第二部

第319話 進級①

 4月5日の朝。大阪のとあるマンションの一室にて。

 海愛は自室にある大きな姿見の前で高校の制服に着替えていた。


「……よし! それじゃあ行こうかな」


 着替えが済むと、カバンを持ち、部屋を出る。

 そのまま玄関で靴を履いてからドアを開けると、まずは一階に降りるためにエレベーターの方へ向かった。


「なんだか緊張するなぁ……」


 今日から新しい学校での生活が始まると思うと、なんだかドキドキしてくる。知り合いが一人もいない環境というのはやはり心細いため、どうしても緊張や不安で胸の鼓動が高鳴ってしまうのだ。

 だけど、一年間様々な経験を積んで成長した海愛はこの程度のことで怖気づいたりはしない。むしろ新生活に対する期待の方が大きいくらいだった。


「でも、どんな生活が始まるのかちょっと楽しみかも……」


 幾許いくばくかの期待を抱きつつ、エレベーターに乗って一階に降り、マンションを後にする。

 外は快晴で温かく、街は非常に賑わっている。

 そんな賑やかな大阪の街を、海愛は胸を張って歩き出した。

 ちなみに、転校先の学校へ行くのは今日が初めてではない。昨日のうちに通学路の下見をしておいたため、道はちゃんと覚えている。

 また、転入するクラスもすでに昨日教えてもらっているし、担任教師にも会って少しだけ校内を案内してもらった。

 まだ春休みの最中だったから他の生徒と話をすることはできなかったが、それでも学校のことや通学路のことはある程度把握済みだ。

 だから学校までは迷うことはなく通学することができた。


「着いた……」


 やがて転校先の高校に到着し、学校の前で大きく深呼吸をする海愛。早めに家を出たおかげで、まだ始業時間までだいぶ余裕がある。

 そのためほとんど生徒はまだ登校しておらず、校内は非常に閑散としていた。


「さてと……まずは職員室に行かないと……」


 校門をくぐって校門に足を踏み入れ、昇降口を目指す。

 目立つ場所にクラス分けの紙が張り出されていたが、海愛はすでに自分のクラスを知っているので、クラス分けの貼り紙はスルーした。

 そうして昇降口で靴を履き替えると、静かな廊下を歩いて職員室へ向かう。


「……失礼しま〜す」


 職員室に到着すると、遠慮がちにドアを開け、とりあえず様子を窺ってみる。

 早く登校しすぎたせいか教師の姿も数人程度しか確認できなかったが、昨日会った担任の女性教師はすでに出勤しており、自分の机で何やら作業をしている最中だった。


「あの……先生、おはようございます……」


 そんな教師のもとに近づき、恐る恐るあいさつをする。

 教師は作業を中断し、海愛の方に視線を向けた。






 その後、しばらく職員室で過ごした海愛は、朝のホームルームが始まる頃に担任教師とともに教室へ向かった。

 その途中で通り過ぎる教室はどこも生徒たちの声で非常に騒がしい。みんな早く新しいクラスに馴染むために必死のようだ。

 海愛と担任教師は、生徒たちのはしゃぐ声を聞きながら廊下を歩き、2年1組の教室の前で足を止めた。ここが海愛の転入するクラスなのだ。生徒たちはすでに全員が登校しているらしく、窓から覗き込んだ感じではほぼすべての席が埋まっていた。

 そうしてしばらく廊下で待機していると、やがてチャイムが鳴り、担任教師はドアを開けて教室の中へと入っていった。

 海愛もその後に続いて教室に足を踏み入れる。

 生徒たちの視線が一斉に海愛と担任教師に注がれた。

 まずは教師が教壇に立ち、転校生の紹介を始める。

 いよいよ自己紹介の時間だ。

 海愛は大きく深呼吸をすると、クラスメイトたちの方を向き、自己紹介を始めた。


「えっと……は、初めまして。阿佐野海愛といいます。と、東京から引っ越してきたばかりでまだわからないことだらけですが、どうかよろしくお願いします」


 簡単な自己紹介を済ませ、最後に軽くお辞儀をする海愛。緊張のせいで少しつっかえてしまったが、それでも及第点がもらえるくらいの自己紹介はできただろう。これも一年かけて人見知りを改善した賜物だ。

