7章2話 姉と、公爵と、その側近 *
【新帝国歴1135年5月15日 ヨハン】
「……そういうわけだ」
俺は嗄れた声で彼に告げる。
「……まあ、ご苦労だった」
リヒャルト殿下は心なしか、掠れた声でこちらに応じる。
ヴィルヘルミーナの家出の件で泣きを入れに来た俺が通されたのはランデフェルト公宮の応接室で、公爵が私的な客人を迎えるために用意された部屋だ。初夏の明るい光がガラス窓から差し込んで、品の良い室内の調度品の輪郭の上で踊っている。約束もなく公爵に面会を申し込んでも門前払いを食らわないようなご身分ということに俺もなったらしいが、それは別に俺の功績じゃない。
この部屋の主、公国の君主でもある公爵殿下、リヒャルト様は腕を組んだまま、渋い顔でこっちを見ていた。淡い色の金髪に青い目の青年だった。彼は御歳20歳で、俺よりは3歳下ということになる。まだ3年前は少年の風情が残っていたが、今はどちらかというと成熟した雰囲気だ。アリーシャとは結婚してもう2年で、実際に大人なのだろう、いまだにふらふらと、ケツの落ち着かない生活を送っている俺と比べると。
「俺じゃ手に負えない、分かるだろう。引き取ってくれ」
「まあな。だが」
そう答えると、リヒャルト殿下は視線を斜め後ろに向ける。
「……なかなか難しいわね。それは」
入ってきたのはアリーシャ、俺の1歳上の姉だ。今やランデフェルト公国の妃と言うことになる。彼女は今は、ゆったりとしたドレスに身を包んでいた。アリーシャが入ってきた扉の先はこの部屋と続きの応接室で、ヴィルヘルミーナが通されている。アリーシャはヴィルヘルミーナの話を今まで聞いていたらしい。
今やアリーシャは、身だしなみすら何人がかりかで面倒を見られているのかもしれない。鳥の巣だった赤毛の頭は綺麗に整えられているし、顔中の雀斑も目立たないような化粧が施されている。すっかりどこぞの若奥様気取り、いやこれは言葉が悪いか。貴人の若奥様の風情が板につきつつあった。
「何が難しいんだよ」
俺は相変わらずの口を利く。何故って、この女は結構な曲者なのだ。その理由は、この会話を追いつつ説明していきたい。
「『だって、ランデフェルト家だって実家みたいなものでしょう、わたくしにとっては。実家を頼りにしたら、戦争に勝ったことになりませんもの。わたくしはわたくしの力で、立派に独り立ちできるところを見せつけてやりますわ』だそうよ」
「あの女……」
俺は顔を覆う。
「……とにかく、うちに置くわけにはいかんだろ。どこか、お嬢様がゆったりお過ごし遊ばされる、手頃な住居を用意してやってくれ」
「……それがねえ」
アリーシャは思案げに、頬に手を当てる。
「同じような住宅がなかなか見つからないのよね。地価が高騰してもいるし、あの辺りで空いているのは、あなたの家だけなの」
「じゃあ俺が出ていく! 最初行った通り、下宿に住まわせろ!」
正直これは強がりで、今のこの足で、貧乏下宿で生活できるような気もしなかったのだが。
「あら駄目よ。立場に相応しい振る舞いぐらいは、あなたも心得て頂戴」
「おーおー、お貴族様気取りかよ」
「身分の話じゃないわ。あなたはもう平の技師でもない。工房を率いていく一員としての自覚を持たないと。それなりのお金が渡されているというのはそういうこと」
なんか腹立たしい態度だったが、アリーシャの言うことは尤もだった。
「……だけどな。得体の知れない男の家に転がり込んだなんて風評が立ったら、あのお嬢さんの将来にどう影を落とすか分からんだろう。頼むから良識で考えてくれ」
項垂れつつ、俺なりに理を尽くして語ったつもりだったのだが、アリーシャの答えはこうだった。
「あら。あなたが終始紳士として振る舞い、ヴィルヘルミーナ様に失礼のないように心がければ、全く問題ないじゃない。そこは当然、理解しているわよね?」
「!!!!!!!」
声にならない叫びを俺は上げる。
「クッソクッソ! せめて差額をくれ! 下宿が手狭になった分の!」
「あら、ヴィルヘルミーナ様はあなたのお客様じゃないの。そういうさもしい考え方はどうかと思うわよ?」
