の相談もなく母親が勝手に申し込んだ進学塾。アイドルでもないのに人権無視の恋愛禁止。それもこれも5年前に新設された“ジモジョ名物S組”のため。2年のクラス替えで進学コースであるS組に選ばれるために、母親が矢継ぎ早に私のまだ見ぬ高校生活に縛りをかけて行く。“ジモジョS組”から東京の有名私大へ。険しくとも栄光への近道はS組ルートが絶対条件である。「ジモタンなんてとんでもない」この頃の日記には頑なな母親や何も言わない父親への不満が連日のように綴られていた。
《20××年6月17日(日)雨
運動会、今年はとうとう中止に。もうこれは偶然ではない。天気予報をハズレにするほど私に超能力があるのか、それとも日記に不思議な力があるのか。証明は簡単、試そう。何かを願いここに書く。でも直ぐには思い浮かばない。明日じっくり考えよう。》
ゆかりの母親はジモジョからジモタンを経て、もちろん当時この言い方はまだなかったが、大手食品メーカーの地方営業所に地域限定社員として就職した。自宅から自転車で通えること、そのメーカーの調味料を長く愛用していたことが決め手であった。どうせ数年働いて社内恋愛して寿退社するなら、二十歳そこそこで勤め始める方が容姿だけでなく若さでも大いに売り込みが出来る。
事実入社当初は「早苗ちゃん、早苗ちゃん」と呼ばれて皆んなから可愛がられ、ちやほやされもした。たまに支社からやって来る担当者はいずれも眩しい程のエリート達。会議室にお茶を出し、嫌味にならない程度の演技で可愛くあいさつする。「ここに来る楽しみが出来たな」などと言われ、打ち合わせ後の飲み会には引っ張りだこ。これなら選び放題と期待が膨らむが、やがて勘違い、世の中そんなに甘くないと思い知らされることになった。
元々ゆかりの母親は、ジモタンに入学するまではどちらかと言えばのんびりとした性格であった。ところがジモタンを卒業した先輩がぱっとしない会社に就職し、やっと社内結婚が出来た相手はこれまた平凡を絵に描いたような男ばかりであった。裕福どころか、平均的な暮らしすら望めない。
そんな例をいくつも見聞きするにつれ、一度の人生がこれでは哀しいと、英会話教室に通い、ビジネスに有効な資格も取得した。その努力が報われたのか、地域限定社員とはいえ有名ブランドを持つ大手食品メーカーに入社することが出来たのだった。
ここに勤める男性なら結婚相手としてはまず間違いない。多少歳が離れていても、見た目が冴えなくても、出世出来そうな人を選ぶ。豊かな暮らしをしたいのはもちろんだが、専業主婦になって子育てに専念したいというのが一番の理由である。子供には十分な教育と習い事をさせ、早くから将来の幸せのための準備をさせなくてはならない。
そのためには高収入が期待出来る相手を見つけなければならないのだが、努力と期待も虚しく、ゆかりの母親はどんなに頑張っても営業所長止まりの同じ地域限定社員と結局結婚したのであった。支社や本社のエリート達は、地域限定社員などはなから結婚の対象とは見ていないのだ。出張先の若くて可愛い女子社員との飲み会は、ガールズバーでちょっと遊ぶ程度の、しかも会社の経費つまりは無料で、という感覚らしい。
《20××年6月18日(月)くもり
何を書こうか。確率の高い願いごとでは実現しても確信が持てず、かと言って絶対に起こりそうもないことじゃ結論付けられない。いや超能力か不思議な力かも知れないのだから、いっそ明日雪になれとか、パパが突然社長になれとか。いやだめだめ。起こりそうでもあり簡単には起こりそうもないような、そんな願いごとってないかな。迷う。もう眠い。明日にしよう》
ゆかりは小さい頃から飽きっぽくて何事にも消極的であった。楽しみにしていた女性アイドルグループのコンサートでさえ、当日の朝にはやっぱり行きたくないとぐずった。何とか開演には間に合ったものの、今度はコンサートの途中で帰りたくなって来た。一緒に行った母親と兄がノリノリだったのでアンコールまでいたが、もしこれがネット動画だったら20分と保たずにサイトから退出していただろう。
