07 気づかれた事実

 皆が寝静まった頃、凜風にはまったく睡魔が訪れず、むしろ眼が冴える一方だった。


 今日だけでいろいろありすぎた。さらにこれは珠倫の体だ。一刻も早く状況を改善しなければと気だけが焦る。


 呪術書の類をいろいろ読んでみたが、その中で気になったのは同じ状況を作ってみるという記述だ。


(でも、珠倫さまとまた水路に落ちるなんてそんな危ないことできないし……)


 頭を抱えるが、はっきりとした解決策は浮かばないし見つからない。とりあえず気分転換に外の空気でも吸おうと凜風は立ち上がり、窓に近づく。


「珠倫さま」


 一瞬、空耳を疑う。しかし凜風は声のした方にすぐさま顔を向けた。


「春蘭?」


 衝立ひとつで仕切られた部屋の向こうには春蘭がいる。彼の性別を偽るためと珠倫の護衛としての配慮だ。


「どうされました?」


 どうやら聞き間違いではなかったらしい。春蘭に問われ、凜風は衝立の方にそっと近づいた。


「ご、ごめんなさい。起こしちゃったかしら?」


「いえ。眠っていませんでした。それで、どうされたんです?」


 改めて聞かれ、悪いことを企んでいたわけではないがわずかに躊躇いながら答える。


「あ、寝付けないからちょっと気分転換に窓から外でも見ようかと……」


「見るだけになさってください。この部屋からけっして出ないように」


「う、うん」


 怒ってはいないが、春蘭の声も口調もどこか厳しい。気まずい雰囲気が流れ、凜風がおとなしく布団に戻ろうとした。


「あなたが啓明橋から落ちたと聞いたとき、心臓が止まるかと思いました」


 ぽつりと呟かれた言葉に、凜風は足を止める。


「珠倫さまをおそばで守るのが私の役目なのに、その務めも果たせず、あなたをあんな危険な目に合わせてしまった。今でも激しく後悔しています」


「そんな春蘭のせいじゃないわ」


 衝立に近づき、凜風は必死に訴えかけた。彼は睡眠薬を盛られていたのだからしょうがない。しかしその事情まで話すわけにはいかなかった。


「凜風さえ、巻き込んで危険な目に合わせてしまいました。情けないです。なんのために私は」


「春蘭!」


 弾かれたように凜風は衝立を寄せ、彼の部屋へと足を踏み入れた。突然の凜風の行動に、珍しく春蘭は狼狽する。


「珠倫さま。このような時間にこちらには」


 薄い寝間着姿の春蘭は髪を下ろし無防備だ。女官の漢服を着ていないのもあって、男性らしさをあまり隠していない。


 しかし凜風はそんな状況などおかまいなしに彼のそばへ歩み寄る。


「私はここにいる。どこにも行かないって約束するからちゃんと眠って」


 春蘭の目を見て、はっきりと告げる。起こしてしまったのかと思ったが、そうではない。おそらく彼は、ずっとあの日からろくに眠っていないのだ。


 凜風は彼の手を取り、ぎゅっと握る。冷たい指先は緊張して気が張っているからなのだろう。


「春蘭が眠るまで、私ここから動かないから」


「し、しかし……」


「心配かけてごめんなさい。でももう二度と勝手にいなくなったりしない。だから」


「珠倫さま」


 名前を呼ばれ、凜風は無意識に顔を歪めた。わかっている、今自分は凜風ではなく珠倫だ。彼女らしく振る舞わないとならない


「そ、それから……私の前では春嵐でかまいませんよ。取り繕わなくてかまいません」


 なにげなく口にして、前にも言ったようなことがあったと思い出す。それと同時に春蘭が目を丸くして、じっと凜風を見下ろしていた。


「なに?」


 尋ねると春蘭は眉ひとつ動かさず、凜風の肩に手を伸ばした。


「蜘蛛が」


 その一言に凜風の思考は停止した。


「え」


 続けて考えるよりも先に体が動き、春蘭に抱きついて肩を縮める


「お願い。取って! 取ってください……早くっ」


 体を震わせ懇願するが、どういうわけか春蘭の手は動かない。


