3章7話 エックハルトの記憶・3 *
【新帝国歴1115年5月10日 エックハルト】
「あの子を、このままにしていいんですか」
そう尋ねたのはヴァイオラだ。
「どういう意味だい?」
「だって、彼の生まれの話があるでしょう」
「難しい問題だね」
扉の中でされていたのは、そんな会話だった。
エックハルトはこの頃には、宮廷に出仕するようになっていた。宮廷で職務を得て、リヒャルトの側近となるべく実地での教育を受けるようになっていたのだ。だからきっと、彼女は知らないのだろう。自分が公爵の執務室、その扉の前にいて、彼らの会話を立ち聞きしていることを。そのことをエックハルトは考える。
「あの子は、どんどん似てくる。祖父、インマヌエルにね」
「例の話を信じることにするのですか?」
「まあ、そういうことがあっても、おかしくはないんじゃないか?」
「おかしくないかと言われれば、おかしいような気もしますけど。あり得ないかと聞かれれば、あり得るとは言わざるを得ませんね。でも」
「でも、なんだい」
「ただの臣下として扱うのも、血族として扱うのも難しい。だから、今のあなたもそうしているのでしょう」
「酷い話ではあるね」
そこにエックハルトを指す言葉はなく、それが自分のことを指していることを、エックハルトは推測するしかない。
(酷い話ではある、だけどその結論は。結論は何なんだ、言ってくれ)
そうエックハルトは考える。壁を叩き、そう叫びたい気がしていたのだが、それをして、自分がここにいることを内部の者に知られたら、ヴィクターの結論を聞くことができないだろう。
「とにかく、彼があんな風に今まで放って置かれたのが間違いだ、どんな意味でも。どうしてこんなことになったのか、先代の落ち度だな」
「とは言え、難しい問題ですから。先々代の醜聞を公に認めることにもなりかねません」
「知らぬ存ぜぬで問題を避けていて、避けようがない大問題に発展してから対処するのでは元も子もないだろう。その対処法自体が落ち度だ」
それから、ヴィクターは語り出す。ランデフェルト家について当時から語られ、後の歴史書にも書かれる、彼らの気性についてのある修辞について。
「『地獄の釜の蓋が閉じたような』気性。感情を向けていないものには冷淡で、一度感情を向けると、手がつけられないほど情熱的だと。ランデフェルトの男たちはそうだと、誰かが言っていた。祖父のインマヌエルだってそうだった。それが、私がエックハルトの件を、有り得ると思っている理由だ」
一連の会話を聞きながら、扉の前でエックハルトは、黙って震えている。二人の言葉が自分にとって良いことを指しているのか、悪いことを指しているのか、エックハルトには分からない。分かるのは、自分がヴィクターとヴァイオラについて考え、心密かに期待していたことと、彼らが考えていることは、全く違っていたということだけだ。
こんな場面を他の者に見られたら、どう思われるか分からない。そうエックハルトは考えるものの、扉の前に鉛の杭で打ち付けられたかのように、身動きすることができない。
「常識的な人の……自分の祖父に対する考え方としては……あまり理解はできませんね」
「常識的な人ではないよ」
「あなたの話です。あなたは、そう」
「確かに、私にはそんな気性はないね。それがどんなものか推察しているだけかもしれない」
それから、ヴィクターが笑ったことを、息遣いの音からエックハルトは感じ取る。
「エックハルトにはその気性がある。あんなに若くて、経験が少なくて、子供なのに。苛烈にして冷徹、だけど誠実で熱情に溢れている。その気性以外で、ランデフェルトという国家を支えてきたものは存在しないんだ。私たちには彼が必要だ。そして、リヒャルトには」
その後のことは、エックハルトは正確には覚えていない。その後、その場をどうやって立ち去ったのか。どうやって自分の部屋に帰り、夜までの時間を過ごしたのか。覚えているのは、暗闇の中、蝋燭の灯りを頼りに、床に直接ある言葉を書き殴っていた。最初は爪で、やがては切れた指先から流れた血で、それすらもまだるっこしくなり、ぐちゃぐちゃに掻き消して、足で踏みつけて消したのだった。
『信じるな、信じるな、信じるな』
エックハルトの内面に従って物事を、特にヴィクターとヴァイオラのエックハルトに対する見方を解釈すると、次のようになる。
エックハルトの卑しい生まれのことを、彼らは常に意識していた。それでいて、彼らはエックハルトを自分たちの側に引き入れた。それは道具としてエックハルトを利用するためだった。今までは使い道のない、さりとて置いておいても扱いに困る道具だったエックハルトに、リヒャルトの支えとしての役目を与えたのだ。彼らはそれを踏まえた上でエックハルトを値踏みしていたのであり、決して縁者、あるいはそれに近い存在として扱うためではない。