こんなだから当然のこと勉強には身が入らず、成績はからっきしダメ。あれこれと興味は持つものの趣味にまでなることはない。付き合い難かったであろう、それでも学校で話しをする程度の友達は何人かいたが、休みの日に遊びに行くような親友と呼べる子はひとりも出来なかった。そんなゆかりに人生の転機は突然やって来た。
小学4年の新学期初日、体育館では元気でかわいい新一年生の紹介があり、その後新しく着任した先生の名前が呼び上げられた。立ち上がって順番に深々とお辞儀をした中に、遠目にも若くて可愛い女の先生がいた。こんな先生が担任なら良いなと思っていたら、幸運にもゆかりのクラスを受け持つことに。
教室で間近に見た先生はさらに魅力的だった。少し離れた大きな目はうるうるしていて、瞳の中に星がいくつも見える。ツンと形の良い小さな鼻とぷっくりとした唇は絶妙のバランスで配置されている。大沢楓先生。まるで少女漫画から飛び出して来た主人公のようである。
初日の授業は先生のころころ変わる表情と、さえずる小鳥のような声にうっとりしていたらあっという間に終わった。そして終礼で、クラスの皆んなに先生が日記を勧めたことから私の毎日が少しずつ変わり始めた。
《20××年6月19日(火)くもり
ちょうど良い願いごと、これしかない。別に明日でなくても良い。そのうちで構わない。そしていくらアイツでも死んだら可哀想だ。アイツを好きとか言っている女子もいる。だからほどほどであって欲しいとは思う。でも嫌い。後ろの席からいたずらして来るから、やめてと言ってもやめないから嫌い。山根、私の前から消えて》
ゆかりは今日から大沢先生に毎日会えると思うと、あんなに嫌いだった学校に来ることがとても楽しいことのように感じていた。ゆかりは大沢先生に早く自分の顔と名前を覚えて欲しい、自分のことを誰よりも気に入って欲しいと願った。
そんな大沢先生が日記と言ったなら日記。ゆかりは日記がとても魅力的なものに思え、自分も日記を始めれば、大沢先生と親しくなれると確信した。
「先生はね、小学1年生の時からずっと日記を付けてるのよ。寝る前にパジャマに着替えるでしょう?先生にとっては日記も同じことなの」
「俺の父ちゃんは酔っ払って帰って来て、“パジャマに着替えてから寝て”っていつも母ちゃんに怒られてるぜ」
「太一の母ちゃん怖えもんな」
「先生先生、先生の日記を見せてください」
「日記は人に見せるものじゃないのよ」
「でもアンネの日記とか教科書に載ってるじゃん」
「あれは特別です。誰かに見られると思ったら本音で書けないでしょ」
「本音って何ですか?」
「正直にってこと。感じたことをそのまま書けなくなるでしょう?」
「おれなら書けるよ。死んでからどう思われたって関係ないもん」
「お前、有名になって教科書に載るつもりか?」
「ちげぇ−よ」
皆んなが好き勝手に喋り出し、教室中がワイワイガヤガヤ状態となった。
「あの−先生・・」
そんなに大きな声を出した訳ではなかったが、普段あまり積極的に発言しないゆかりが椅子をガタッと鳴らし立ち上がって質問したものだから、一瞬にして教室が静まり返った。
「はい、えーと、青木ゆかりさんね。どうぞ」
「日記ってどうやって書けばいいんですか?」
「バッカだなぁ。日記帳を買って来て鉛筆でさささって書けばいいんだよ!」
「それならスマホの方がいいんじゃね」
「確か日記アプリとかあったよ」
「いや絶対にタブレットだって」
「お前んちにタブレットなんてあったっけ」
「来月の誕生日に買ってもらうだよー」
「あーいいなあ。俺も買ってくんねえかな」
「あのーそういうことじゃなくてわたしが・・」
またしても皆んながワイガヤとやり出したので、小さな手をぱんぱんと鳴らした先生が「はい静かに」と意外に大きな声でお喋りを制した。
「いいですか。日記というのは、その日の出来事でも、感じたことでも、何でも好きに書けば良いのよ。決まり事は何もありません」「決まり事は何もありません」
