9章2話 多世界解釈 *

【新帝国歴1141年2月1日 アリーシャ】


 どれぐらいの時間、私は目を閉じていたのだろう。

 一瞬か、それとも、数分だったのか。

 瞼の裏に広がる暗闇。そこには何もない。誰もいない。


 開いた目、その視界には、私――正真正銘、アリーシャであり、それ以外ではない私が今座っている、馬車の内部、そして夕闇迫る窓の外の景色が飛び込んでくる。窓が少し曇っているのが気になるが、後で拭いてもらえばいいだろう。

 今の時間、子供たちはどうしているだろうか。それから、夫は。

 今日は大事な用事があったとは言え、たった半日のことだから、特に変わってはいないだろうけど。

 一大決心をして今日の訪問をした私――そう、私だけど、まだ完全に夜の帳は降り切っていない。なんだか疲れている気もするけど、これは精神的なものだ。実際には馬車で彼の部屋を訪れ、会話をして、それから出てきただけ。でも意識の上では世界の終わりの大嵐を通り過ぎてきたかのようで、へとへとでもう、目を瞑ると眠ってしまいそうだ。

 

 そうだ、私は、私。

 アリーシャ。若葉ではなく。


 ついさっきまでいた『若葉』が、今はここにいない。

 今はいない? たぶん――もう、いない。

 眠ってもいないし、意識もない。


 じゃあ、彼女の存在は完全に、私の中からも消えてしまったのか? それもまた違っている。

 私が若葉だった時の記憶――『若葉』である人格が管理していた私の記憶の一部も、今は私の中にある。この13年間の完全な記憶が全て、今はアリーシャである、私の管理下に戻ってきた。

 さっきのエックハルトと『若葉』の会話すら、私はその場にいた自分の記憶として思い返すことができる。できてしまう。


 これが意味するところは、きっと。

 きっとじゃない。そうなのだ。

 だってそれは、私――今は、私の一部――でもあるのだから。


『若葉』は、そう。

 自分がこの世界を生きている存在ではないと、その事実を受け入れて、認めてしまったのだ。

 だから彼女は、ある意味では消えて、またある意味では、私――になった。


「…………」

 頭がガンガンと痛む。意識は清明というわけにはいかない。

 まだ認識は混乱している。この人格の統合に今の私はまだ、慣れてはいないようだ。『若葉』がその存在性を失えば、彼女が感じていた虚しさや悲しみも、私のものとなる。そうして、彼女の唯一の心残り、懸念も。


 だって、エックハルトの約束は。来世では神様がまた巡り合わせてくれる、そんな単純な話ではないのだ。

 若葉が私の前世なら(もうほとんどその可能性はないと思ってはいるけど)、若葉の来世は私。アリーシャである私自身がエックハルトと来世の約束をしたわけじゃない。私には別の人がいて、別の人生があって。それに、エックハルトだって、この私を望んではいない。

 若葉が私の前世でないなら、転生なんてシステムがあるかどうかすら分からない。

 

 有り得るとすれば平行世界。無限に存在するだろう位相のずれた多世界のどれかには、若葉とエックハルトが同じ時間を生きる世界だってあるかもしれない。そして、それらの世界の間での記憶の継承は私たちの経験上、起きる可能性がある。でもそれは、そちらの世界のエックハルトにとっての可能性で、このエックハルトにとっての未来じゃない。あるいは記憶なんて関係なくて、何も知らない二人の人間が別の世界で出会う可能性、それだけに賭けているのか。


 こんな考察は全部、それが絶対に不可能、可能性が文字通りの、最小の非負整数ゼロだと断定する理由はない、だからこうであって欲しいという願望に過ぎない。普通に評価すると可能性は限りなく低い。そして、それは全部別のエックハルトの話。このエックハルトは二度と若葉には出会うことはない。


 それが、さっきの別れの意味だ。


 そもそも、こんな約束を私が覚えていていいわけではない。二人に対する信義に反している。この世界の神様は、そういう細かい心配りをしてくれなかった。神様がしてくれたことは、この世界線、この時間軸の人類を究極的な破滅から救うために、新井若葉、ちょっとだけ普通ではない普通の女性の記憶、意識、存在、その概念を、私に投げて寄越したことだけだ。


 そうこうしているうちに、馬車は公宮に辿り着いていた。私を降ろすため、御者や召使が扉の外で待っている。だけど私は、まだ躊躇している。こんなグチャグチャした精神状態を抱えたままで、私はいつもの私として振舞えるんだろうか。


