8章11話 ヴィルヘルミーナの手紙 *

【新帝国歴1140年11月11日 ヴィルヘルミーナ】


 季節は巡る。ヴィルヘルミーナは戻ってきていた、あの一号店、階上にヨハンの住居のあるランデフェルト公都の、あの建物に。

 公女ベアトリクスの1歳の祝いの式典の後、ヴィルヘルミーナはランデフェルトを去った。事業のための必要があったのだが、自分の気持ちを整理するのに、それだけの時間が必要だったとも言えた。


 迫る夕闇の中、ヴィルヘルミーナは手紙を封筒から取り出すと、広げる。彼女自身の筆跡だ。跳ねて勢いのある、特徴的な筆記体。昔は手紙を書くとか、まとまった文章を書くのは苦手だった。長い手紙を書けるようになったのは、彼女も大人になったということかもしれない。


「親愛なるお母様へ


 わたくしがお母様にこんな手紙を書くことになるなんて、正直、思ってもみませんでした。

 ですからお母様にとっても、この手紙でわたくしが伝えたいことは、きっと予想外であると思います。お怒りになるかもしれないと、そのことを恐れています。ですがどうか、最後まで聞いてください。


 これは、わたくしがこれからお父様にお伝えする、わたくしの決定に関係あることです。ですが、それがどんな内容か、それがわたくしたちにとってどんな利点があるかをお話しする前に、わたくしがどうしてそう思うに至ったのか、お母様にはそもそもの最初からお伝えしたいと、そう思いました。


 それは8年前、ランデフェルト公国を訪れたわたくしの身に起きたことでした。いえそれは、正確ではないでしょう。正確には、あの人の身に起きたこと、それが発端でした。

 お母様には、何のことか分かるでしょうか?

 あの、1132年の、蒸気機関車の公開実験と、その場に現れたあの、巨大な災厄です。

 お母様があの場にいらっしゃらなくて良かった。

 それは恐ろしいものでした。わたくしでも竦み上がったほどに。ですがもっと恐ろしかったのは、あの人の身に起きたことです。


 わたくしは、その場にいたのです。明るい、でも陰惨な空気の漂う、病院の一室でのことでした。

 ベッドに縛り付けられているのは、アリーシャ様の弟の、ヨハン様――ヨハンでした。

 傍らにはアリーシャ様がいらっしゃいました。そうです、現在のランデフェルト公妃、あのアリーシャ様です。

 私はアリーシャ様に付き添ってその場にいたのです。アリーシャ様は、今にも気を失われてしまうかと思いました。

 なぜってこれは——お許しください、お母様。なぜってこれは、彼の粉砕された片足を、切断するための手術だったからです。まだ繋がっている肉と骨の、健康な部分を残して、損傷した部分を鋸で断ち落として。

 ヨハンはその身を反らし、絶叫していました。何度も何度も。そして、やがては気を失ってしまいました。


 私はただ、離れた場所に立ち、その様子を見つめていました。

 あの人の絶叫も。

 病室に響く、陰気なのこぎりの音も。

 ベッドの下、床に流れた血溜まりも。


 だから、わたくしは何日かして、あの人を病室に訪ったのです。

 そのお顔は蒼白で、やつれていて。何日も十分に睡眠を取れていないのかと私は思いました。それでも彼は、彼は私のことを心配するのです。

 お母様、覚えていらっしゃいますか? わたくしとリヒャルト様が、婚約解消した時のことを。お母様だけはお怒りで、懸念を表明していらっしゃいましたね。ヨハンも、お母様と同じことが気にかかっていたようでした。

 だから、話してやったのです。わたくしは、もっと強くて賢い女だって。ヨハンは理解してくれました。わたくしのことを。ご理解ください、お母様。わたくしはこの時、初めての、本当の理解者を得たのです。


 ですからこれだけは、お母様にご理解いただきたいと、わたくしはそう考えています。だってわたくしは——」


 手紙は途中で止まっている。


 つまり、この決断をするためにヴィルヘルミーナには時間が必要だった。だけど、どうしても決心がつかない。この手紙をどう締めくくるか、そして、本当に自分は、この手紙を母に送ることができるのか。