最前列の男子生徒が立ち上がって先生の物真似をしたので、教室中が爆笑に包まれた。
「静かに、先生がお話中ですよ。えーとそうですね。例えば夏休みの宿題に出る絵日記があるでしょう。花火を見に行ったとかバーベキューをしたとか、あるいは家族旅行のような何か特別な出来事を書くでしょう。でも毎日書く日記は何て言うか普通で良いのよ。そうそう、江戸時代のお侍さんの日記には、朝昼晩と何を食べたかだけを書いたものもあります」
「そんな日記、誰が読むんですか?」
「さっきも言ったでしょ。日記は人に見せるために書くものではありませんよ」
「そのご飯だけの日記って有名なの」
「ええ。先生も本屋さんで買って読みましたよ。江戸時代の下級武士の食生活がよく分かると高く評価されています」
ゆかりは座るきっかけが分からず、かと言ってこれ以上の発言などとても出来ない。クラスのあちこちで「面倒臭いよ」「俺も日記を始めようかな」などと聞こえる。ゆかりは下を向いてもじもじしていたら、大沢先生の「それでは」という透き通った声が聞こえた。
「今日の終礼はこれで終わります。日直さん前へ」
《20××年6月20日(水)雨
驚いた。怖い怖い。日記の不思議な力だ。私の超能力ではない。何故なら今までも心の中で何度も“山根消えろ”とか願って来たのだから。アイツが昨日の夜に家の階段から落ちて右足を骨折し、救急車で病院に行き、今日は入院しているらしい。たった一日でも後ろにアイツがいないと清々する。明日も休むらしい。ずっと休めば良い、いや不思議な力の無駄遣いはやめよう》
ゆかりは放課後、日記のことをもっと聞こうと、何より先生と少しでも話しがしたくて、勇気を出して職員室に大沢先生を訪ねることにした。下校の生徒で混み合う1階の靴箱の前を通り過ぎ、校舎北側にある職員室までゆっくりと歩く。ひとりで職員室に入るのは初めてではないが、いつも緊張する。
縦長の職員室の奥には校長室があり、門番よろしく教頭が校長室に続く扉の横に大きな机を構えて職員室全体を見渡している。傍らには年季の入った重厚な金庫がひとつ。先生達は学年毎に机を寄せ合って島を作り、明日の授業の準備に余念がない。
大沢先生は入口から少し離れたところにある机に座っていた。ショートヘアに赤ペンを差し込んで小刻みに動かし、何やら考え事をしているようだ。ゆかりは恥ずかしくて声を出せずにもじもじしていると、気配に気付いたかのように大沢先生が顔を上げて笑顔で呼び掛けてくれた。
「あら青木さんね。入ってらっしゃい。どうかしましたか」
ゆかりは先生の前に立ち、緊張を唾液と一緒に飲み下すようにしてから一息つき、小さな声で話し出した。
「あのー日記のことがもっと知りたくて、それであのー」
「いいわよ。その椅子にお座りなさい」
隣の先生の机は綺麗に片付いているので、もう帰ったのであろうか。
「青木さんは日記に興味を持ったのね。日記仲間が出来て、先生、嬉しいわ」
「あのー日記って何を言っても、て言うか何を書いても良いんですね」
「そうよ。決まり事は何もないのよ」
男子生徒の物真似を思い出し、大沢先生は白くて小さな歯並びを奥まで見せて短く笑った。
「先生、わたし毎日寝る時、その日にあったこととか考えるんです。そんなことをそのまま書いても日記ですか」
「立派な日記よ。見たこと感じたことをそのまま書けば良いわ」
「見たこと感じたこと、そのまま・・」
「そうよ。例えば、そうだな。青木さんに仲良しの従姉妹がいるとして、その子のことを書くとするでしょ?」
「はい。仲良しの従姉妹います」
「あらそうなの。お名前は?」
「くるみちゃんです。くるみんって読んでます」
「くるみんね。日記だと『今日はくるみんといつもの公園で遊んだ』で良いの。でもこれを作文で書くとしたら『休みの日に、親せきがうちの家に来た。いとこのくるみちゃんとお家の近くのなかよし公園で遊んだ』くらいは書かないと、読む人にはわからないでしょう?」