「……アリーシャ」

 暖炉のある家族の居室にリヒャルトはいた。家族が増えてから、宮殿内は大幅に模様替えしていて、今ではこの部屋は全員が集まって団欒できる部屋の設えになっている。

 リヒャルトは膝に末娘、ベアトリクスを載せている。その兄二人は自室に帰ったとのことだったが、まだ2歳にならないベアトリクスには誰かの監督が必要だった。

「すみません、遅くなりました。あなたも、お忙しいんだから乳母に任せておけばいいのに」

 私は返事をする。発せられた声は、意外にも平静な、普段通りの私の声だった。

「一人で見ていたわけじゃないさ。さっき帰らせたが」

私たちはこれでも王侯貴族の端くれなので、子供の面倒はある程度は使用人に任せられる。リヒャルトの子供時代は母親に会う機会すら稀だったという、そんな風な疎遠さでないけれど、それでも公務との兼ね合いもあって使用人の存在は不可欠だった。


「どうだった、あいつは。エックハルトは」

 そんな風に彼は聞く。

「やっぱり例の持病でした。彼の悪い癖です」

「ああ」

 呆れたように、でも理解しているように彼は応じる。リヒャルトとエックハルトの関係もまた、普通ではない。

「ちゃんとやめるように言って来ましたし、本人も最後には納得してくれたみたいです。これでまだやめられないようだったら、しばらく病院にでも放り込んでください」

「そうだな」

 彼は簡単に応じる。


 それから、私はソファに腰を下ろす。しっかりと詰め物の入った布張りのソファで、姿勢を崩さず座ることができ体重を程良く受け止めてくれるからと、この硬さでお願いしたのだ。でも今の私の疲れ切った体には少し硬すぎて、強く跳ね返してくるように感じてしまう。

 無生物から感じる、無言の反発。それはあるいは気のせいというのかもしれない。

 つまりはこれは、私が感じている、小さく、だけど鋭い罪悪感ゆえだ。


『若葉』が消えた。

 それは裏を返せば、今までは消えていなかったということだった。

 まるでもう消えてしまったかのように、私も、それから『若葉』も、そうやって振舞っていた。ある意味では合意の上で、だけど、その理由は二人の間で違っている。


 私たちは、今までずっと整理できていなかった、決められてもいなかったのだ。この私、本来一人の人間である私が、いったい誰として生きるべきなのかを。

『若葉』――つまりここでは、私自身の一部であり、自分を若葉と考えていた意識が、アリーシャの人生を自分の人生として生きるべきなのか、それはずっとずっと、私にも彼女にも分からなかったのだ。

『若葉』の意識の占める領域は、以前に比べるとずっと小さいものになっていた、確かに。だけど消えるには至っていなくて、最後のきっかけを掴みかねていた。消えるべきなのか、それとも残るべきなのか。

 もし彼女が、自分はアリーシャなのだと心から思うことができていたら、人格の統合はもっと早く、また穏やかで自然な形で起きたことなのかもしれない。

 でもそうはならなかった。だって、若葉は本当は、自分自身として自分自身の人生を生き、自分自身として愛されて、自分自身の意志で、自分自身の心で誰かを愛したかったのだから。それが本当は強くも賢くも、美しくもない、心から愛される価値などない女だったとしても――というのは、別の世界の彼女が自分自身をずっとそう考えていたという話で、『若葉』が、そして私自身がそれをどう考えているのかは、今の私には分からない。

 そうだ、私達はそれが惜しかった。『若葉』にとってはそれは、自分自身を自分自身として生きた29年間の大事な記憶だ、たとえそれが幸せとは言えなくても、そして本当にはこの自分自身ではなかったとしても。


 それにしても、エックハルトだ。彼の存在が私たちにとっての運命の分岐点になるなど、一体誰が考えただろうか?

 偶然の積み重ねで、エックハルトは若葉を見出して、そして、二度と見失うことはなかった。エックハルトは若葉を愛して――私のことは愛さなかった。

 きっとエックハルトにとって私、アリーシャという存在の私は、愛する対象ではなくて、愛を競い合う存在だったのだろう。エックハルトはリヒャルトと若葉を愛していて、私もリヒャルトと若葉を愛しているのだから、彼にとってはライバルだったわけだ。そう考えるとちょっとおかしい、でもいろいろと合点がいく。あのつんけんした態度も、わざわざ私の大事なものを選んで壊すところも、私が腹を割って彼の立場に歩み寄ろうとしても、それなのに噛み合わない会話も。ずっと私たちは、小説の中の恋のライバルみたいだった。


 じゃあ、エックハルトのために。私はもう一度『若葉』に戻ることができるのか?

