【短編】モラトリアム人間
お茶の間ぽんこ
モラトリアム人間(1)
これまでの人生に特別なことなんて一つもなかった。僕はすごく平凡な家庭で育ち、誰かに悪さをすることもなければ、誰かに特別好かれることもない。一応、小学六年生のときに僕を好いてくれたカホちゃんと付き合ったことがある。カホちゃんは他の男子のことが好きだったけれどその男子が他の女子と付き合ったから、彼女の中で第二候補である僕のことが本命になって、僕もそれはそれで吝かではなかった。しかし前に述べた「特別好かれた」というのはこの事象は当てはまらないであろう。それは小学生時代の話であるし、しかも僕とカホちゃんは付き合って一か月で破局したからだ。バレンタインの日にカホちゃんから一向にチョコレートを貰うことができず悶々としていて我慢できずに彼女の女友達に打ち明けてみると「え、カホからヒロキと別れたって聞いたんだけど」と言われてはじめて知ることとなった。当事者の片方が知らず第三者が知っている状況にはカホちゃんの中で何らかの事情があったのだろう。
だから昨今結婚率の低下とともに領土を拡大しつつある童貞諸君の中に僕が含まれるわけだ。大多数とは世間一般的には常識とされ、また正義とされるのだからこれは普通と捉えて差し支えないだろう。
そんな僕にも大学に入ってから想い人ができた。その女性の名は蓬川愛子という。ハーフアップで肩に掛からないぐらいに均一に揃えられた黒髪、眠たそうな二重のたれ目は小動物感溢れる可愛らしさを放っており、何より化粧をしていないにもかかわらずこの可愛さを実現させている顔立ち、彼女の美点をレポートにして提出したいと思うぐらいだ。
蓬川さんとのファーストコンタクトは、実は大学一年生の前期にさかのぼる。僕と彼女は同じ経済の講義を受けていた。確か「世界経済史」とかグローバルな分野の講義で、出席点が七十パーセント、レポート点が三十パーセントの楽単だ。僕はサークルには入っていなかったし、同じ高校から何人かはこの大学に入学している奴らはいたけれど、彼らは入学前からSNSのやりとりで形成されたコミュニティに属していたから、他の学生と一緒に受けているかサボってパチスロを打ちに行っているかのどちらかだったので、僕は一人で前方付近の席に座ってノートを取っていた。どの席に座るかによって講義への熱量が決まるらしく、前方ブロックに座る者は勉強熱心なマジメくん、真ん中ブロックは単位取るために最低限を学ぶパンピーくん、後方ブロックは座っているだけのパリピくん、といった具合だ。当時はその区別が暗黙の了解になっているとは知らずに、ただ空いているからという理由で前方に座っていた(今は真ん中付近に座るように心がけている)。そしてその講義のある回で「近くにいる人たちとグループになって『ウクライナ危機による日本への影響』について話し合って紙にまとめてください。その紙にメンバーの名前を書いて提出してもらうことで本日の出席確認とします」と告げられた。辺りを見回したけれど、僕以外の学生は友達と出席していてすぐに話し始めていたし、僕はウクライナ危機について考える前にぼっち危機について頭を悩ませる必要があった。「サトウタケシ」というイマジナリーフレンドをでっち上げて議論したことにしようと思いついたとき、僕の肩をツンツンと叩く柔らかい感覚があった。それが蓬川さんだった。
蓬川さんは他の女子たちと横に並んで僕の後ろに座っていた。
「その、もし良かったら私たちと話し合いませんか」
蓬川さんは優しく僕にそう言った。
彼女が僕を招き入れたのはちょっとした気まぐれだったのだろう。あるいは哀愁漂う孤独な背中が眼前にあって見るに堪えなかったのかもしれない。しかし一人ぼっちだった僕にとって救いの手であったのは間違いなかったし、これほどにも可愛い女子と会話できることに喜びを感じた。
蓬川さんには可愛いだけではなく、見ず知らずの人間をも包み込む博愛的な優しさがある。僕は決して容姿の良さが先行して彼女が気になっているわけではなくて、温かみを感じ取ることができたから彼女に夢中なのだ。
僕は彼女と関わるのはそれっきりだと思っていたし、ほんの少しだけ、また話せたらいいなと淡い期待を抱くのにとどまっていた。
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