「はい」
「それから何をして遊んだとか、何時まで公園にいて、その後どうしたとか。読む人にとってはその方が読みたくなるでしょう?」
「はい」
「でも日記なら、後から読み返して自分が分かればそれで良いの」
大沢先生はゆかりの目を優しく見ながら笑顔で話しているが、ゆかりは恥ずかしくて目を合わせられない。
数秒会話が途切れたが、もう一つの質問をするためにゆかりは勇気を出して僅かに顔を上向けた。額にしわを寄せて眉越しに先生を見上げたが、どうしたのって問い掛ける笑顔が目の前にあって、一瞬にしてまた下を向いてしまい、更に小さな声を絞り出した。
「先生。あの、交換日記とかだと読む人がいるから詳しく書くのですか?」
「交換日記は仲良しの友達同士で書くものだから、二人が分かれば良いと思いますよ」
聴きたいことが聴けたので、少し緊張が解けたゆかりは椅子からさっと立ち上がり、スカートの前に小さな両手を重ねて一つお辞儀をした。
「先生、ありがとうございました。今日から私も日記を書きます」
「はい。ただあれもこれもといっぱい書こうとせずに、短くても、そうね、たまには書かない日があっても良いわ」
「先生は書かない日がありましたか?」
「ううん。先生はなかったわ。風邪をひいた日にベッドの中で日記を書いていて母親に叱られたこともあるの。“早く寝なさい”って。でも人それぞれだから無理しないでね」
「私も毎日日記書きます!」
今日一番の大きな声で高らかに宣言したゆかりは、開けたままの扉の前まで歩いて来るとくるりと先生に向き直り、もう一度お辞儀をしてそのまま廊下へ駆け出して行った。
《20××年6月21日(木)くもりのち雨
今日も後ろの席にアイツはいない。授業にも身が入る。いつ後ろから何をされるか、そんなストレスもない。案外物足りないんじゃないの?って何それ。山根も青木と戯れ合いが出来ず寂しいだろうって?周りからはそんな風に見えてたとは。よし不思議の力を使おう。山根が二度と後ろの席に来ませんように》
ゆかりはその日、走って家まで帰り、夕飯の支度をしている母親に日記用のノートを買ってくれるよう、はぁはぁと息を弾ませながら頼み込んだ。
「なに日記?だめだめ。どうせ一日で飽きちゃうんだから」
「そんなことないよ。新しい担任の先生は小1の時から毎日書いているんだって。今でも毎日だよ」
「だからユカには絶対無理だって」
母親はゆかりをいつも“ユカ”と呼ぶ。この頃のゆかりは、平仮名の名前は正直ダサいと思っていた。皆んなのようなかっこいい漢字の三文字が羨ましい。ゆかりは辞書を見ながら漢字をあれこれと選び、組み合わせては眺め、そして平仮名という現実にいつも溜息をついた。友香里、夢華利、柚果璃・・
名前が何故平仮名なのか、自分の名前の意味を親に聞くという宿題があって、父親に聞いたことがある。
「片仮名か平仮名で迷ったんだけど、“青木”が直線ばかりだからな、曲線のある平仮名にしたんだ」
平仮名でまだ良かった。片仮名なんて最悪だ。そもそも何故ゆかりなのか、その由来も聞いたはずだが記憶にないし、その後訊ねたことはなかった。
母親に反対されることは想定内、ここで負ける訳には行かないと、ゆかりは交渉を続けた。
「日記帳とか、かわいいノートじゃなくても良いの。安いので良いの」
「自分で稼いでもないのに安いので良いなんて言わないの」
「ごめんなさい・・」
「この間買った塗り絵だって、何ページやったの」
「・・・それは・・」
「あんなに欲しいと言うから買ってあげた星座図鑑はページすら開いてないじゃない」
「・・・うん・・」
ゆかりの母親はゆかりと話しながらも手は止めない。今夜のメニューはハンバーグだ。大きなボールに大量の挽き肉を入れ、シンクで両手をよく洗うとオリーブオイルを両手の掌や甲から指の間まで丁寧に擦り込む。サラダ油ではなくたっぷりのオリーブオイルでしっかりと挽き肉を捏ねるのが母親のこだわりだ。