 教室内から拍手と歓声が沸き上がる。

 みんな海愛のことを歓迎しているのだろう。

 第一印象はそこまで悪くなさそうだったので、ほっと胸を撫で下ろした。

 それから海愛は担任教師の指示で窓際の一番後ろに用意されていた空席に座る。

 これでこのクラスの全生徒がそろったため、朝のホームルームが始まった。




         ◇◇◇◇◇




 ホームルーム終了後はすぐに始業式だ。

 この高校に通う二年生と三年生が速やかに体育館へと移動し、始業式が始まる。

 一年の始まりを告げる式だが、式そのものはそこまで時間がかかるわけではない。

 一時間ほどで終了し、生徒たちは再び教室に戻ってきた。

 その後は担任教師から一年間の大まかな予定について聞いたらすぐに下校時刻となる。まだ午前中ではあるが、今日は授業がないため半ドンなのだ。

 しかし、すぐに帰ろうとする生徒はほとんどいない。

 みんな転校生の海愛に聞きたいことがたくさんあるのだろう。

 担任が教室から出ていくや否や、海愛はあっという間にクラスメイトたちに囲まれた。


「ええっと……」


 次々に質問してくるクラスメイトと、それに困惑する海愛。高校では転校生自体が珍しいのでいろいろと質問されるのは仕方がないことなのだ。

 集まってくる生徒たちは海愛にとっては全員初対面だし、中には男子生徒も混ざっているので、どうしても怯んでしまう。

 だけど、もう昔のように人見知りを発動させたりはしない。

 もちろん誰に対しても愛想よく振る舞うのはまだ難しいが、それでも当たり障りのない返答でクラスメイトたちとの信頼関係を築いていった。

 だが、今日は新学期初日だ。ほとんどのクラスメイトはすでに予定があるらしく、少し海愛と話したらすぐに帰り支度を始めてしまう。

 そのため海愛がクラスメイトたちに囲まれていた時間は10分ほどだった。


「……私も帰ろうかな」


 生徒たちが教室から出てゆき静かになった教室で海愛も下校の準備を始める。

 しかし、そんな海愛に声をかけてくる一人の女子生徒がいた。どうやらまだ全員が下校したわけではないようだ。


「ねぇねぇ、阿佐野さん!」

「……え?」


 顔を上げ、声の聞こえてきた方へ視線を向ける。

 そこには活発そうなショートカットの少女が立っていた。


「ちょっとだけお話したいんだけど……時間は大丈夫かしら?」

「あ、うん……大丈夫だけど……」


 改めて彼女の姿を観察する海愛。

 率直に言って、とても可愛らしい女子生徒だ。

 やや童顔で身長は海愛よりも低いが、スタイルは抜群で、制服越しでも出るところは出て引っ込むところは引っ込んでいることがわかる。

 スタイル以外にも、ぱっちりとした瞳や瑞々しい唇、ツヤのある髪などなど彼女の魅力は多い。

 性格も明るく、人懐っこい印象なので、間違いなく陽キャに分類される学生だろう。

 そんな陽キャとおぼしき美少女に突然話しかけられたのだが……なぜか海愛は彼女に対して懐かしさのような感情を抱いていた。


(なんだろう……この人とは初めて会った気がしない……)


 目の前の女子生徒の顔をじっと見つめる海愛。

 そんな海愛に構わず、彼女は名を名乗った。


「まずは自己紹介しておくわね。私は杉岡凪咲すぎおかなぎさ……よろしくね!」

「……え? ……?」


 名前を聞き、海愛は目を丸くする。


「……どうしたの?」


 その様子を不審に思ったのか、凪沙が訝しそうに見つめてきた。


「あ……ううん、なんでもないよ! ただ昔ちょっとだけ遊んだ幼馴染と同じ名前だったからつい反応しちゃっただけ」


 海愛は慌てて胸の前で両手を振り気にしないでほしいと伝えるが、凪沙はその発言に興味を示したようだった。


「そうなの!? それはすごい偶然ね……実は私も小さい頃に“みあ”って名前の子とよく遊んでたのよ。……まぁ今は顔も思い出せないんだけどね。阿佐野さんはその子と少しだけ雰囲気が似てるような気がしたから声をかけたのよ」

「そうだったんだ……確かにすごい偶然かも……」


 初対面のはずなのに初めて会った感じがしないから海愛はそこまで緊張せずに凪沙と話せているし、凪沙も躊躇することなく海愛に話しかけることができたようだ。

 転校初日で心細さを感じていた海愛にとって、気さくに話せる相手が一人でもいるのはとても心強いことだった。


「ねぇ、私たち気が合いそうだし友だちになりましょうよ! これからあなたのことは“海愛”って呼ぶから、あなたも私のことは“凪沙”って呼んでね」


 そう言いながら、凪沙が右手を前に出してくる。

 どうやら握手を求めているようだ。


「うん、わかった……これから友だちとしてよろしくね、凪沙!」


 海愛はその手を迷わず握り、凪沙と握手をした。

 こうして二人は友だち同士になったのだった。


「……ところで凪沙って標準語で話すんだね。こっちに来てから関西弁ばかり聞いてたから、ちょっと安心したよ」


 友だちができたことで少しだけ緊張のほぐれた海愛が今まで感じていた心細さについて素直に話す。

 海愛は関西弁を話せないし、さらに制服も前の学校のものを着用しているので校内では目立ってしまい、それがどうしても気になっていたのだ。


「私はもともと関東出身だからね。何度か引っ越しをして去年大阪に引っ越してきたから標準語の方が話しやすいのよ。この学校は他県から進学してくる生徒も多いし、関西弁を話せなくてもそんなに浮くことはないから心配しなくても大丈夫よ」

「そっか……それなら安心だね」


 標準語を話す生徒が他にもいるなら確かに浮くことはないだろう。

 気がかりだった方言の問題が解決し、ほっと胸を撫で下ろす海愛だった。


「……って、もうこんな時間じゃない!! そろそろ帰らなきゃ!!」


 何気なく教室の時計を見て時刻を確認した凪沙が突然焦り出す。


「ごめんね、海愛。もうちょっとお話していたかったけど、今日は用事があるから急いで帰らなくちゃいけないんだ……また明日話そうね」


 そう言いながら、教室のドアの方へ体を向ける凪沙。

 さすがに引き止めるわけにはいかないので、少し残念だがおしゃべりは終了だ。


「うん。また明日ね、凪沙」


 その後ろ姿に、海愛は手を振った。

 凪沙は自分の席に置いてあるカバンを掴むと、そのまま教室から出ていく。

 こうして教室内に残っている生徒は海愛だけとなった。


「まさか転校初日に友だちができるとは思わなかったな……」


 静まり返った教室でぽつりとつぶやく。

 いろいろと心配事も多かったが、これなら大丈夫かもしれない。

 この先どんなことが起こるのかはわからないが、なんとなくこの学校でも楽しめそうな気がするのだった。


 


 


 

 

 


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る