んがむし様

蟹場たらば

1 雨漏りの正体

 この小説は、知人の宮田みやた浩明ひろあき氏(仮名)が、少年時代に実際に体験したという話を、筆者が書き起こし並びに編集したものである。


 個人が特定されることを避けたいという宮田氏の要望から、年代や登場人物、会話の内容等には創作を加えてある。しかし、大筋については氏が語った通りだと考えていただいて構わない。



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



 忘れもしません。私がまだ小学六年生だった時の話です。


 梅雨入り前の、初夏の頃のことでした。


 寝ぼすけで休日はいつも遅くまで眠っている私が、その土曜の朝に限っては早くに目を覚ましました。いえ、何も用事があったとか、前日早寝をしたとか、そういうことではありません。


 頬に冷たいものが触れて、それで目が覚めてしまったのです。


 もっとも、冷たい感触のせいで早起きしてしまったと、最初からはっきり理解していたわけではありませんでした。まず寝起きでぼんやりしている時に顔に妙な感触を覚えて、それで頭が完全に冴えたところにまた先程と同じ感触がして、その結果目が覚めた原因に気がついた……という風ないきさつです。


 原因は水でした。


 天井から私の頬に向けて、ぽつり、ぽつりと、水が垂れてきていたんです。


 雨漏りだ。私はすぐにそう思いました。


 今までに雨漏りに遭った経験はありません。ただ漫画だのテレビドラマだので見たことはありましたから、子供でもピンときたというわけです。


 しかし、私はまたすぐに疑問を覚えていました。


 確かに私の実家は田舎にあって、町内には雨漏りしそうな古い家も少なくありませんでした。けれど、我が家は逆にあまりに古かったために、私が大きくなる前にと、数年前に改築を施したばかりだったのです。


 その上、昨夜は雨音がしませんでしたし、今朝も外は晴れている様子でした。「屋根や天井の素材にゆっくりと水が浸透していって、雨の日から数日後に時間差で雨漏りすることがある」という話も聞いたことがありますが、それにしたってここしばらく雨は降っていませんでしたから、どうにも理屈に合わない気がしてなりません。


 とはいえ、理由はさておき、雨漏りしてしまっていることは事実です。原因の究明よりも、まずは布団が濡れるのを防ぐのが先決でしょう。


 そこで私は最初、水が垂れてくる場所に、ティッシュを何枚か重ねて敷きました。それから次は、庭にある物置へと行くことにしました。雨漏りした時はバケツや何かで水を受けるものだというのも、漫画で見て知っていましたからね。


 ただ起きるなり、トイレでも洗面所でもなく、物置に向かった私を不思議に思ったのでしょう。父が様子を見にきたのでした。


「どうした、浩明?」


 応急処置はともかく、根本的な対処には多分工事が必要になるはずです。それは子供にはどうにもなりませんから、私は父に部屋が雨漏りしていることを伝えました。


 その時の父の驚きようは、普通ではありませんでした。


「本当か!?」


 よほど信じられなかったのでしょう。痛いくらいの力で私の肩を掴みながら、父はそう尋ねてきました。


 もしかして、何かまずいことを言ってしまったんだろうか。でも、今更否定しても、もう遅いだろう。そう考えて、私はおっかなびっくりに「う、うん」と頷きます。


 すると、父はいても立ってもいられない様子で、私の部屋へと駆け出したのでした。


 バケツを持って父のあとをついていく最中、私は不安になっていました。まさか自分が想像する以上に、雨漏りの修理代というのは高くつくんだろうか、と。


 もちろん、原因は私のせいではないはずですが、私の部屋で起きたことでしたからね。責任感というか罪悪感というか、そんなようなものを子供ながらに、いえ子供だからこそ感じていたというわけです。