よく捏ねられた挽き肉を掌いっぱいに掬い取るとおにぎりのように丸める。両掌の間をぱんぱんと器用に上下させると丸い挽き肉がハンバーグの形に変わる。手際良く流れるような作業で、ピンク色のハンバーグ4枚がラップの上に並べられた。
「・・まあでも、分かったわ。先週、一真に大学ノートを5冊パックで買ってあげたから、1冊もらいなさい。ママに言われたって」
「ママ、ありがとう」
《20××年6月22日(金)雨
アイツは今日も休み。昨日退院したけど、もう少し自宅療養し、来週月曜日から松葉杖で登校するらしい。不思議な力もこれまでか。来週からまた後ろの席にアイツが戻って来るかと思うと憂うつ、イライラ、ストレス》
ゆかりには7歳年の離れた兄がいる。真面目で勉強熱心なので当然成績が良い。スポーツもそこそこ何でもこなし、背はすらっと高くイケメンと来てるから、中学、高校と学校一のモテ男であった。高校の文化祭でミスターコンテストに友人達が勝手に申し込み、いやいや出場したところ準ミスターの1人に選ばれたこともある。
人生初の日記帳である大学ノートの表紙に、兄が活字のような太文字でタイトルを書いてくれた。“ゆかり日記♯1”“20××年4月8日〜”“青木ゆかり”
「将来ゆかりが有名人になって日記がテレビで取り上げられた時に恥ずかしくないようにな」
冗談であることを示すため、軽く上半身を傾けて、にっと笑って兄が言う。学校でモテない訳がない。
「ありがとう」
兄が書くと“青木ゆかり“もかっこ良く見えるから何とも不思議だ。
7つも年の離れた兄は、妹をとても可愛がった。両親はもちろんゆかりの世話を熱心にしたのだが、どちらかと言えば教育、躾けであった。「まんま」「わんわん」などのいわゆる幼児語は一切使わず、「さあご飯の時間ですよ」と正しい標準語で語りかけていた。
最初にゆかりが話した言葉は「マー」であったらしい。「まんま」でないのは明らかなので、当時は「ママ」という結論になったのだが、後にこれが兄の名前であることが分かった。兄は事あるごとに「カ・ズ・マ、一真兄ちゃんだよ」とゆかりに話し掛けていて、カズマの“マ”と言いたかったようだ。それが証拠にやがてゆかりは「マー、ニー」と話すようになり、そして今でもゆかりは兄を“マー兄ィ”と呼んでいる。
《20××年6月23日(土)雨
朝8時から夕方6時までいつもの問題集。出掛ける前にパスタを食べて、塾で9時までみっちり過去問集。シャワー浴びて寝るだけのいつもと同じ土曜日》
ゆかりはまず宿題を片付けた。早く日記を書きたかったので、いつものようにだらだら時間を掛けない。ハンバーグにスープとサラダでご飯を食べ、さっさとお風呂に入る。友達との話題作りのために観ているアニメも今日はパス。
さあ、大好きな兄に表紙を書いてもらった大学ノートと右手に持ったペンで初日記。取り敢えず、なぜ日記を書こうと思い立ったのか、最初のページだからまずそこから書くことにした。理由ははっきりとしているのだが、書き出しの言葉が思い浮かばない。
誰かに褒められようと見栄えの良い文章を書こうとしているのではないか。大沢先生の話しを思い出した。
「誰にも見せないのよ。カッコつけないで」
大きな声で独り言を言ったら少し気が楽になり、ゆかりは一文字一文字を確かめるように書き進めた。《20××年4月7日(木)晴。大沢先生から日記のことを教えてもらい、早速今日から書き始めることにした。先生が私のことを日記仲間と言ってくれた。私の名前も覚えてくれた。先生も今頃日記を書いているのかな。大人だからもっと遅い時間かな。日記を書いていると、先生が近くにいるような気がする。先生の声が聞こえるようだ。また明日も先生と日記の話しをしたい。大人になるまで毎日書き続けることに決めた》
「無理をしないで」
確か先生はそんなことも言っていた。
「うわっ。1時間もかかった」
授業より疲れることにゆかりは頭がくらくらとしながらも、わずかの満足感を感じながら、この日は早く寝ることにした。
