5章8話 作戦会議 *

【新帝国歴1131年5月16日 若葉】


「アリーシャをお妃様にしたい。リヒャルト殿下の」

 それが、私が口にしたことだ。


 あの夜はとにかく、エックハルトにさっさと自室に帰ってもらった。その翌日の日中に、彼に対してこう切り出したのだ。この場所はエックハルトの執務室。とはいえ普段はリヒャルト様の執務室で仕事をすることが多くて、この部屋はそれほど使われてはいないらしいのだが。


「へえ?」

 今日のエックハルトは、いつものエックハルトだった。冷然と眉を吊り上げて、でも興を覚えたような語尾の上げ方で私に応じる。

 私は慌てて付け加える。

「勘違いしないでよ、私がお妃様になりたいって言ってるんじゃないからね? あのさ……私自身がなりたいわけじゃない、高貴な身分とか、そういうのには」

「……というか。…………」

 続いて何か質問をするのかと私は思ったのだが、エックハルトは私の方を見ながらも、何か考え込んでいる様子だった。私は話を続けることにする。


「私個人の権力欲やアリーシャの権力欲で言ってるんじゃない。ってことだけ分かってくれれば、それでいいんだけど」

「それは理解しました」

「このままでは誰も幸せになれない。アリーシャも、それからリヒャルト様も。この政略結婚ゲームの盤面をひっくり返す必要がある。それはいい?」

「はい」

 エックハルトは素直に聞いている。なんと言っても、彼は国家の重要人物なのだ。この状況に私は気を良くする。

「逆にこの状況をハッピーエンドへの布石にしたいってこと。だって、そうでしょ? 身分の違いはいずれにせよ避けて通れない問題。リヒャルト様の権威を支える然るべき裏付けをアリーシャが持っていない、それが問題なの。それさえあれば、完璧な勝利の盤面が作れると思わない?」


 真剣な顔でしばらく考えていた様子のエックハルトだが、やがて苦笑する。

「いや、なんとも」

「な、何!」

「なんとも胆力の強い女性ですね、あなたは」

 その評に私は頬を掻く。

「あのさ、ええと。これは、アリーシャの幸せのためだから。だからこそ、柄にもない胆力を発揮してるんだからね? そりゃもうチキンなんだから、本当の私は」

「本当の私とは?」

 厄介な点に突っ込んできたエックハルトに、私は慌てる。

「それは、今の本題じゃないから! 私の作戦に協力してくれる、エックハルト?」

「そうですね。いくつか、私の質問に答えていただければ」


 それから、エックハルトは私に問うのだ。

「皮肉ではないことは理解していただきたいのですが。彼の権威を支える然るべき裏付け、それをどうやって用意するんですか?」

「ううん。…………」

 もっともな指摘に、私は言い淀む。

「……それは正直、まだわからない。私の貧弱な知識を総動員しても、何か捻り出すつもりなんだけど。……あなたは信頼しきれていないかもしれない、だけど」

「信頼していないとは言っていません。貧弱な知識だとも思っていない」

「だって、最初疑ってたじゃん!」

「あれから何年経ったと思ってるんですか」

 あの時27歳だったエックハルトが、今は30歳だ。だから3年。私が29歳で死んだことを思い返すと、年下だったこの人が、今は年上になっていると考えてもいいのかもしれない。

「すみません、言い方が良くないですね。あなたの知識と知性は信頼申し上げております。ですから、だからこそ」

 エックハルトは立ち上がる。

「きちんと伺いたいのです。あなたは、どういう存在なんですか」

「ううん……。…………」

 私は考え込む。今まで適当にはぐらかしてきた問題について、私は突っ込まれている。きっと、ちゃんと説明しておくべきことなんだろう。

「……ええと、あのさ。私はたぶんアリーシャで、アリーシャの一部。だけど今は、アリーシャとして喋っているわけじゃない。だって、別の人生を別の人間として生きてきた記憶があるから。私には私で人生があったの、ろくな人生じゃなかったけどさ」

 私の言葉にエックハルトは目を細めるが、敢えて感想を付け加えようとはしなかった。


「ええと、とにかく。だからその、別の人生で生きて死んだ私の人生に免じて。どうか、協力してほしい。……エックハルト」

 ここまでの会話で、私が私自身として喋っている時には、アリーシャの喋り方や態度とは全く違うことが、およそ明らかになっているんじゃないかと思う。そして、きっとそれは、エックハルトにも伝わっていることだろう。

「分かりました。一つ、お願いを。それを聞いていただければ」

「何かな?」

「あなたの名前を教えてください。もう一度」

 私は少し困惑する、と言っても、別に明確な理由はないのだが。

 私が彼に、というかリヒャルト様に私の名前を教えたのは一度だけで、アリーシャの名前で呼んでほしいとお願いしたのだ。それは、日本人の普通の名前で呼ばれるのがなんとなく嫌だったからだけど、もしかしたら私は私自身を、人に見せたくなかったのかもしれない。

 観念し、決心して私は口を開く。

「……新井、若葉」

「アライ、ワカバ」

 エックハルトは鸚鵡返しに繰り返す。妙な気恥ずかしさに、私は思わず声を上げる。

「なんか違うから、それ! アライじゃなくてワカバが名前だからね! それから、なんかやだよその発音、呼ばれても自分って感じしないよ!」

 それから何度か指導して、エックハルトの発音は、なんとか『ワカバ』でも『わかば』でもなくて、『若葉』に聞こえるようになった。


 それから、名前の意味についても少しだけ、新緑という意味だと伝えておいた。

 余談だけど、ヨーロッパ的な人名にも実は意味がある。新緑を意味する名前には『クロエ』というのがある。葉緑素、クロロフィルと同じ語源だ。

 それから、『リヒャルト』は威厳のある君主、『エックハルト』は鋭い刃という意味らしいのだ。ねえ、ぴったりだと思わない? もっとも彼らは、普段はその意味を意識してはいないらしいけど。


「若葉……若葉」

 エックハルトは繰り返す。

「もういいから。十分だから。……とにかく、満足した?」

「ええ」

 それから、エックハルトは手を差し出す。私もその手を握り返すため、手を伸ばす。

「同盟成立ね。よろしく、エックハルト」

「よろしく」

 エックハルトは固く、私の手を握る。


「了承ついでにもう一つ、お願いがあります」

「何かな?」

「私のお願いは、楽なものではありません、あなたに……ではなくて、彼女にとっては。それでも、聞いていただけますか。……言い切れませんが、後悔することにならないとは」

「えっ……えっ」

 その真剣な眼差しに、私は動揺する。

 そういえば前、エックハルトはアリーシャに迫ったことなかったっけ? あれは水パイプからの酩酊とは言え、そして今は、お互いまるで知らんぷりみたいになっているとは言え。とは言え、とは言え、だ。彼が本当は何を考えているのか、私にもよく分かってはいない。

「…………」

 答えかねていた私の様子を察したのか、エックハルトはその手に込める力を緩める、が、それでも手は離さない。

「きっと、何か勘違いなさっていると思います。私がお願いしたいのは」

「か、勘違いしてるって何!」

「されていなければいいです」

「してるよ! ていうか、分からないよ! あんたが何考えてるかなんて、私に分かるわけないでしょ! ねえ、なんなの一体!」

 私はというと、早速もう後悔しかけているのだった。

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