 そうして部屋に着くと、水滴が布団に落ちていくのを確認するなり、父はこう呟きました。


「やっぱり、んがむし様だな……」


 ええ、確かにそう言ったんです。


 んがむし様です。


「ん」です。そう、「んがむし様」です。


 妙な名前でしょう? 当時の私も同じようなことを思いましたよ。「ん」で始まる言葉があるなら、しりとりはどうするんだろう、なんてね。


 けれど、その妙な名前のものが具体的に何なのか、父は説明してくれませんでした。


 それどころか、私も雨漏りも放置したまま、居間へと向かったくらいでした。


「んがむし様が出たみたいだ」


「なに?」


 報告を受けた祖父は、新聞から顔を上げました。父ほどではありませんが、それでもかなり驚いているようでした。


 同じように、祖母も目を丸くしていました。


「まぁ、随分久しぶりねぇ」


「前はどこだった?」


美樹みきちゃんでしょう。田邉たなべさんのところの」


「じゃあ、もう十五年くらい前か」


 自分が生まれる以前のことなら知らなくて当然だ。祖父母の会話を横聞きして、私はそんなことを思いました。


 ただ話している内に、驚きが収まってきたのでしょう。


「よくやったなぁ、浩明。これで今年は豊作になるぞ」


 兼業農家だった祖父は、満面の笑顔で私にそう声を掛けてきました。


「ちょうど土日でよかったわね」


 祖母も苦笑交じりでしたが笑っていました。


 無論ですが、起きたら部屋が雨漏りしていたというだけで、私は特に何もしていません。もっと言えば、何が起きているのかさえ、よく分かっていません。しかし、子供というのは単純なもので、他人から褒められたというだけで、なんとなく誇らしいような照れくさいような気持ちになっていました。


 一方、父の表情には相変わらず焦燥感が滲んでいました。


「俺はいるものを買ってくるから。お前はお宮さん(※神社のこと)に連絡しといてくれ」


「分かったわ」


 父の指示に、母はすぐにそう頷きます。遠郷の出身のはずですが、十五年前ならもう嫁いできていた頃でしたから、んがむし様のことは知っていたのでしょう。


 しかし、そんな母でさえ、その正体について教えてくれることはありませんでした。


「まさか、あなたのことを気に入るなんてねえ」


 そう言って、私の頭をなでるばかりだったのです。



          ◇◇◇



 雨漏りのせいで――父によれば「んがむし様」のせいで――家の中はにわかに慌ただしい雰囲気になりましたが、私にとってはほとんどいつも通りの朝でした。顔を洗って、ご飯を食べて、子供向け番組を見て……


 しかし、ニュースが始まってしまって退屈していた頃でした。


 私は母に連れられて、外出することになったのです。


「すみません。ご迷惑をおかけします」


「いいの、いいの」


 連れられて行った先は、ご近所さんのところでした。


 雨漏りでないなら、部屋の工事をするというわけではないでしょう。それなのに何故か、私はその日、よその家に泊めてもらうことになったのです。


 そういうわけで、母は先方に対して頭を下げ、また先方はそんな母を気遣うようなことを言うのでした。


「うちだって畑あるんだから、むしろありがたいわ」


「そう言ってもらえると助かります」


「大体、んがむし様が出るなんて、浩明君がいい子に育ってる証拠よ。うちの息子たちにも見習わせたいわ」


「いえ、そんな」


 やはり知っている人間同士の会話からでは、んがむし様について断片的なことしか分かりません。ただそれでも、何も知らない私にとっては十分貴重な情報だと言えるでしょう。


 けれど、この時の私は、他に気になることがあって、二人の話をあまりよく聞いていませんでした。


 気になることというのは、お世話になる家が佐伯さえき家だということでした。佐伯家といえば、私の同級生で一番の友達でもある裕二ゆうじ君の家だったのです。ですから、正体不明のんがむし様とやらのことよりも、親友と一緒に遊ぶことの方が、当時の私にとってはずっと重要だったというわけです。


 また、裕二君の方も同じ考えのようでした。玄関先で母たちが話しているところに割って入ると、私を家の中へと引っ張り込んだのです。


 部屋に入れてもらうと、私と裕二君は早速対局を始めました。きっかけはもう忘れてしまいましたが、当時私たちの小学校では将棋がブームだったのです。それも暇さえあれば将棋を指すような大ブームでした。


 そうして私たちが勝負に熱中している内に、時間はあっという間に過ぎてしまったようです。部活が終わったのでしょう。夕方になると、裕二君のお兄さんが帰ってきました。


 裕二君のお兄さんは、私たちより二つ年上の、中学二年生です。ただ以前は同じ小学校に通っていましたし、親友の兄でもあります。そのため、私は彼とも――恵一けいいち君とも仲が良かったのでした。


 もっとも、単に弟と遊ぶつもりだったのでしょう。部屋に入ってきた恵一君は、「来てたんだ」と、私を見て少し驚いた様子でした。


 それで私は、今夜は泊めてもらうことになるという旨のことを彼に説明しました。

 また、その原因が、んがむし様とやらにあるらしいということも――


 すると、私の話を聞き終えた恵一君は、こんなことを言い出すのでした。


「それはもしかして、長虫ながむしのことじゃないかな」

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