 おそらく、それは、もう。

『若葉』を若葉たらしめていた理由は、私じゃなくて、彼女の記憶の方にあった。世界に何も残すところなく死んでしまった悲しみと虚しさ、自分自身への怒りが作り出す強烈なエネルギーがあったからだ。それを自分自身のこととして感じることができて初めて、私たちは別人格たりえたのだ。


 つまり、だ。

 この私は『新井若葉』では、ない。


 それは、彼女の人生の記憶がだんだん薄れて、私から去っていくことを意味しているのかもしれない。今起きていないそれが本当に起きるのか、これからどうなるのかは分からない。

 とにかく私たちはずっと準備をしていた。その知識のうち大事なものから順番に、私たちの未来のために残しておけるように、記録し、また伝えるための様々な方策を取っていた。

 だけど、それは本当に、本当の問題じゃなかった。

 死。そのどうしようもない不当さ。どれだけ頑張ったって、この形では彼女の人生は取り返すことができないこと。

 エックハルトだけは、そのことに気がついていた。だからこの数年の間に、私たちから離れていったし、それに気がついていることに耐えきれなくて、あんな風に自分を追い詰めていた。


「…………」


 椅子に腰掛けながら私はこめかみに指を当て、ぐりぐり数回押す。泣きたいような、頭痛がするような気持ちだった。みんなが本当の本当に幸せになれる、そんなルートが存在しない。

 結局、替えの効かない大事な人の生命が失われてしまったことが、決して解決できない問題なのだ。一人の人間が死んでから、それがどれだけ大事な存在だったか、他の者が気がついたところで取り返しが付くはずもない。私の生命が便宜的に、失われた若葉の生命の代わりを務めていたけど、それは所詮代わりでしかない。私の存在によって死を超えることができるのだったら、みんなこんなに苦悩はしなくてよかったはずだ。だけど、私は私、生きている一人の人間でしかない。そうだろうと思う。そう思うしかない。

 エックハルトの約束。それはお伽話じみたもので、実現可能性なんてほとんどなくて、気休めでしかないものかもしれない。客観的に、冷たい目で見れば。だけど、それ以外に道はない。

 この世界はあの世界じゃない。だから、この世界があの世界と同じように発展を遂げればいいのか、私には分からない。だって、あの世界でいずれ訪れる破局的な状況が、システムに恐ろしい決断をさせたのだから。だけど、この世界の未来はあの世界の未来よりもっと良くなるかもしれない、そんな可能性の話なんてエックハルトの救いにはならない。だって、彼自身はその未来に行けないのだから。生まれとか身分とか、そんなもので痛めつけられきった彼の精神を究極的に救済する手段は、この世界のこの時代には存在していない。エックハルトはそれを理解していた、正気ではいられないぐらい賢い人だから。だから、彼はあんな風に言った。どうしても自分では別れを告げることができない、でも、それは彼女を傷つけるだけだから。エックハルトにとってはそれは私じゃない、彼女だ。


「……何か、あったのか?」

 リヒャルトはベアトリクスを抱き上げながら、私の側に立って、私の顔を覗き込んでいた。逆光になっていて顔はあまり見えなかったが、声は優しかった。

「……あなた」

 私の声は嗄れていた。自分が泣いていることに、私は気がついていなかった。


 どうして私は、『若葉』が『いる』と、みんなに伝えなかったのだろう?

 それは、公妃アリーシャというフィクションを守るためで。世界を救った聖なる存在、この時代の人智を超えた真理の享受者。それを一人の人格、偶像の中に留めておくには、離れ業的な芸当が必要で。だから二人分の知識と力と意志でもって、私達はやってきた。

 だけどそれだけじゃなくて、私は、きっと。

 若葉ではないアリーシャのことを、彼に愛してほしかった、きっと、そうなんだろう。ただのアリーシャである方の側面には価値がない、そう思われたくなかった。知られたくなかった。愚かで弱い私を愛してくれると言った彼にすら、人格としての『若葉』のことを伝えなかったのは、きっとそのためだ。


 だけど、これからも同じでいいのか?

 リヒャルト。私の恋人で夫、だけどそれだけじゃなくて、一番の友人で、戦友で、苦難を共にする仲間だ。それはこれまでだけじゃなくて、これからもっともっと大事になってくるだろう。

 じゃあ、全部説明できるのか。エックハルトが彼女を愛していて、今しがた彼女はエックハルトに別れを告げてきたと。それは、私がリヒャルトを裏切っていることにはならないのか? たとえ愛の行為に類することは何も(最後の行動を考えれば、ほとんど何も、というべきか)していないとしても。

 私自身の信義を貫くことを最優先するならば、それも言った方がいいのかもしれない。だけど、エックハルトが若葉に告げた言葉まで、私はリヒャルトに教えられるか? それは無理だ。あの人の心までは、私はリヒャルトに渡すことはできない。それは、私の責任の範囲を超えている。