《20××6月24日(日)晴時々くもり
今日も昨日と全く同じ一日。受験生には休日も休息もない。このフレーズ何度書いたことか。土曜日との唯一の違いは、一週間の区切りとしてジャスミンの香りの入浴剤を入れてゆっくりお風呂に浸かること。まだ3回目だけど。あの日、大沢先生と飲んだ初めてのジャスミン茶は正直美味しくなかったけど、入浴剤は超お気に入り。山根、もっと休めよ》
ゆかりはいつもより朝早めに目を覚まし、トイレに行く前に机の上に置いてある日記を開いてみた。
「えっ、こんなだったっけ」
昨日の日記を読み返してみて、何かしっくりと来ない。書き直したいと思う個所がいくつもある。日記を次の日に書き換えたことがあるか、放課後に先生に聞いてみよう。大沢先生のことを思い出して、ゆかりは少し明るい気持ちになることが出来た。まだ出会ったばかりだが、ゆかりは大沢先生のことが何年も前から大好きなような不思議な気がしていた。先生の顔や仕草を見てるだけで、先生が発する声を聞くだけで、ゆかりは満たされた気持ちになった。先生も自分のことを好きになってくれるように、そのための努力を続けようとゆかりは決めた。
「それでは今日の終礼はこれで終わります。来週月曜日も元気に登校してください。日直さんは前へ」
昨日に続いてゆかりは職員室に行き、ドアの外から先生に小さな声で呼び掛けた。
「あら青木さん。入ってらっしゃい。今日も日記のお話かしら」
「はい」
隣の席には若い男の先生が座っていて、明日の授業の準備なのだろう、教科書とノート二冊を机に広げている。大沢先生と同じ新しい先生だ。反対側にはまだ担任になったことはないけれど、怖いと評判の山本先生がペットボトルのお茶を飲みながら考えごとをしている。
「あそこに行ってお話ししましょう」
壁沿いの長机にはパイプ椅子が両側合わせて8脚置かれている。先生たちが打ち合わせに利用する場所だ。
「ちょっと待っていてね」
反対側の窓際にある古い給茶器から紙コップ二つを抜き取り、机の上にあったピンク色のマイボトルを持って先生が戻って来た。
「あそこのお茶は美味しくないのよ」
鼻柱にきゅっと可愛いシワを寄せながら先生が、ゆかりの耳元に口を近付けてささやいた。
「ジャスミン茶だけどお口に合うかしら」
ジャスミン茶なんて聞いたことがない。コポコポと紙コップに注がれるジャスミン茶の色は、ゆかりが家で飲むお茶より少し薄そうに見える。
「美味しくなければ無理に飲まなくても良いのよ」
紙コップをゆかりに手渡しながら大沢先生が優しく微笑む。
「ありがとうございます」
ゆかりは紙コップに鼻を近づけ、くんくんと中味を嗅いだ瞬間、“げっ”という叫び声を何とか喉元で堪えた。トイレの臭い・・・そう言えばゆかりの家のトイレに置いてある紫色のやつに“ジャスミンの香り”とか書いていたような。
ゆかりは大沢先生を困らせたくないと考え、思い切って一口飲んでみた。
“んっ。臭い通りの味なんだけど、臭いほど強い味はしない・・”
「先生、飲めます。美味しいです」
「青木さん、無理しないで。変な味だってお顔に書いてますよ」
「えっ、どこに・・」
ゆかりは両手で口元や頬を擦り、初めて大沢先生の目をまともに見つめた。
「まぁ、冗談よ」
《20××年6月25日(月)雨
結果的に日記に書いた通りになった。やったね。不思議な日記パワーに感謝感謝。松葉杖で登校した山根の歩く距離を少しでも短くするため、入口近くに席替えとなり、後ろの席には真面目な山本くん。離れた席の山根はいないも同然だ。これで授業に集中できる、勉強の遅れを挽回できる》
ゆかりは結局ジャスミン茶を半分ほどしか飲めなかった。それではと先生が取りに行ってくれた給茶器のお茶は、薄いけどそれほど不味くはないと感じた。ゆかりが家で飲んでいるお茶の味に似ていた。
肝心の質問に対して先生は“日記の書き直しはしない”と言った。
「どんなにおかしいなと思っても自分が書いた文章なら大切にしたいの」