 だって、母にも父にも言ったのだ、既に何度も何度も。自分は誰とも結婚しないし、誰と結婚したところで良い奥様になどならないと。


 弱々しい夕暮れの光の差し込む室内で、空気は止まったようだった。見慣れたテーブルに椅子、調度品、そしてソファ。久しぶりに見るそれらが奇妙に艶を帯びて、これまでは死んだように眠っていたのが息を吹き返したように見えるのは、それらの主人が今は中央にあるからかもしれない。

 ヨハンだ。彼も今は、この部屋に戻ってきている。そしてソファに寝転がり、目を閉じて、ぴくりとも動かない。ただその胸が小さく上下し、耳を凝らすと聞こえる僅かな息の音で、この場に生命の気配をもたらしている。

 そう、彼がこの部屋の主人なのだ、本来は。ヴィルヘルミーナは所詮客人に過ぎない。もし彼がそれを好まないのであれば、彼女はさっさと退散すべきなのだ。もし彼が、それを好まないのなら。


 だがヴィルヘルミーナはソファに横たわるヨハンを見下ろすと、自分もソファに、浅く腰掛ける。彼は夕食後、ソファで身を投げ出して、眠ってしまったようだった。上着を脱いだだけで、襟も解いていない。義足すら装着したままだった。それは彼の太腿にしっかりと固定されているので、外すのも億劫だったのかもしれない。

 半年前は仕事も郊外の自宅でこなし、この部屋からは足が遠のいていたヨハンだが、最近は逆に、この部屋にずっと滞在しているとのことだ。なんでも、公爵から命じられた仕事が大詰めで、休日もなく仕事漬けの毎日を送っていると、彼女は聞き及んでいた。


 ヴィルヘルミーナは手を伸ばす、ヨハンの額にかかる長い前髪に。縮れたその髪から覗く雀斑混じりの肌。

 いつからそれが、愛おしいと思うようになったのか。

 認めざるを得なかったのは、あの立てこもり事件の救出後、うわごとのように彼への罪悪感を口にしていた時だ。それまではただのお気に入り、珍獣のような存在、それだけだと、自分で思い込もうとしていた。そうではないし、最初からそうではなかったのだろう。

 それでも、二人の間は友情というだけに留めておいた方が都合がよかった、これまでは。金の鳥籠の中で所有者が決めた通りにただ時を重ねる人生からは逃れられたヴィルヘルミーナでも、どんな道でも選んでいい自由が得られたわけではない。穏当な生き方を逸脱することを、ヨハンに強いるわけにはいかない。

 でもそれは、これまでは、の話だった。

 ヴィルヘルミーナは自由ではない、自分が思い、望む通りには。それが、ヴォルハイムの胸算用ひとつで簡単に消し飛んでしまうような儚い自由でしかないとすれば。

 より高い空に向けて力強く羽搏くためには、決断を下す必要がある。それを選択しないことを決断するにも、その決断の行く末を見極める必要がある。そのためには、全ての虚飾と虚勢を失う危険を侵して、自分自身を、その魂を白日の下に曝け出さなければならない。ヴィルヘルミーナはそれが怖い、そしてその恐怖心はどうしたって否定できそうにないのだ。