「……『若葉』が、消えてしまいました。残っているのは、思い出だけ」

 私は、やっと言葉を絞り出す。

「……そうか」

 リヒャルトは私の肩に手を置く。

「……ごめんなさい、うまく説明できなくて。何と言っていいのか分からないのです。私たちは、これまでと同じように生きていけるかもしれません。私たちが、何かを失ったわけじゃない。でも、彼女はもういない」

 そうこうしているうちに、ベアトリクスが今度は、私の膝の上に来ていた。彼女は眠そうで、少しだけ不服そうな顔をして私の裾を掴んでいる。


「エックハルトは…………」

 私はそこで言い淀む。言葉を続けることができない。水の中で呼吸する魚が、俎板の上では酸素を求めて喘ぐように私は口を動かす。

「あの人は、善人です。私とはあまりちゃんと理解し合えたことはなかった、だけどあなたには誠実で、忠実です。忠義だと言っていい。あなたを裏切ることは決してない。だけど、あなたには彼は救えない。そして、私にも」

 彼女にはエックハルトが救えた、だから、そう言うことはできるか? でも、そうは言えない、言いたくない。だって、彼はまだ救われてはいないのだ。彼が救われるとしたら、あの当てのない約束の先にしかない。そして、それを口に出してしまったら、その実現可能性によって打ち砕かれてしまいそうで、触れることすらできなかった。私にはそれに触れる権利はないのだ、触れていいのは彼女だけ。

 たぶん、私がリヒャルトに向ける言葉としては筋が通っていないだろう。私は縋るような眼差しを彼に向けていたのかもしれない。

 長いこと沈黙しながら、鋭い青い目でリヒャルトは私を観察していた。

「……そうか」

 やっと言葉を発した彼は、再び私の肩に手を置く。その手には力が篭っていた。

「今は言わなくてもいい。いつか、話してくれ。……エックハルトと、彼女のことを」

「……リヒャルト」

 私は改めて、彼の顔をまじまじと見つめる。私のこの言葉だけで、リヒャルトは二人に何があったのか察したんだろうか? そうではなくて、私が若葉のことと、エックハルトのことに言及したことを言っただけかもしれない。いずれにせよ、私が二人について話していないことがあって、それをいつか話さなければならないことを彼は知ったのだ。

「エックハルトは、私のただ一人の家族なんだよ。もちろん、お前たちと築いているこの家族ではない、生まれた家の家族の一員、という意味だが。兄貴に関する大事な話だったら、私にも知る権利があるだろう」

「……そう、でしたね」

 リヒャルトはエックハルトを、兄と考えているのだった。一方のエックハルトは曖昧で、弟相手のように振る舞うこともあれば、重要な存在ですらなく、取るに足りない臣下の一人として殊更にへりくだることもある。

「あの人がこれから進む道は、ここからさらに困難になるかもしれません。私たちにはきっと、見守ることしかできない。でも」

「ああ」

 私の肩に置かれたリヒャルトの手を、私は握る。


 あの、糸が切れそうなぐらいに張り詰めた少年と、この人は同じ人間なのか。私に出会ってから、毎年毎年リヒャルトは成長していた、今もリヒャルトは、常に現在を見据えて、見極めている。それは、彼が複雑すぎる人生の中で、どうやったら誇り高い自分であれるかを模索して生きてきた事実の積み重ねが作り上げた本然だ。リヒャルトの力は、先に進むための力だ。リヒャルトがリヒャルトの人生を歩むために、彼は私を必要としていた。私自身は賢かったり強かったりはしない、だけど、私には彼の世界を広げることができる、それは他の誰にもできない。そうして私も、彼と同じ世界の広さを生きることができる。彼と一緒のこの世界の広さを。

 エックハルトは全く違う。彼がその身に抱いているのは、この世のものではない愛だ。そのために凄まじい集中力で、自分自身の精神を研ぎ澄ましている。それを信じていることができる自分、ずっと同じ自分であるように。

 この世の愛に生きる弟と、この世ならぬ愛に生きる兄。

 私はこの世界の人間。リヒャルトもそう。私たちはこれからもずっと、この世界で生きていく。私たちが見届けられない未来のために、暗闇の中の跳躍をこれからも、数限りなく続けていく。それは私が、私であって私ではない私、若葉にできる唯一の約束だった。


「……この子が大きくなる頃には、皆が幸せになっているといいな」

 私の膝の上で眠ってしまったベアトリクスを覗き込みながら、そんなことをリヒャルトは呟く。

「幸せになりましょう。私たちの現在を、それから、未来を生きて」


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