対空戦闘用意(三)

 翼ある存在が地表に影を落とし、早春の風を受けて悠然と飛び去っていく。


 翼龍ワイバーン。全身を緑とも青ともつかぬ滑らかな鱗に覆われた蜥蜴とかげ状の生物で、雄大な翼と長大な尻尾が大きな特徴だ。この世界で最強の生物の一つとされるドラゴンの中では下位に属するものの、大きなものでは全長五メートルに達し、特に飛行速度に優れるという。


 獰猛どうもうとまでは言えないものの、肉食である彼らは妖魔や魔獣のたぐい見境みさかいなく喰らい、当然ながらその餌の中には家畜や人間ファールスも含まれる。

 ただしある程度の知性がある彼らは砦や大きな町には訓練された兵がいて鋭い武器を持っていることを知っており、それらに近づくことはない。ゆえにこのロッドベリー砦を無視して後方の隊商や旅人を襲うのだ。




 城壁上に設けられた射台からそれを見送ったエクトール君は、翼龍ワイバーンの姿が小さな点となってやがて消えるまで曇り空をながめていた。


「今日も誰かが奴らに襲われるのかと思うと、自分の無力さに腹が立つね」


「うん……でももうすぐだよ」


 工事を手伝ってもいない私が言うことでもないだろうけど、もうすぐだ。ロッドベリー砦の改修工事はあらかた終わり、既に上空の目標に対する射撃訓練が始まっている。我が物顔で空を駆ける有翼妖魔に対する対抗手段を私達人間ファールスが得るまで、あと数日といったところだ。




 エクトール君がリットリアさんに示した改良案は、この射台に限っても複数あるという。固定式のクロスボウを三連装にすること、上空から攻撃を受けた時のための防御設備を設置すること、司令部との連絡要員を配置すること、その者が攻撃目標を指示する権限を持つこと。


 各射台には固定式の大型クロスボウが一基あり、射手一名、照準手二名、連絡員一名の四人一組で運用する。彼らを護衛する兵士二名はそれぞれ槍と携帯型のクロスボウを装備する。これが城壁上に十二ヵ所、砦中央の司令部施設付近に二ヵ所の合計十四ヵ所。各射台への命令は司令部施設の屋上から手旗信号にて行われる。




 その赤緑二色の手旗が大きく振られた。これは「目標指示、照準合わせ」の命令。連絡員がそれを受け取り、目標を指示。二人の照準手が回転台を回し、射手が照準器を覗き込んで微調整する。


 やがて緑色の旗が振られたのは「ち方はじめ」の命令、狙いを定めた射手が両手に力を込めて一気に引金を引く。三本同時に射ち出された金属製の矢はあっという間に曇天に吸い込まれ、目標物として示されていた大凧を撃ち抜いた。

 射手と照準手が笑顔で掌を打ち合わせ、両隣の射台から拍手と歓声が上がる。




 イスマール侯国どころではない。万年雪の山脈と海に隔てられた大陸北方で独自の発展を遂げたこのグロッサ地方において、かつて人間ファールスが手にしたことのない対空戦闘能力。これが完成した時、『人間ファールスドラゴンに狩られるもの』という常識はくつがえるのだろうか。私の村を襲ったような悲劇が生まれることはもう無くなるのだろうか。


「エクトール君、これがあれば……その、翼龍ワイバーンにも勝てるのかな」


 幼さの残る少年のような顔立ちの若者は、何を言っているんだと言わんばかりに横目で私を見た。


「僕達の仮想敵は翼龍ワイバーンじゃない。火龍ファイアードラゴンだ」




 残雪が消え色とりどりの草花が春の訪れを告げる頃、その日は来た。


 矮小な人間ファールスなど目にも入らぬとばかりに飛来する捕食者。翼龍ワイバーンが青緑色の鱗に陽光を反射させ、巨大な影を地上に滑らせて砦を通過しようとしている。


 だが今日ばかりはそれを許すわけにはいかない。人間ファールスはその知恵をもって彼らに対抗する力を得たのだ。


「総員対空戦闘用意!」


 司令部施設で発せられた命令が百メートル以上も離れた城壁上で聞こえるはずはないのだが、大きく振られる赤い旗を見た私の耳の中では、確かにリットリアさんの声で再生された。


 照準手さんが二人がかりで大きなむしろを取り払う。現れた黒光りする巨大なクロスボウは早春の空を、そこを支配する捕食者をにらみつけているように見えた。


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