「…………」

 ヴィルヘルミーナが黙ったまま、指でその前髪を梳いていると、ヨハンは目を覚ましたようだった。

「……なんで、あんたがここにいるんだ?」

 その言葉。無礼で、お構いなしで。

 ヴィルヘルミーナはその言葉に答える代わりに、冷淡に言い放つ。

「散髪ぐらい、ご自分でお気をつけなさいませ。お忙しいのでしたら、なおのことですわ」

「…………」

 ヨハンはその言葉には答えず、寝転がった状態から身を起こすと、無言で頬を擦る。

「……あれ、何とかなったぞ」

 しばらくそうしていてから、ヨハンが発した言葉だ。

「あれ、って、何ですの?」

 ヴィルヘルミーナは首を傾げる。

 それから、ヨハンは話してくれる、淡々と、静かに。


 ヴォルハイム大公アルトゥルとランデフェルト公女ベアトリクスの婚約。その契約にかかる懸念材料、安全保障の問題を解決するための両国間の取り決めは次のようになった。

 ランデフェルトは、ヴォルハイムの遺構発掘再開と、遺構発掘技術研究の方針に賛同し、協力する。

 そして、同盟国家が共同で研究機関を設置する。研究機関が設置されるのはヴォルハイム大公国領内。そして、ランデフェルトからは、責任者としてヨハンが派遣される。


「待ってくださいませ」

 話を遮ったのはヴィルヘルミーナだ。

「どうした?」

「いくつか気になりますわね。まず、譲歩しすぎではありませんこと? ヴォルハイムに」

「そうか?」

「だって、彼らはベアトリクス様を手に入れた上、ヨハンの身柄と、技術まで手に入れられる。どう考えても条件が悪いでしょう」

 ヨハンはしばらく無言になって、それから頭を掻く。

「…………。ヴォルハイム側としては、これでやっと対等、それぐらいの条件のつもりのようだ。ランデフェルトにはアリーシャがいるし、純粋知識での優位は動かせない。今や各国から学者が集まってきて奴の教えを請うている始末だ。だからあちら側にとっちゃ、最大限の歩み寄りを示してやったことになるんだろう」

「……それでも! ヨハンは、それじゃ……ヨハンは」

「まあ、ひとまずは数年間、あちらに世話になることになりそうだ。いざというときは人質か……まあ、そうならんように努力するし、できると思っている。俺はな」

「数年間は。……その先は、どうなるんですの?」

「どうかな。分からん」

 ヨハンは肩をすくめてみせる。数年間の平和は外交努力で達成できたとしても、その先のことは誰にも分からない。


 膝の上で拳を握り、考え込んでいたヴィルヘルミーナに、ヨハンは顔を近づけると、囁く。

「そんな顔しないでくれ。頼むから。俺は、これでいいと思ってる」

「これで、いいって」

「だからな。ベアトリクスは俺の姪でもあって……まだ赤ん坊だし。権謀術数のつけを彼女一人に負わせるのは、あまりに可哀想だ。それに、あんたのこともあるし」

「わたくしの?」

「あ……」

 ヴィルヘルミーナは首を傾げて、ヨハンの目を覗き込む。これには、ヨハンはしまったという顔で、少しの間だけ口ごもる。

「……エックハルト様に聞いた。この件に、あんたも巻き込まれそうだったって、そう。女を交えたしゃらくさい駆け引きで身を擦り減らすぐらいなら、その場に踏ん張って勝負に出た方がいいだろ、な?」

 その言葉の深い意味について、ヴィルヘルミーナは重ねて問いただしたい気持ちに駆られる。だが、重要なのはそこではなかった。

「その代償が、ご自身の自由と安全と仰るんですの?」

「それで怯んでいたら、男が廃ると思わないか?」

「思いませんわね」

 それから、ヴィルヘルミーナの方からヨハンに顔を近づける。

「自己犠牲の精神だけが美しいなんて、思えませんわ。わたくしには。戦うならば、武器と、防具がなくてはね。あなたには後ろ盾が必要。でしょう、ヨハン」

「後ろ盾……って、お前……」

 後ろ盾、その意味するところ。権謀術数、身分の保証、そして、政略結婚。

 それから、ヴィルヘルミーナは至近距離で、ヨハンの目を見据える。小さくて鋭い灰緑色の目、だが今は、ヴィルヘルミーナの紫の目の方が鋭い。


「わたくしと結婚なさい、ヨハン」

「俺か!!」


 窓ガラスを揺らす叫び声、それは微かな振動となり、夕闇が広がる公都の空へと伝わっていく。

 眩暈がしたかのように、ヨハンは再び、ソファへと倒れかけている。あまりに考えることが多くて、思考がついていかないという顔だった。

「………。要求を呑むのかと。ヴォルハイムの」

「どういう意味ですの?」

「だから、理解者になれと、そう」

「それは、アルトゥル様を理解して差し上げれば、それでいいのでしょう? でも、それはわたくしのできる範囲でだけ、それだけのこと。わたくしはわたくしの選択をします。そして、この場合の選択とは、あなたのこと。ヨハン。……ご理解いただけて?」

 ヨハンは再び身を起こすと、両手で顔を覆い、考え込んでいる。

「……いや、それ……。あのな。ええと。あちらさんにとっては、人質が増えるみたいな話にならんか?」

「どういう意味ですの?」

「いや……あの。俺たちが、その。ヴォルハイムに居を移すことになったら」

 動揺した表情で、仮定の話を口走るヨハン。どうやら彼は完全にヴィルヘルミーナのペースに乗せられているようだ。

「わたくしは近隣諸国で事業を展開しておりますから。ヴォルハイムだけに留まることになんてなりませんわ。もし状況が今よりずっと悪くなったとしても、実家に助けを求めて、あなたを保護することだってできるかもしれませんわ。それに」