「文章って大切にするものですか」
消しゴムで簡単に消えてしまうもの、消えてしまえば存在しなかったことになってしまうもの。そんな文章を大切にするという意味がゆかりには理解出来なかった。
「そうね、おかしいよね」
大沢先生はジャスミン茶を飲み、コップのフチを右手の中指でなぞりながら、少し笑いを含んだ声で話を続けた。
「でもね、先生は文章を書くことがとても楽しいの。それから自分の書いた文字を見るのが大好きなの」
「はい」
「だって一文字違うだけで文章の意味って全く異なることがあるでしょう。助詞を変えれば、微妙な感情の違いさえ表すことも出来るわ。そんなことをあれこれ一所懸命に考え抜いた末に書き記した文章は、いいえ単なるメモ書きだって、私にはどれも愛おしいの。私がこの世に生み出したと言っても・・」
「・・・」
「あら、ごめんなさいね。私、じゃなくて先生つい興奮しちゃって。何を言っているのかよく分からなかったでしょう」
「分からない言葉もありましたけど、先生が文章をとても大切にしていると分かりました。私も先生のように日記を書こうと思いました」
「ありがとう。青木さん、これからも先生と日記のお話を一杯しましょうね」
「はい。先生、私の日記を持って来たら、間違っているとことか直してくれますか」
「青木さんの日記だから、先生でもそれは出来ないわ」
「じゃあ、先生との交換日記にすれば」
「ごめんなさいね。青木さんとだけ交換日記をすることは出来ないの。分かるでしょう」
「・・・」
「青木さんと先生は日記仲間よ。こうやって時々日記のお話をしましょうね」
「・・はい」
ゆかりは大沢先生から交換日記を断られたことが、仲良しではないと言われたようでとても悲しかった。でも“日記仲間”という言葉が嬉しくて、大沢先生とは特別の関係なのだ、クラスでは自分だけなのだとゆかりはとても誇らしく思った。そしていつか先生とも交換日記が出来るようにもっと仲良くなろうと、その頃のゆかりは本気で考えていたのであった。
《20××年6月26日(火)くもりのち晴
山本くんがあんなに独り言が多いとは。でも良く聞いてみたら、先生の説明を理解するため自分なりに分かりやすく言い換えているらしい。時間差でどんどん頭に入って来る。山本くんが授業すれば良いのに。山根が時々こっちを見て来るのがウザい》
一冊一冊、毎年積み重ねて行く日記。薄っぺらい一冊だけれど、ゆかりにとっては色んな出来事が、新しい発見が、そして初めての経験が一杯詰まった一年また一年である。
頭の中で考えたことを文章に変えるのはとても難しい。初めの頃はなかなかしっくり来なくて、ゆかりは何度も書き直したりした。次第に“これかな”“これで良いか”という表現を絞り出すことが出来るようになり、やがて“うん、これこれ”と納得出来る日が多くなって来ていた。
マラソンを趣味と言う人をゆかりは理解出来なかった。ただただ苦しいだけではないか。両手を振って手と反対側の足を交互に踏み出すだけの単調な運動。
かつてはマラソンを軽んじていたゆかりも、日記の面白さを知るようになってからは少し見方が変わって来ていた。僅かずつではあるが成長し、繰り返し、積み重ねることに喜びを感じるところが日記とマラソンの共通点だとゆかりは感じていた。そして一冊を書き終えた時にゆかりが味わう達成感は、マラソンでゴールした時に味わう感情と似ているのだろうとゆかりは想像していた。力を出し尽くしてゴールで倒れ込む者。腕時計を止めて何事もなかったかのように歩き続ける者。五位が泣いて喜び、二位が地面を叩いて悔しがる。
ゆかりがマラソンを始めることはないだろうが、認めよう、いや上から目線か。敬意を表しよう。ゆかりの本心であった。
《20××年6月27日(水)雨
今日の練習問題はなんと90点台。後半の難しい問題が全問正解なのは山本くんの独り言のおかげ。先生が「何か変だな」って。期末テストで高得点なら受験にも有利。山本くん、よろしくね》
