8章2話 姉弟ふたたび *
【新帝国歴1140年6月8日 アリーシャ】
「……それで話を終わりにしたわけ?」
「だから、探りは入れたし、奴にその気はないことは確認したが?」
それが、私たち姉弟の会話だった。
ここはランデフェルト公宮の応接間の一つ。いつまで経っても登城しないヨハンに痺れを切らした私が直々に召喚した結果だった。ヨハンは渋々と言った感じで公宮に現れたが、若い頃とは違って、何も言わなくても大人の男性の正装をきちんと着こなしている。私としては、ようやくそういう格好が板についてきた、と言いたいところだけど。
一方の私は、貴婦人に相応しい、でも非公式の場なので、略式のドレス姿。美しいドレスを着られるのは良いことだし、王侯貴族としてのおめかしに慣れてもきたのだけれども、もっと楽な格好をしていられた若い頃が懐かしいと思わないこともない。
「ヨハン、あんたね。どれだけ意気地が無いわけ?」
「久々に会った弟に言うことがそれか」
「だってしょうがないでしょう。ヴィルヘルミーナ様の堂々としたご様子に引き換え、なんであんたはそんなに情けないの」
「何言ってんだお前! いい歳こいて色ボケか!」
「ヨハン今、いい歳とか言った?」
「あのな……だからな」
笑顔で詰め寄る私に、閉口気味のヨハン。
少し離れたところでは男性の召使が様子を窺っていたが、私の視線に気づくと視線を正面に戻し、何気ない風を繕った。
聞くところによると、ヨハンは3日前、ヴィルヘルミーナ様の訪問を受けたと言う。現在ではご多忙で、各国を飛び回っているヴィルヘルミーナ様だけど、私たちの公都にある彼女の1号店のことは気にかけていて、何ヶ月かに一度は訪れて様子を見て、また他の国へと旅立っていく。例のお店の上階にある住居はいつもヴィルヘルミーナ様のために確保されていて、いつでも快適に滞在できるように管理されている。
一方のヨハンはと言うと、最近では実家にいることが多くて、技師の仕事も自宅で行えるようにしているようだ。そろそろ私たちの両親も歳を取ってきて心配だし、農園の管理についても把握していないとならないし。手先はともかく社会的には不器用なところのあるヨハンに、技師と農園の主の両輪が務まるのかは私には少し不安だった。
そんな感じで、公都のあの部屋で生活するのは一年でも限られた期間だけで、今回はヴィルヘルミーナ様とはすれ違いになったということみたいだった。
とにかく、ヨハンは私に対して、抗弁を続けるのだ。
「だからな。恋愛だ結婚だなんだってのは、当人の意向があって初めて成り立つもんだろうが。周りが勝手に盛り上がって乗り気じゃない奴を神輿に挙げて、それで当人が不幸になったところで誰も責任取らんだろうが」
「じゃあ、その当人の意向をお聞きしましょうか?」
「だから、それを聞いたが? ヴィルヘルミーナに」
「そうじゃなくて、あなたの意向よ」
「は? だから! 何なんだよ畜生」
「そういう言葉遣いはやめてって、いつも言ってるでしょう。あんただって別にもう若くないんだからね?」
ヨハンはしばらく黙る。なおも口答えしたそうな風情だったが、やがて何を言うか決めたようだ。
「ヴィルヘルミーナには、もっと余人に優れたような、人の先頭を軽快に駆けていけるような男の方が相応しいだろう。俺じゃなくて、もっとお前の夫君に近いような」
「……あんたねえ」
私は軽く歯軋りする。だって、ヴィルヘルミーナ様はもともと、現在は私の夫であるリヒャルトの婚約者だったのだから。
「その話を引きずってるの、そろそろもうあんただけだと思うけど?」
私としてはこう言わざるを得ない。私の立場として、本当にそれを言っていいのかは分からない。でも未だにその話を出すヨハンの考え方は、あれだけご自分の人生で輝いてらっしゃるヴィルヘルミーナ様に失礼じゃないかと思う。
「心のうちなんて本人にしか分からんだろ。……違う、そうじゃない。そういうことじゃないんだ。俺は、ヴィルヘルミーナが人の先頭に立って駆けていく所が見たいんで、お荷物を抱えてるところなんか見たくはない。でいいだろ? ……なあ、そろそろ勘弁してくれ」
懇願口調のヨハンに、確かにそろそろ、私は話を切り上げる潮時であることを感じる。
「分かりました。ヴィルヘルミーナ様に関しては、それでいいとしましょう。問題はあなたよ」
「全然切り上げてねえじゃねえか!」
女王然とした雰囲気を纏うよう、その演技を意識しながら、私は厳かに宣言する。
「今まではヴィルヘルミーナ様の話だったでしょう? で、ヴィルヘルミーナ様への姿勢は理解できました、私にも。……だから別の話。あなたが結婚もしないでいつまでもふらふらしていると、縁者としては困るの。だから、あなたが自分の人生をどうしたいのか、今度はそれを伺ってもいいかしら?」
ヨハンは気がついていないかもしれないが、公宮のメイドたちの主要な関心対象は、今やエックハルトよりもヨハンだ。元平民の準貴族で、さらには公妃の縁者ともなれば、平民の女性の玉の輿候補としては最適だ。そんなわけでヨハンは狙われているのだが、ヨハンが相手にする、というか気が付く様子すらない。昔は女の子と付き合いがそれなりにあったような気がするのだけど、歳とともに内気になっていくのがこの弟の気質らしい。でもそんな身持ちの固さも、結婚相手として考えるには肯定的な材料ということらしい。口の悪さだけが玉に瑕だけど。
「だから!」
そう叫んでから黙って、それからヨハンは自分のズボンの裾を少しだけ捲り上げる。そこからは彼の義足の先端が見えている。
「ヴィルヘルミーナだろうが、別のどこの女だろうが、誰かの負担にはなりたくない。そう言っているだろう、いつも」
「うーん。ごめんなさいね。でも、女性ってそういうものではないと思うんだけど」
私は柔らかめに疑問を呈することにする。肉体的な優越性は確かに世の中の女性の関心事だと思うけど、その点をとっても皆がただ一つの軸で評価しているとは私は思わない。足のことはあるけど、背がとても高くて、顔立ちもそこそこ整っているヨハンは現に人気があるし、他には手に職をつけていることや身分があること、知的能力もプラスの材料だ。
「分からないんだよ、経験したことない奴には。のろのろとしか歩けない自分を、周りの奴らがさっさと追い越していく感覚も。それから、全身に罅が入って割れていきそうな痛みのことも」
口調は強いけど、ヨハンはどこか、懇願するような表情だった。
というわけで、1140年、29歳になったの私の物語は、一向に身を固めようとしない弟、ヨハンの問題から始まる。ヨハンの足のことは私の責任でもあるし、それからヴィルヘルミーナ様のことも気にかかる。
だけど私は、二人にだけ構ってもいられない事情もあった。この前年に生まれた私たちの娘、ベアトリクスが1歳の誕生日を迎える。この度は式典が執り行われ、各国からの賓客を私たちはお迎えすることになる。式典というとあの重い記憶、蒸気機関車の公開実験のことを思い出さないではないのだけど、折に当たって国家を、平和な世を寿ぐことは国家の主の責務でもある。
今の私にはそう、ランデフェルト公妃としての手腕が問われているのだ。
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