「クソどあつかましい女だなお前も」
「そういう品のない言い方はやめてよ。場末の酒場に入り浸りすぎたんじゃないの?」
このどうしようもないやりとり、まさに育ちが知れるというもので、貴人の妻とその親族には相応しくないだろう。ヴィルヘルミーナの件に関して、俺が陥ったこの苦境に関しては、アリーシャは面白がりすぎているんじゃないのか。あるいは国家からの俺への信頼が想像以上に厚く、お嬢様に変な虫がつかないように睨みを利かせる番犬に相応しいと思われているのかもしれないが、それは残念ながら買いかぶりというものだ。
そんな俺たちの様子を、リヒャルト殿下はじっと観察していて、それから言う。
「……すまん」
「……いや。あんたも大変だな」
流石に、公爵相手にこんな砕けた物言いは、許された話じゃなかっただろう、普通ならば。だが、アリーシャは最近、やたらと気が強くなりつつある。昔と違っておどおどした暗い表情は見せなくなっていたのは良いのだが、いくらなんでも、だ。物事には限度ってもんがあるんじゃないのか、と俺は考えている。
そんな俺の思いとは裏腹に、リヒャルト殿下はしばらく黙ると、それから頬を掻きながらこんなことを口にするのだ。
「私は、家族の団欒や、打ち解けたやりとりなんて経験したことがなかったから。だから、こうしてお前たちの喧嘩を聞いているのも悪くない」
(こりゃ、尻に敷かれてるな)
その様子を見ながら、俺は薄々察しているのだった。
「手配はしておきますよ」
応接室を出た俺に、声を掛ける者があった。エックハルト様だ。
今は俺もエックハルト様と同じく準貴族ということになっているらしいが、生まれながらの貴族然としたこの男と、逆に生まれながらの平民でございという俺の身分が同じというのも、変な気分ではあった。
とにかくエックハルト様の言う手配とは、俺がさっき主張した下宿の差額分の話とのことだった。
「……すみません。お嬢様を歓待するためにも、何かと物入りになりそうでもあるし」
「それはまた別に」
こういう話をつけるなら、奴らよりはエックハルト様だった。アリーシャはあの通りだし、リヒャルト殿下はもう少し俺に優しいとは言え、ことに金の話になると厳格だ。エックハルト様であれば、情実を理解して臨機応変に便宜を図ってくれる。
「……ええと、それから。お世話になりました。本当に。例の件では」
「何の話ですか?」
「姉の身分の話で。何か、相当な便宜を図っていただいたみたいで」
何年か前までのアリーシャの武勇伝において、エックハルト様も相当な立ち回りをしていたらしい。またなぜ平民出身の女が公妃になれたかというと、エックハルト様によって印象操作が行われたからとのことだ。なんでも、『救世の乙女』とか何とか、そういうホラ話まで吹聴されたらしい。俺相手には淡々と便宜を図ってくれるエックハルト様だが、そのゴリ押しの手腕は相当なものとのことだった。
だが、エックハルト様は答えるのだ。
「私は嘘を吐いた覚えはないですね。多分あなたの考えるのとは、それから他の誰が考えることとも違っているでしょうが」
「……はあ」
微妙に不可解なエックハルト様の言葉に、俺は空気の抜けた返事をする。
「私は、あの場で奇跡を見たんだ。あの方がどう仰ろうが、それは私には関係ない」
エックハルト様はそう続けた。その口調はどこか悄然としていて、うまく言い表せないが、エックハルト様らしくはなかった。
エックハルト様と言えば艶聞絶えないという噂の男で、その美貌は恐ろしいほどだった、数年前までは。30代も半ばになると、そうとも言ってはいられないのかもしれず、少しやつれたようなというか、油っ気が抜けたような雰囲気がしないこともない。俺に気にかかったのは、そのあるかなきがごときの外貌の変化よりは、その表情に幽霊のように付き纏う孤独の影だった。
そんなこんなで、分かった話と、それから決まった話だ。
ヴィルヘルミーナは、その『野望』の実現のため、実家のリンスブルック侯爵家と決裂し、戦争状態にあるとのことだ。その実現までは帰らない、絶対に独り立ちしてやると息巻いていて、実家は実家でカンカンとのことだが、同時に解決方法を探ってもいるらしい。
