具現

NTN

具現

 親と喧嘩したからといって、べつに本気で家出してやろうと思っていたわけでもない。喧嘩の理由だって、こっちが悪いってことは、興奮していた僕の頭の中でさえも明らかだった。それでもむかむかが収まらなくてどうしようもなく外を彷徨っていたら、仲の良い叔母から電話が偶然やってきた。

「あ、じゃあウチくる? 空き部屋あるよ」

 入居前に部屋の掃除を手伝う事。そんな無料同然の条件で、僕はすんなりと家を出ることになった。

 重たい買い物袋の中身は、とりあえずガスボンベと、コンロ、箒。それとカップラーメン。

 ……絶対こういうもんじゃないだろうな。一人暮らしの準備って。

 ぼんやりと歩いていると、腕が疲れてくる。……頭もぼんやりしてくる。軽くなったのは財布だけだ。沈んだ心にひきずられるように僕の腕も次第に下へと落ちていく。

 目の前に見えた公演のベンチに座るのは、当然だった。

 ベンチに荷物を下ろす。重たい買い物袋の中身は、とりあえずガスボンベと、コンロ、あとカップラーメン、それとグミ。 水を買えばよかった。……かといって、公園の水は飲む気にはなれない。錆びだらけの水飲み器からは、特に。

「おにいさん、そのベンチ座んない方がいいよ」

 ぼんやりしていると目の前にひょっこり顔があらわれた。

 座っている僕と目線がぴったり合っているという事は、子供に違いない。少年は色のついたボールを抱えていた。

「もしかして、キミのベンチだったのかな?」

 ここに座りたかったのだろうか。僕が突然座ったから、ちょっと嘘でも言ってどかそうとしているのだろうか。そう思って謝ると、子供は少年はふるふると頭を振った。

「ううん。そのベンチはすわりたくない。怖いもの」

「怖い?」

 おこちゃまには、このベンチは大きいのだろうか。ママのお膝の上しか座ったことが無いのだろうか?

「そのベンチ、幽霊さんのベンチだよ」

 強い風が吹いた。大きな雲が少しの間だけ太陽を隠す。薄暗くなったからだろうか。少年の目は沈んでいるように見えた。

「幽霊さんのベンチ」

 思わず聞き返すと、少年はすらすらと話していった。

「幽霊さんは、アパートにすんでいてね。すごくこわいの」

「へえ」

「まずね、いっぱい牙があるんだ。どうずつみたいに、いっぱい牙がはえているんだ」

「ライオンみたいだね」

「違うよ。……しらない? 」

「ああ」

「おしえてあげるよ?」

 正直、どうでもいい。ただ、……携帯をチラリと見た。

「やっぱ三十分後で」

 それだけ書かれたチャットには、ごめんの言葉もスタンプもない。叔母は自己中心的な人だ。だが、そんな自分勝手な性格だからこそ、勝手に家を飛び出したし、勝手に親のお金を使って始めた不動産で成功したのだろう。母は嫌いだと言っていた。僕は嫌いとは言えなかった。……だってその性格のおかげで、彼女は空き部屋を持っているのだから。

「とっても気になるなあ。……お菓子、あげようか?」

「いらない」

「そうか」


 ローカル怪談。カモミールさん。少年曰く、女の人で、「びじん」で、「つめがすごく長い」のだそう。それから、「おこるとこわい」らしい。どこにでもいる人間じゃないか。

 それを言うと、少年は何もわかっていないんだなという表情を隠さなかった。

「牙がいっぱい生えてるんだよ」

「……ライオンさんみたいだね」

「ちがう」

「そっか」

 携帯をちらりと見る。まだまだ時間は残っていた。

「牙はね、口にははえていないの。どこにあるでしょうか?」

「どこだろうねえ」

「あしのうら!」

 それは果たして牙と呼べるのだろうか。

「でね、髪がピンクであしがはやくて、そらも飛べて、あと人の顔をたべるんだよ」

「へえ。こわいねぇ」

「うん。メンクイのお化けだって!」

「……そうかぁ」

「ワープできて、ビームもでるよ!」

 子供は僕の目の前に立って、奇妙なポーズをしてみせた。右手を左手に絡ませて、足をがにまたに曲げる。白目をむこうとして、半目の状態でまぶたがけいれんしていた。

「ポーズだよ!」

 バケモンすぎだろ。

「……でも、怖くないよ。いつも部屋のなかにいるから、出てこないんだ」

「部屋の中?」

「カモミールに住んでるんだ」

 携帯が震えている。少年は僕の興味が彼から液晶画面に写ったことに気がつくと、ボールを蹴飛ばして、どこかへ走っていた。

 チャットはひと言だけだった。

 ━━カモミールまで直接来れる?