 ヴィルヘルミーナは、ヨハンの鼻先に指を突き出す。

「ぼやぼやしてたらヴォルハイムに結婚相手を決められて、一生あちらに縛られるかもしれませんわよ。ヨハン、あなたに断れて?」

「…………。確かに。それは、嫌だな」

 ようやくヨハンにも読み込めたのかもしれない、政略結婚とは、一体どういうものなのか。ヴィルヘルミーナは得意げな笑みを浮かべると、言葉を続ける。

「ですからこれは、そういう計画。よろしくて?」

 女の方が各国を飛び回り、男の方が一つ所に留まる、そんな夫婦関係。この時代の常識からは大きく逸脱しているが、しかしできない話じゃない、かもしれない。ヴィルヘルミーナなら。そして、男の方の理解があれば。


「……しかし、大胆な賭け、だな」

「慎ましい賭けなんかしていて、投資を取り戻せると思っていらっしゃるのかしら」

「さすがだな」

「そのさすが、の意味をお聞きしてもいいかしら?」

 ヴィルヘルミーナの質問に、今度はヨハンも顔を上げる。

「強くて賢い女、そうだろ。お前は」

 そんなヨハンの言葉を聞いて、しかし、ヴィルヘルミーナは黙ってしまう。

「…………」

「ヴィルヘルミーナ」

「……まだ、何も言ってませんわよ」

「何の話だ?」

「あなたは! ご自分がどうなさりたいのか! まだ何も語っていませんわよ!」

 その言葉で、やっとヨハンも、ヴィルヘルミーナのいいたいことを理解する。

「そうか。……すまん。いや、そうじゃない。そうじゃなくて。……ちゃんと、言おうと思ってたんだ」

 それから顔を半分手で覆って、照れたようにヨハンは、言葉を探して沈黙する。それから彼は、テーブルに置かれていた図面を指し示す。そこには直線と曲線、それから走り書きで何かの言葉と数字が書かれているが、ヴィルヘルミーナには読み取ることができない。


「ずっと考えていたんだ。『災厄』と呼ばれたあの機械は多くが、細い金属の足で重い体を支えて、飛んだり跳ねたりしていた。その技術――せめてその自重を支える機構が解明できれば、足を失った人間でも自由に歩くことができるようになるんじゃないかと。この何年かは、これをやっていた。実家の方でな」

 その言葉で、ヴィルヘルミーナは一つ、思いついたことがある。

「だから、こちらにはいらっしゃらなかったんですの。秘密だから?」

「まあ、制限されている研究ではあるし……記憶だけで再現しようと試みているだけだから、直ちに処罰されることはないと思うがな。それよりも、お前には見せたくなかったし」

「どうして」

「それは。…………」

 しばらくヨハンは黙り込み、それからその言葉を発する。

「もし、この試みが成功して、その暁には。俺が自由に歩けるようになる、そんな義足を作ることができたら。そうしたら」

「そうしたら」

「そうしたら……俺と、結婚して欲しい」

 それが、ヨハンの言葉だった。今度は、ヴィルヘルミーナも言葉が失う番だ。その間に、ヨハンは言葉を続ける。

「だが、記憶だけじゃどうにも行き詰まっていた。現物を確認して、調べられないことには。だから今回の話は渡りに船でもあった、俺にとっちゃ。……難しい判断を挟んだとしても、な」

