第56話 先生への憧憬


 余裕たっぷりのユウキに、ミオはこれ以上醜態をさらしたくないと思ったようだ。

 ぷいとそっぽを向くと、落ち着かなそうに眼鏡のブリッジをいじった。


「まったく、本当に調子が狂う」

「はは、ごめん」


 ひとこと詫びて、ユウキは背筋を伸ばした。良いタイミングだと思った。


「謝ることは、もうひとつ。ふがいない院長で、本当にごめんなさい」


 深く頭を下げた。襟元に隠れていたケセランが、慌てて机の上に避難する。

 ミオは横目で少年院長を見た。目を細めている。口元は、なにか言いたげな「へ」の字になっていた。

 ユウキは頭を下げたまま、続ける。


「ミオの言うことはもっともだと思った。僕は院長先生として皆と一緒にいられるのが嬉しかった。けど、それだけじゃダメだよね。家族院を支えるには、勉強もしなきゃいけないんだ」

「……よくそこまで素直に受け取れるわね」

「それはそうだよ」


 顔を上げる。自然と真面目な表情になった。


「ミオが、寝不足になってまで皆のために勉強を続けてるんだもの。それができてない僕は、なにも言えないよ」


 しばらく、ミオと視線を合わせる。

 眼鏡少女はユウキから顔を逸らすと、机の上に置いてある本に手を伸ばした。分厚い背表紙を、細い指先でこつこつと叩く。


「勉強って、言うほど簡単じゃない。他の子たちのように、自由に遊びながらできるものじゃないの」

「もしかして、怒ってる?」

「怒る? どうして。今に始まったことじゃないから。よーく知ってるだけ」


 本を手に取る。びっしりと文字の詰まったそれを、パラパラとめくった。


 ユウキは、ここまでのやり取りで、ミオは根っからの冷たい人じゃないと感じていた。

 けど、今の姿はどこかイライラしているようで――それでいて、寂しそうでもあった。

 ユウキは考え、言葉を選ぶ。


「ミオはさ、学校って知ってる?」


 ページをめくる手が止まる。彼女は答えた。


「同年代の子どもたちが集まって、大人から知識や技術を学ぶ場所のことでしょ。……知ってるわ。言葉だけなら」

「実は僕も同じなんだ。言葉だけなら、知ってる」


 窓の外を見た。夕暮れ時の、穏やかで、どこか気だるげな空気。

 きっと日本の子どもたちは、学校前でこういう景色を見ながら、家路に就いていたのだろう。


「もしかしたら、僕のことは天使様から聞いてるかもしれないけど……僕、学校に通ったことがない。病気で、病院から外に出られなかったから」

「……」

「教科書や参考書、勉強に必要なものは手元にあった。教えてくれる人もいた。勉強できるってすごく嬉しい。嬉しかった」

「……」

「でもやっぱり、ここは学校じゃないんだなって。自分だけで勉強していると、ふいにすごく、遠くを見たくなる気持ちになった」

「……」

「ひとりで机に向かうだけじゃない勉強も、やってみたかったなって、今でも思う」

「気持ちはわかるわ」


 思わずこぼれた――そんな風にミオが言った。


 眼鏡少女はゆっくりと机上のケセランに手を伸ばす。最初はオロオロとしていたケセランは、ミオの指先が優しく毛並みを撫でると、すぐに大人しくなった。

 ミオの口元に、微かな笑みが宿る。


「私も学校、憧れてた」

「そうなんだ」

「ええ。同じ目標に向かって共に学び合う場。ただ一心に教本をめくり、文字を書き、講義の声を聞く時間。……憧れだった」


 ミオはケセランを手の上に乗せ、ユウキに差し出す。ふわもこな生き物は少年院長の肩に機嫌良く飛び乗った。


「勘違いしてほしくないけれど、私は今の暮らしが不幸だなんて思っていない。むしろこの上ない幸福だと感じてる。外の世界の危険、苦労を考えれば、まさにここは楽園だわ。それに――天使様のご判断が間違っているなんて思わない」


 ユウキは黙って耳を傾けていた。


「ただ……その。誰かに教える『先生』になるのが、あの子たち相手じゃ難しそうだったから……だから」


 ちらと少年院長を見上げる。


「だから、ポッと出のあなたが『先生』と呼ばれるのが、なんとなく面白くなかっただけ。ただそれだけよ」

「えっとぉ。なにに対して怒ってるのかな?」

「たとえ満たされた暮らしでも拭えない不平等が存在することに対してよ」

「ミオ、それって八つ当たり――」

「うるさいわね。悪かったわよ」


 また、そっぽを向かれる。

 ユウキは肩をすくめた。そして思う。やっぱり、皆が言うほどミオは怖い子じゃない。

 だったら、自分にも力になれることがあるはずだ。


「ねえミオ」

「なによ」

「だったらさ、僕に教えてくれないかな。勉強」

「……」

「僕の先生になってよ、ミオ――いや、ミオ先生」


 満面の笑みで言う。

 彼女はそっぽを向いたまま、しばらく黙っていた。そして、おもむろに席を立ち上がると、無言で指差す。自分がさっきまで座っていた椅子を。


「……教本も、ペンも、椅子もここしかないから。さあ、早く座る」

「わかりました、先生」

「夕食までみっちりやるから」

「はい。あ、でもアオイがもう少しでご飯って――」

「口答えしない」


 ちょっと理不尽、とユウキは苦笑した。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る