家族が欲しいとか、家族として扱ってくれる存在をエックハルトが熱望していたことは、彼らにとっては意識の埒外にあった。もし理解していたとしたら、その感情に揺れ動くエックハルトを滑稽に思いながら、その感情すら利用していたことになる。
それすら光栄なことのはずだった。エックハルトは無から、あるいは悍ましい醜聞から生まれた忌むべき存在で、それに形だけでも名誉を与えてくれる、生きていていい理由を与えてくれるのは、紛れもない温情だ。そこにどれだけ嫌悪感に満ちた同情の念が混じっていたとしたって、与えられる側の者が意識するべきことではない。
物乞いの子は投げ与えられたパンのことだけ考えるべきで、そこに侮蔑や嘲笑が入り混じっていたところで、そんな言葉には耳を塞いで、心を塞いで、聞かないでいればいいのだ。
(だから、これでよかったんだ。今のうちに気が付けた。こんなことで傷付くなんて馬鹿げている、お前にそんな資格も、権利も、筋合いもない。僕には家族なんていない。いたことがないし、今もいないし、これからだっていることがない。
信じるな。信じるな。信じるな。心を許すな、誰にも。心だけは渡すな。その代わりに用意できるものだったら何だって渡してやる。悪魔の心臓だって取引してやる。だけど心は渡さない)
そんな言葉を心の内で繰り返しながら、過熱していた精神の働きが少しずつ冷えていく、冷静になって、一時の幻想から醒めていくことをエックハルトは感じていた。
エックハルトにとって、彼らは保証だ。それ以上でも、それ以下でもない。現在の身分の保証は貰えて、将来も約束してもらえている。彼らの期待に答え続ければ、これからも保証してもらえることだろう。だから、そうなるべきだ。それをエックハルトは考えていた。
【新帝国歴1130年1月8日 エックハルト】
そんな過去のことを、現在のエックハルトは思い返している。
「……あいつが。あいつは」
床に転がったまま、もう一度エックハルトは呟く。そうしながら、エックハルトはその言葉を嗤う。未だに過去に縛られている自分を忘れたように振る舞っても良いのだと、表層で演じているもう一人の自分が力を取り戻していく。狂奔に身を委ねたからこその正気が少しずつ自分の中に帰って来る、正気である自分が息を吹き返す感覚をエックハルトは覚えていた。正気でいること、そのいたたまれなさが、いっとき前ほど苦痛には感じなくなっている。
常日頃エックハルトは、リヒャルトに対しては臣下の礼に徹し、君臣の別を違えないことを周囲に強いている。それでいながらエックハルトはリヒャルトを自分の主、心の底から敬って常に傅くべき存在とは思えなかった。
つまり、エックハルトの言うあいつとは、リヒャルトのことに他ならない。
エックハルトは、リヒャルトに嫉妬している。それは、冷然としていて思慮深い、だが裏腹にどうしようもなく粗野で幼稚な部分を抱えている、エックハルトの荒廃した性格を特徴づける一要素だった。
血縁者で年少、なのに目上で主君、それがエックハルトにとってのリヒャルトだ。君主の座を狙おうなどという気は微塵もない、だがリヒャルトは愛されている。一方のエックハルトは、その身を保護して行く末を気遣ってくれる周囲からの愛情など持ったことがない、その母親にすら殺されそうになったのだから。エックハルトの血統の証明が曖昧でしかなく、もしかしたら卑しい上にも卑しい存在、浮浪者が連れてきた出身不明の赤子を貴人として取り立ててもらっているだけの可能性は何の救いにもならなかった。
母親、あるいはそれに代わるもの。自分の在り方によらず愛してくれる存在。そんなものがいたら、救われるかもしれない。自分も同じように愛することができれば。エックハルトは冷酷で苛烈な、その経歴に相応しい邪悪な人間でもある。誰かから愛されるほど、容易に愛することができない。それなのに面の皮一枚でそれを隠蔽できる、そうやって今まで生きてきた。きっと天国には行かれない。
救済されなくてもいい。自分の地獄に束縛されなくていい世界があるのなら、それを疑いもなく認識させてくれるなら、それだけでいい。
あの『彼女』によると存在するという別の世界と、そこに存在し得るかもしれない人生。それが存在しうるという、少なくともそれだけの、提示された可能性。それは自分を救うことになるのか、ならないのか。それによって救われる価値があるのか、この今の自分自身には。
いずれにせよ、明日になったらエックハルトは戻らなければならない。自分の、この人生に。エックハルトは身を起こすと、両手で顔を覆い、深く息を吸い込んで、その吸い込んだままの、澱んだ空気を吐き出した。
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