解決の機会はおよそ半年後、この年末に執り行われる、ヴォルハイム新大公の即位式とのことだった。
数年前にヴォルハイム大公は身罷られていたが、幼年の子息に大公位を継がせるには準備期間が必要だった。この度それが整い、大々的に即位式が行われるとのことだ。当然ランデフェルト公爵家も、それからリンスブルック侯爵家も招待されており、そこにヴィルヘルミーナが出向けば、和解の席を設けることができる。それまでの半年間は自由にやらせてやれば良いと、そういうアリーシャの見立てであるようだ。
だから、その半年間は俺はせいぜいお行儀よくして、お嬢様のお守りとしての役目を立派に果たせばいいらしい。
だが、部屋の割り当てでは揉めた。
ヴィルヘルミーナが下宿人ということになれば、3階に移ってもらうのが筋だろう。だが3階は質素な作りで、彼女のようなお嬢様にはおよそ相応しくない。だから俺が3階に移るかと言ったら、それにはヴィルヘルミーナが反対した。驚いたことに、この女にも遠慮という感情はあったようだ。まあ、俺の足のことまで考えたら、移るのは現実的ではないのかもしれない。
結局こうなった。3階のうち1室をヴィルヘルミーナのために改装し(このために大型のベッドの部品を運び込み、内部で組み立てるという大仰さだった)、同じ階には彼女の世話をするメイド2人を公宮から派遣してもらい、そこで起居してもらう。ヴィルヘルミーナは家事なんてしたことがないだろうし、料理番兼世話係の婆さんだけで賄っていた俺の生活とは違って、お嬢様が気分良く生活するには細かな気配りをする存在が不可欠だ。ついでに言うと、女たちと階数が分かれていることで俺の潔白も証明できる。
ただし、3階には満足のいく台所も食堂も、それに居間もないので、2階のそれらを彼女らも使うことになってしまった。まあ、俺も普段は仕事漬けだし、書斎と寝室にさえ踏み込まれなければ、適度な距離を置くことにはそこまで困難はないだろう。
だから、問題はない。この半年を耐えることさえ出来れば。
そう思っていたのだが。
【新帝国歴1135年5月16日 ヨハン】
「なんだこれ」
俺は茫然と呟く。
「あらヨハン! 驚きまして?」
「驚いたっていうか、驚いたわ」
たった1日後の話だ。俺は生活に関してはお互い干渉しないと(一方的に)約束して、工房の仕事に出たが、気になるのもあって早めに帰ってきた。
その1日で、1階の様子は様変わりしていた。職人たちが家具を運び込んでいるし、カーテンを付け替えているし、照明の取り付けまで行っている。
「何を、やってんだ」
俺は、この数日間で一番、嗄れた声になっていたような気がする。
「お店ですわ! ここにわたくしのお店の第一号を開きますの! 各国のご婦人たちの憧れとなるような、素敵なドレスのお店を作り上げてみせますわ!」
意気揚々とヴィルヘルミーナは宣言する。俺は絶叫した。
「助けてくれ!!」
これはつまり、こういう話だ。
ヴィルヘルミーナには夢があった。侯爵令嬢として政略結婚の駒、権力者の妻となることではない、もっとでっかい存在になる夢だ。
ヴィルヘルミーナにとってのでっかい存在とは、「自分が理想とするような素敵なドレスをご婦人方に届け、夢を与える仕立て屋」だ。ヴィルヘルミーナの家は侯爵家で、その中でも金持ちだから、あちこちの仕立て屋が出入りし、その中には華々しく活躍するご婦人もいた。自分の興味や適性も鑑みて、それを目指す、否、超えることが彼女の野望であるらしい。
しかし、そういった女性と言えども、偏見から逃れるのは難しいのが当世の気風だった。とくに、侯爵令嬢ともあろう者が世の中に出てドレス店を開こうというのは、高貴な方々の考え方からすればとんでもない話だった。だが彼女の実家、リンスブルック侯爵家の人々からどのように諭されようと、ヴィルヘルミーナの決意は変わらなかった。
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