 住所知らないけど。


 ***


「あー、カモミールさんの話聞いちゃったんだ! ……しまったな」

「「しまったな」ってなんです。まるで知ってほしくなかったみたいじゃないですか」

「まあね」

 ハンドルを握った叔母__恵は悪びれる様子もなくそう言った。

「隠してたわけじゃないよ。知らなくてもいいかなって。土地勘も無い人だったらバレないと思ったし」

 僕の母は恵のことを嫌っていた。その理由は解らなくもない。自己中心的で、大雑把で、どちらかといえば素直な性格。恵は好かれようという努力をしない人間だ。

「カモミールさんって、本当に恵さんのところに住んでいるんですか?」

「そんなわけないだろ。……あれは、この辺りでずっと流れている嫌な噂だよ。誰もが知ってる怨霊カモミールさん。カモミール荘に住んでいるから、そこには近づかない方が良いって」

 恵はやれやれと首を降る。

「まったく嫌になっちゃうよねぇ。訴えたり、できないし」

「できない?」

「……子供なんだよ。噂の発生源はこの近くにある小学校の子供なんだ。子供ってのは、噂を秘伝のたれみたいに代々受け継いでいくんだ。多分、下に兄弟がいるガキが話して、それで続いていくんだろうな。とにかくそうやって、あることないこと継ぎ足し継ぎ足し……足していく」

 子供の発想力というやつだな。恵はひとりごちた。

「飽きがこないんだ。飽きたら面白くなるように変えていくからな。ちなみに、どんな噂聞いたんだ?」

 尋ねられて、僕は少年の言葉を思い出す。

「えーっと、ビームが出るって」

「ああ、十年くらい前からの定番だな」

「足に牙が生えてる」

「それは二十年近くのロングセラー」

「髪がピンク」

「……今はピンクなんだね。一昨年までは虹色だったよ」

「あと、ワープできるって言ってた」

「ああ、それ正確には、”スマホの画面に通信で移動する”だったと思う。メールに入ってとか、電話線通ってとか、ちょっとずつ違うけど瞬間移動はずっとあるのよ」

「……移動って、カモミールにずっと住んでるのに?」

 恵はニヤリと笑う。

「そう。矛盾してる。かわいらしい噂だよ、まったく」

 車は路地を曲がり、薄暗い道を走る。……その向こうに、くすんだクリーム色の壁が見えてきた。あれだよ。と恵は指さした。

「恵さん、こんなの、ただの噂話じゃないですか。僕は今聞いていて、あまり僕に聞かせたくなかったってことは思いませんでしたよ」

「なら良かった」

「気になるんですけど」

「……何が?」

「二十年前に何か、噂のきっかけがあったとか?」

「あったな」

「何が?」

「……自殺。」

 恵はそれからしばらく、何も話そうとしなかった。しばらくして恵は車を停めた。

「さあ着いた」

 僕は最後にこう尋ねた。

「カモミールさんは、どの部屋に住んでいるの?」

「今から行くよ。お前の家になるから」

 部屋の掃除の手伝いをすること。恵が言った条件はあまりに簡単だと思っていた。……あまりにおいしい話だと思っていたが。

「……今から家に帰るか?」

 僕は躊躇わずカモミール荘の中に入った。


 ***


「ごめん、鍵忘れた。とってくるね」

 カモミール荘、カモミールさんの住んでいる部屋。……そしておそらく、悪い噂のはじまった場所。恵が鍵を取ってくるまで、僕はここに居続けることになった。

 恵いわく二十年前に「キレイに掃除」した後、誰も人が入っていないらしい。家具も何もかも残っておらず、残るは悪い噂だけ。

 だがチリや埃は溜まっているだろうということで、その掃除をする、というのが入居の条件らしい。しかも恵も一緒にやると言ってくれた。いわくつき物件であることには驚いたが、無料なら何も問題ないと思うようになっていた。

「あんたここに住むのかい」

 不意に後ろから声をかけられた。私よりも目線が下ということは、……老人であった。腰がひどく曲がっていて、そして杖を持つ右手が強く震えていた。

「どうも」

「恵さんの知り合いかい」

「叔母です。こちらに、住まわれているんですか」

「……隣」

 老人は決して怒っているわけでも、何か別の事を考えているわけでもなさそうだった。それでも老人の話し方がたどたどしいのは、どちらかといと、僕のほうに問題があるのだろう。老人は明らかに、僕の方を見て緊張していた。……それとも、僕の後ろにある扉の向こうに対してだろうか。

「ここは、その部屋以外は満室だからね」

「そうなんですか?」

「大和さんの工場が外人を雇ってるからね」

「工場?」

 老人は向こうの空を見た。つられてその方向を見ると、少し離れた山の中腹に白い建物がある。建物には見た事のあるマークがうっすらとくっついていた。たしか自動車の会社だ。

