雲がゆっくりと動いている

クロノヒョウ

第1話




 雲がゆっくりと動いている。


 ある朝目覚めたらどうやら俺は外で寝ているようだった。


 どういうことだ。


「痛っ」


 起き上がろうとした瞬間身体中に痛みがはしった。


 固まった身体をゆっくりと動かした。


 頭も痛む。


 昨日俺は何をしていた?


 いや、それよりもここはどこだ?


 かすかに香る潮の香り。


「起きたか」


 突然聞こえた声の方を見ると少し離れた所で焚き火に当たっている男の姿が。


「……吉村?」


 視界もぼやけているがよく見ると男は会社の部下である吉村のようだった。


 痛む頭を必死で回転させる。


 風に乗って潮の香りが強くなると同時に遠くから波の音も聞こえ始めた。


 どうやらここはどこかの崖の上のようだ。


 ただ火を見つめている吉村の後ろには空しかない。


 あいつはあんな崖っぷちで何をしているんだ?


「うっ」


 立ち上がろうとしたが身体が思うように動かない。


 頭痛と吐き気が襲ってきた。


 昨日は確か……仕事が終わってから美穂と食事をした。


 そうだ、美穂のやつどうしても行きたいからとバカ高いディナーを予約しやがって。


 この前もそうだ。


 お互いに遊びのつもりだったはずなのに、たった一度寝ただけで何かあるたびに「奥さんにばらす」と言っては指輪やバッグを買わされた。


 昨日も言い合いになったんだ。


 悪かったと、もうこれっきりにしてくれと言ったが美穂は首を横にふるばかりだった。


 俺は焦りと苛立ちでいつもより酒を飲んだ。


 それから確か美穂を無理矢理家まで送った。


 それから……。


「思い出したか?」


「いや」


 俺は膝をつきながら這うようにしてゆっくりと吉村に近付いた。


 吉村は串に刺したでかいマシュマロのようなモノを火にかざしていた。


 マシュマロ、たいまつ、甘い香り。


 少しずつ色が強くなるマシュマロ。


 ほのかに香ってくる美穂がいつもつけている香水の香り。


 この不思議な光景が異様でならない。


「そうか、これは夢か」


 夢以外にあり得ないと思った。


「はは、そうさ。夢さ」


 無表情のままで笑う吉村。


 でもいったいなぜ吉村が夢に。


 会社ではそれほど接する機会もない吉村がなぜ。


「美穂はあんたのことを本気で好きだった」


「はぁ? なぜお前が美穂のこと……ああ、夢だったな」


「なんでこんなヤツを好きになっちまったんだろうな」


「ふんっ。あいつはあいつでいい金づるを見つけたとでも思ってたんじゃないのか」


「違う! 美穂は本気だった! 本気であんたを愛してた! あれは俺が美穂に無理矢理やらせてたんだ。奥さんも子どももいるのに手を出したあんたに痛い目見させてやれってな」


「何?」


「美穂は嫌がってた。でも結局俺の言う通りにした。それでも美穂はバッグや指輪を買ってもらったと言って喜んでた」


「ふん。どうだかな」


「あいつは、美穂は俺の妹だ」


「妹?」


「昨日仕事が終わって美穂のアパートに行った。あんたが……あんたが美穂を殺した!」


「わっ……」


 吉村は立ち上がると俺の首もとのシャツを掴みそのままずるずると俺を引きずった。


「おい! 吉村! ひぃ……」


 俺の目には遥か崖の下にある荒れた海が見えた。


「吉村! 待て!」


「あんたは別れないと言った美穂の首をしめて殺した! そこにちょうど俺が入ってきた。すぐにあんたの頭を殴ったが遅かった。美穂はもう……。思い出したか?」


「待て! 待ってくれ!」


「俺はあんたを許さない。あんたもここで美穂と一緒に死ぬんだ!」


 俺が美穂を殺しただって?


 まさか。


「ヒッ」


 眼下の海に何やら浮いているのが見えた。


 よく見るとそれは美穂のようだった。


 そのすぐ横には俺が買ってあげたバッグも。


「……ははっ、ははは、何なんだこの夢は」


「そうやって夢だと思って笑っていればいいさ。あんたはもうおしまいだ。もうあんたの魂は針の先にある。俺が持っているこの針のな。最後に笑うのは誰なのか、なっ!」


「わっ」


 吉村はさっきまでマシュマロの刺さっていた串を俺の胸に突き刺した。


 いや違う。


 あれはマシュマロじゃない。


 あれは俺が美穂に買ってやった指輪が入ったケースだ。


「美穂! あとはこいつをお前の好きにしろよ」


 吉村は俺の身体をおもいきり蹴り上げた。


 真っ逆さまに落ちる俺。


 その時自分の手に感触がよみがえってきた。


 同時に鮮明な映像も。


 そうだ。


 確かに俺はこの手で美穂の首を……。


 ということはこれも夢ではない。


 昨日は夢を見なかった。


 俺は夢など見ていなかった。


 全てが現実。


「は、はははは……」


 自分で自分のことが笑えてきた。


 何もかもが滑稽に思えて笑っていた。


 逆さまになると空が見えた。


 やっぱり雲がゆっくりと動いていた。


「ハハハッ」


 なあ吉村。


 最後に笑ったのは……俺だろう……?



              完





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