「それでも。……それは、いつ出来るんですの」

「いつかは、まだ」

「……その間にわたくしが結婚してしまったら、どうするつもりだったんですの!」

「そんときゃ、それがお前の決断だと思うしかない……と、そう」

「そうやって保険を掛けるのが、あなたのいちばん、悪いところですわ!」

 ヴィルヘルミーナは勢いよく、ヨハンに飛びつく。その勢いに、バランスを失ってヨハンは倒れ込む。そして二人は、ソファの上、それから床を転がることになる。


 そうしたままだったのは数分か、数秒か、それとも、もっと長い時間だったのか。

「……ちょっと、ぐしゃぐしゃになさらないで!」

 ソファの上、ヴィルヘルミーナの下でヨハンは、彼女の頭を手櫛でぐしゃぐしゃに掻き回している。ついさっきは、自分が同じことをしていたような気がしなくもないのだが。

「……すまん。慣れてなくて、こういうの」

 ヨハンはぽつぽつと口にする。それから、撫で方は優しく、その滑らかな髪に沿ったものに変わる。

「本当に、綺麗な髪してるな。大違いだ、俺たちとは」

「……初めてですのね」

「何が?」

「あなたが私の容姿を褒めてくださいましたの」

 ヨハンの胸の上で腕を組み、顎を乗せると、ヴィルヘルミーナはそう訴えてみる。

「そうだったか? ……いや、そうだな。すまん」

 顔をわずかに赤らめて目を逸らすヨハンに、少しの満足を覚えるヴィルヘルミーナ。だけど、それだけでは不満だった。

「それだけですの?」

「可愛いと思ってるよ。あんたのことは」

「貴婦人に向かって、可愛いが褒め言葉だと思っていらっしゃるのかしら」

「やけに突っかかるな」

「だって……」

 そこで、ヴィルヘルミーナは口籠る。彼女が長年抱えていた、わずかな劣等感について。

「違っていますから。アリーシャ様とは」

「なんで、アリーシャが出てくるんだよ」

「アリーシャ様は……色っぽい、ですから。わたくしとは違って」


 女の色香。蠱惑性。内面から滲み出るような、逆らいがたい女としての魅力。たった18歳だったアリーシャは、殊更にしなを作らなくても、着飾っていなくても、それを本然として備えていた。

 今ではその美しさを余人より称えられるヴィルヘルミーナだが、やっぱりそれは、アリーシャとは性質が大幅に違っている。そしてアリーシャとは一番身近な存在であるヨハンが、その差を意識しないはずはない。それがどうにも、ヴィルヘルミーナには引っかかる。


「色っぽい、って、お前……」

 ヨハンは、ヴィルヘルミーナの方に視線を落とすが、すぐに目を逸らして明後日の方向を眺め、それから考え込むようにして目の辺りを片手で覆う。

「……あの女は昔から、お色気過剰だったからな。別にすごい美人ってわけじゃないのに、食うとこなさそうな見た目してたくせに、な。つくづく人騒がせな女だよ、あいつは」

「……なるほどですわ」

「それでもあいつは善良なんだ。だが、あんたには迷惑をかけたと、そう思ってるよ」

「……ッ! だからッ!」

 ヴィルヘルミーナは食ってかかる。今のこの状況を、この男は理解しているのか。

 今は、ヨハンはソファの上に倒れ込んでいた。そしてその上にはヴィルヘルミーナ。大きく広がったヴィルヘルミーナのスカートが二人の邪魔をしているが、そんなことはどうでもいい。ヨハンは今は、ヴィルヘルミーナに組み敷かれている。

「……やっぱり、アリーシャ様のことばっかり! もう少し何か、言うべきことがあるとは思いませんの? この、わたくしに」

 ヴィルヘルミーナはヨハンの目を睨みつける。その灰緑の目は、まるで曇った空の下の、冬の海のようだった。ヨハンのその目はアリーシャともよく似ていたが、その目の奥の光はもっと優しくて、それから普段は隠している気の弱さも宿っている。アリーシャとは違うヨハンの弱さ、それがヴィルヘルミーナは好きだった。

 ヨハンは再び、片手で顔を覆う。

「……なんというか。何ていえばいい?」

「お考えなさいませ。ご自分で」

 ヨハンは口に手を当てて、しばらく黙る。

「……俺はアリーシャより他の誰より、お前が一番いい女だと思ってるよ。どこぞの評判の美女を何人並べられたって、お前には代えられない」

 ヴィルヘルミーナの目、その奥を初めて真っ直ぐに見据えて、そう言うヨハン。彼は本当に、どこまでも、どれだけ照れ屋なのだろう。今まで会ったことのあるどんな男よりもそうなのだ、彼はきっと。それでも、ヴィルヘルミーナはふふん、と笑ってみせる。

「及第点、ですわね」


 それから。


 ——ああ、お母様。

 私がどんな気がしたか、お分かりになりますか。

 8年間、ずっと好きだった人に、その長い上に長い指で、腕を掴まれて、引き寄せられて。

 唇を合わされて、その目に見られて。

 愛していると言われることが、どんな気がすることなのか。

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