「そうなんですね。勉強になります」

「ならよかったよ」

 その表情はピクリとも変わらない。

「……幽霊物件だから、ここは人が入らないんですね」

「幽霊なんていないよ。いない。そんなものはね。いない」

 声だけが、次第に強張っていく。

 老人はぼそりと呟いた。

「嫌だ。怖いヨ」

 恵が帰ってくるまでの数分、僕と老人はじっと黙ったままだった。


「お待たせ。鍵」

 僕に鍵を手渡すと、恵さんは老人の方へ向き合う。

「今日はげんきそうですねえ。……娘さん、今日はいらっしゃるんですか?」

「いるよ」

「なら良いですねえ。楽しくって」

「そうだね」

「じゃあ、私たち用事あるんで、さようなら」

 そして振り返り、恵は僕にささやいた。

「……何か話した?」

「何も」

 一つしかない穴に鍵を差し込むと、引っかかることもなくすんなりと扉が開いた。

 全身が生暖かい空気に包まれた。


 ***

 僕と恵はとりあえず玄関から奥に、順番に掃除することにした。その方がきれいに掃除できるとか、そういう理由は全くなかった。ただ、恵は奥の部屋を気にしていたから、おそらくそういうことなのだろう。

 無言で床を掃き、窓を開いて風を入れる。虫とか動物がいる感じも無かったから、やることは本当にただそれだけだった。

 それだけに、話しながら掃除をするのは当然だった。恵は最初、僕に喧嘩のことについて聞いてきた。僕がなぜ、母親と下らない喧嘩をしたのか。

 何も言わない僕を見かねて、恵は話題を変えた。この辺りの事について。スーパーがどことか、おいしいご飯屋があるとか。トイレと風呂を掃除するころには、その話題も尽きた。

 結局、僕たちはこの部屋の事について話していた。

「どんな人だったの。ここの人」

「普通の人だったよ」

 話し始める時、恵の表情はピクリとも動かなかった。

「向こうの山のヤマトさんにさ━━、」

「誰それ。知り合い?」

「いやいや、……工場があるんだ。山の上に」

「ああ、そういえば」

「そこの社員だったんだよね。わたしより十個くらい年上で、ちょっと優しい、だいぶいい人、って感じの人」

「へえ。……仲良かったの?」

「いや」

 即答してから、恵はそれから少し黙った。再び口を開いた時には、もう別の部屋を掃き始めていた。

「ここの人は、真面目な人だった。すごく真面目。法律に詳しかったのか、ただただ経験豊富だったのかは知らないけど、不動産の書類とかのこととか教えてくれたの。お酒も好きだったから、一緒に飲みながら書類書いたりしたね」

「……結構仲良かったんじゃん」

 恵は微笑んだ。

「でも死んだんだ。……ある日を境に、変な噂が流れた。聞きたくないような噂がどんどん流れたのよ。多分、会社で何かをやったんだと思う。良いことなのか、悪いことなのかは知らないけど」

「それで、自殺した」

「……自殺した時、警察がやってきて言ったのは、自殺だってことは間違いないということだけ。でもあの人、殺されたんじゃないかって思うのよね」

「なにか証拠でもあるの?」

「ないわよ。自ら命を立ったというのは間違いないわ」

「じゃあ自殺じゃん。何に殺されたの? もしかして、カモミールさん?」

 恵は箒を持つ手を止め、首を振る。

「意味が分からないよ。恵。悪い噂が人を殺したっていうのなら、そういうのはあると思うけどさ。それでも自殺なことには変わりないじゃん。殺人なら、犯人が別にいるってことになる」

「そうね。……たしかに悪い噂は殺人者にはならない。何か直接的な事でも無い限り」

「どういうこと? 悪い噂が直接人を殺したっていいたいの? 恵、もしかして”言葉のナイフ”って言葉が本物のナイフだと思っていたりしないよね? あれは比喩だよ。オカルトじゃん。そんなの」

「ええ。間違いなくね。……でも少し聞いてほしい」

 それから恵はこう語った。

「━━噂って、「風説」って言うでしょう」


 ***


「━━この部屋ね、風が流れていかないのよ。空気がこもると、ずっと溜まったままなの。さっきから窓を開けているけど、ずっと風が吹かないでしょう? だから夏はすごく暑いし、冬はストーブを付けると死ぬわ。一酸化炭素中毒でね」

「もしかして、自殺ってストーブで?」

「いいえ。首吊りよ。ちなみに第一発見者は私」

「……なんか、ごめん」

「気にしないで。まあでもね、そういう部屋だからわるい噂も溜まっていったんじゃないかなって。吹き溜まって、なにかこう、悪いモノでも引き寄せちゃったのかなー、とか。呪い? オバケ?みたいなさ」

「オカルトじゃん」

「オカルトだよ。でも出るよ。事故物件には」


「もし私が言っていることが正しかったら、カモミールさんの噂もこの部屋に溜まってたと思うんだ」

 奥の部屋で物音がした。

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具現 NTN @natane51

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