「蜘蛛はいない」


 続けられた言葉に安堵する気持ちと混乱が混ざり合い、春蘭の顔を仰ぎ見た。


「凜風……凜風なのか?」


 彼は今、誰の名前を呼んだのか。自分を誰だと言ったのか。蜘蛛がいる以上の衝撃に、凜風はしばらく硬直したままだった。



「つまり凜風ですがこちらが珠倫さまで、珠倫さまですが中身は凜風……で合ってますか?」


「はい」


 翌日、春蘭を前に凜風と珠倫は並び、正直に事情を話した。一通り話を聞いた春蘭だが眉間の皺は深いままだ。珠倫と凜風は気まずそうに顔を見合わせる。


「どうして、もっと早く言ってくれなかったんですか」


 彼の気持ちは当然かもしれないが、凜風の姿でいる珠倫に詰め寄る勢いになり、中身は凜風の珠倫が庇う。


「そう責めないでください。珠倫さまは、春蘭に極力心配をかけたくなかったんです」


 その言葉に春蘭は口をつぐんだ。伏し目がちになっている珠倫を見遣り、さらに凜風が続けていく。


「そもそも春蘭、私が最初に凜風だって訴えたのに取り合ってくれなかったじゃないですか!」


 凜風の指摘に春蘭はふいっと視線を逸らした。


「あのときは珠倫さまが目覚めたことで、凜風の下手な説明まで頭に入ってこなかったんです」


「ひ、ひどいです。なんで人のせいにするんですか?」


 あまりの言い草に凜風はつい言い返した。やはり珠倫と自分では扱いに差がありすぎる。春蘭はわざとらしく咳払いをした。


「とにかく、元に戻る方法を私の方でも探してみます。珠倫さま、凜風の体でなにかと不自由があるでしょうが、もうしばらく耐えてくださいね」


「ちょっと春蘭、さっきから失礼すぎません?」


 凜風は思わず唇を尖らせる。しかし春蘭はどこ吹く風だ。


「凜風は凜風でけっして無理をしないように」


「わかっています。珠倫さまの体に傷ひとつつけないよう気をつけます」


 間髪を入れずに凜風は真面目に返す。その反応に春蘭は虚を衝かれた顔をしたが、ややあって目を細めた。


「信頼していますよ」


 気合いを入れる凜風の隣で、珠倫が急に春蘭へ抱きついた。突然の彼女の行動に春蘭以上に凜風が驚く。


「春蘭、ごめんなさい。黙っておくって決めたのに……本当はずっと不安だった」


 震える声で訴えかける珠倫を落ち着かせるように、春蘭は彼女の肩に手を添えた。


「そうですね。この事態に一番動揺しているのは珠倫さまご自身でしょう。私にできることは、なんでもします。おそばにおりますから」


「ええ」


 ふたりのやりとりと凜風は呆然と見守る。傍から見ると女官同士が身を寄せ合っているという奇妙な光景だ。しかも春蘭に抱きついているのは他でもない凜風自身なのだから、なんとも言えない。


 ズキズキと胸が痛み、唇を噛みしめる。珠倫のために動くのが我々の役目だ。だから彼の態度はなにも間違っていない。今までも春蘭は凜風を大事にしてきた。


「わ、私。ひとまず薬湯を飲みますね」


 それ以上、ふたりを見ていられなくなり必要以上に大きな声で凜風は宣言する。春蘭も早速準備を整えた。


「そうですね、これも珠倫さまのためと思って頑張ってください」


 昨日と同じ濃い緑色の液体にため息が漏れそうだ。一度知ってしまった苦さは、初めてのとき以上に躊躇ってしまう。


「ほら。甘くはできませんが全部飲めたら口直しに白糖を用意してあげますから。お子様な凜風にはぴったりでしょう」


「子ども扱いはやめてください!」


 言い返しながら、凜風は器の端に口をつける。苦さに顔を歪めて飲み干す凜風を春蘭はおかしそうに見守っていた。


 そんなふたりの様子を珠倫が複雑そうな面持ちで眺めていたことに、凜風も春蘭も気づいていなかった。

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