ゆかりの努力はついに実らず、母親の願いも神様には届かず、ゆかりのS組入りは叶わなかった。後に聞いた話では、ジモジョの入学試験の点数から既にS組の選考は始まっていたのである。中学3年から猛勉強を始めたゆかりの成績では間に合わず、結果的にはジモジョ入学時点でS組の候補者にもなっていなかったのであった。
ゆかり本人よりも母親の落胆の方が大きかった。ゆかりの実力不足は責めず、自身の教育方針が間違っていたと母親は繰り返し後悔の念を吐露した。毎日のように夜遅くまで父親に泣きながら謝ったり、時に激しく口論することもあった。
ゆかりは母親のやつれた顔を見るのが辛かった。「一般クラスで頑張って東京のK大かW大を目指すから」とゆかりが語りかけても、「無理しなくて良いよ」と母親は目も合わさない。ゆかりには「無駄なことしなくて良いよ」と聞こえた。
しかし母親の立ち直りは意外に早かった。ゆかりの兄は国立大の工学部を優秀な成績で卒業し、この頃既に大手機械メーカーでエンジニアとして働いていた。独身寮から月一で兄が帰って来る度に「早く結婚して頭の良い孫を産んでちょうだい」「私が孫に英才教育をするから」などと言っては兄を困らせていた。
《20××年6月28日(木)くもり
どうして山根のギプスに私がメッセージを書かなきゃならないの。バカバカしい。「お前もここに書けよ」って偉そうに命令するな!「一生治るなって書いてやろうか」なんて言えず・・・日記の神様お願いします、山根の反対の足も折ってください》
ジモジョからジモタン。ゆかりは平均的な学生時代を過ごした後、東京の会社で一度はOLを経験してみたかったのだが、その願いは叶わず、地元で中堅クラスの運送会社に就職した。山根運輸株式会社。中学のクラスメートだった山根の父親が経営する会社である。
偶然でもコネでもない。社長である山根の父親から懇願され、神妙な面持ちで深々と頭を下げるまだ大学2年の山根を信じて、ゆかりは決断したのであった。将来の社長夫人になる決心をしたのであった。
《20××年6月29日(金)雨
お前は山根だろ?私は青木ゆかりだよ!誰かと間違ってない?何で突然赤マジックで告白する?ギプスに汚い字でI LOVE YUKARI by YAMANE って何?「ME TOO by YUKARIって書いてやれよ!」ってふざけないで!山根ファンは号泣してるし・・・今夜は眠れない》
山根は大学を卒業すると父親が経営する山根運輸に入社し、すぐに大型免許を取得した。いずれ社長になるにしても、運転手の経験がなければ話にならないと、父親は最低10年は息子に運転手をさせる心づもりである。
2年早く山根運輸で働き出したゆかりは、経理担当副社長である山根の母親から仕事を教わった。普段は「ゆかりさん」と優しく接してくれる母親も会社では「青木さん、また同じ間違いをしてるわよ」と厳しかった。他の従業員から特別扱いもなく、その方が気が楽であった。
山根は将来の立場を早くから意識していて、ゆかりとのデートでは両親の働きぶりや会社経営の難しさなどに関する話題が多かった。そんなことから自然の流れで二人は結婚を約束し、協力して会社を発展させようということになったのである。「経理は副社長の担当だから、簿記とパソコンは頼むぞ」が山根からゆかりへのプロポーズの言葉であった。ギプスに赤マジックでの告白といい、ゆかりはロマンチックには縁遠いようである。
《20××年7月2日(月)雨のち晴
山根が休み時間の度に横に来て、ギプスに何か書けとうるさい。クラスで一番嫌いなお前に優しくするつもりも、まして好きになることなど絶対にない、と断言出来ない自分が怖い。“後ろの席から”だった山根が“正面から”目を見て話しかけて来る。よく見ると案外イケメンで、どこかマー兄ィにも似ているなんて・・・》
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます