6章14話 半身 *

【新帝国歴1133年2月21日 アリーシャ】


 アリーシャ・ヴェーバーは、女性ながら類稀な学識と才をもってランデフェルト公リヒャルトによって見出され、やがて愛された。そしてその学識と才は、世界各地に蔓延る『災厄』の撃退、及びその永久的解決において力があった。アリーシャ・ヴェーバーは今や救世の乙女として各国から讃えられ、その行末を保証されることは自然な成り行きと思われた。

 これが、エックハルト様の描いた筋書きだ。


「救世の乙女とか、やめてくれません?」

 私は何度かそんな抗議をしたと思う。

「民衆には娯楽が必要なんですよ。そういう娯楽になってください」

 それが彼の答えだった。やっぱりこの男は腹立たしい、それはどうも、最後の最後まで変わらないらしかった。


 エックハルト様は本当に腹立たしいのだ。例えばこんな話がある。


 世界から災厄の影が消えたことがどうやら確実となり、色々なものが緩やかな回復期間にあった頃のことだ。

 私達は、一緒に過ごすことが前より多くなっていた。大抵はリヒャルト様の執務室で、彼が机に向かって仕事をしているのを、私はソファで、ぼんやりと眺めていた。調子がまだ万全ではないことを心配されて、私には仕事は与えられなかった。この時期は私がお手伝いしようと申し出ても断られてしまって、リヒャルト様が机に向かっているのをただ見守ることしかできなかった。


 時々、リヒャルト様は立ち上がり、一つ伸びをすると、私の座る隣に座ることがある。それからごく近くでじっと私の目を見て、そのまま無言でいる。それから時々は、黙って頭を擦り寄せてくることがあったり。そんな時の彼は、まるで猫みたいだ。

 とはいえそれ以上に踏み入ることは、滅多になかったのだけど。私が『公妾』ということになっていた時は、お互い無理をして大人ぶっていたみたいだった。

 それから、どういう経緯でか、私が膝枕してあげることになったりもして、私はおっかなびっくり、形の良いその頭を膝に乗せていた。リヒャルト様はただ目を閉じていた。時々寝返りを打って私のお腹の側に顔が向いたりするので、そういう時は片手で目を塞いでやるのだけど。

 そんな時に、私はふと思い出したことがあった。


「ねえ、リヒャルト様」

「……どうした?」

「前に、一度。私に尋ねたことがありましたね」

「何を?」

「『アリーシャ。……もし』って仰いました。だけど、その後黙ってしまわれて」

「そう言われてもな。いつの話だ?」

 遺構制圧作戦の後、眠りこけてしまったリヒャルト様を、私が彼の私室で見守っていた時の話だ。会話としてはあまり内容のあるものではなかったのだけど、何かとても言いたげだったリヒャルト様。最近距離の縮まった関係に、あの時のことを不意に私は思い出したのだ。

「……ああ。あれは」

 どうやら思い出したらしいリヒャルト様だけど、そう言ったきり黙ってしまう。

「どうしたんですか?」

「それは、いいんだ。別に」

「そう言われると、気になりますね」

「……だから」

 そんな感じでしばらく渋っていたリヒャルト様だけど、私が盛んに聞きたがったので、教えてくれる気になったようだ。

「あれは、だから。……『もし何の障害もなかったら、私と一緒に生きてくれるか』と、そう」

「…………!!」

 顔を紅くして、躊躇いつつ答えるリヒャルト様に、私も言葉を失ってしまう。

「……それって、つまり」

「……だから! それはいいと言っただろう! 意味のない問いだったから」

 撥ね付けるような態度になるリヒャルト様だけど、どうやら照れているということらしい。

「……意味ないなんてこと、ないでしょう」

 私もなんだか恥ずかしくなって、それだけの言葉を絞り出す。

「……だから。障害がないなんてことはなかっただろう。ずっと。どうにかすることができないのに、聞いたって困らせるだけだろう」

 悪びれつつ、そう答えるリヒャルト様。

「…………」

 私は片手で顔を覆ってしまう。その時の彼の気持ち、心の動きを想像したら、得も言われぬ感情に襲われる。なんと言っていいのか分からないけど、幸せだということは言えた。


 その時だった、突然、扉が開いたのは。

「殿下。この書類ですが」

「え、え、え、え、エックハルト様!!」

「どうした」

 突然のエックハルト様の闖入に焦りまくる私だけど、リヒャルト様は落ち着いたものだった。あるいは、瞬間的に動揺を取り繕うことには慣れたものだったのか。エックハルト様の方はというと、私たちの会話を把握していたのかいないのか、私に一瞥すらくれなかった。

「あの。……ちょっと。困るんですけど」

 私から文句をつけて初めて、私に視線を向けるエックハルト様。

「どうかしましたか?」

「……せめて、ノックぐらいしてください!」

「失礼しました。今後は」

 本当に申し訳ないと思っているのか、全く思っていないのか。その後ノックだけはしてくれるようにはなったけど。


 この世界では、災厄から民を守ることが王侯貴族の支配権、特にランデフェルト家にとっての重要な根拠になっていた。そのため、災厄から世界を救ったことは、私の身分の問題を完全に解決できると、そういう話だ。それが広く認められたのは、救世の乙女とかなんとか、エックハルト様の誇張した武勇伝の甲斐もあったのかもしれない。

 それらの経緯で、私たちの結婚の障害は取り除かれたのだった。でもその後なんだかんだと時間が掛かって、婚礼が取り行われたのは、遺構停止の翌年、1133年も半ばのことだった。



【新帝国歴1133年6月15日 アリーシャ】


 それから、婚礼の日の話だけど。

 婚礼にまつわる諸々のことについて、微に入り細に入り、その流れの全てを語るのは正直恥ずかしいし気が引けるので、いくつかの物事のみについて語ることを私に許してほしい。


 まず、婚礼の準備中、支度部屋でのことだった。

「だから、まだ入ってきては駄目と、そう申し上げているでしょう!」

 決然とした様子で叫んでいるのはヴィルヘルミーナ様。怒られているのはなんと、花婿たるリヒャルト様だ。私の位置からはその顔は見えなかったけど、あたふたしている様子が目に浮かぶようだった。

 私の花嫁衣装について、それを用意する仕立て屋を選定してくれたのは、なんとヴィルヘルミーナ様だった。

 この日の服装はれっきとした王侯貴族の正装だ。今では舞踏会等でドレスを着る機会は何度かあったが、こんな風に豪華な衣装だったことは今までなかった。それから胸は大きく開いていて、この季節では結構寒い。こういう衣装ではしっかりしたコルセットを付けなければならないが、私の体型だと寄せて上げるのも限界があるので、それでも格好良く収まるようなコルセットを特注した。そういうアドバイスも全部ヴィルヘルミーナ様がやってくれている。まだ十四歳なわけだけどヴィルヘルミーナ様はしっかりしていて、まだ背は小さいけれどその威厳は堂に入った貴婦人の風情だ。

 リヒャルト様とヴィルヘルミーナ様のことについても私は思いを馳せる。二人は元婚約者だし、確執もあったわけだけど、もうそんな様子は微塵もない。二人は親戚、はとこなわけだから、確執があったって乗り越えていけるのかもしれないけど、ここまで物事が丸く収まったのは、ひとえにヴィルヘルミーナ様のおかげと言って良かった。

「もう、大丈夫ですよ。入っていらしても」

 侍女たちのおかげで身支度が済んだ私はそう声を掛ける。

「リヒャルト様。あなたはどうなんですの。ご自分はまだ着替えが済んですらいらっしゃらないのに、こんなところで油を売っている場合ですか!」

 冷たくヴィルヘルミーナ様はリヒャルト様を叱りつける。

「ま、まあまあ。まだ朝も遅い時間ではありませんし、婚礼は午後ですから」

 私はそう言って宥めてから、リヒャルト様に向き直る。

「どうです、私、綺麗になってますか」

 柄にもなく、私はそんなことを聞いてみる。普段はあまり飾り気がない服装だし、それでいいと認めてくれている彼だけど、これだけ粧し込んだんだから、たまには違う感想も聞きたかった。

 リヒャルト様は視線を落としながら、ぼそっと呟く。

「改めて、惚れ直して、る」

「…………」

 私も無言になり、視線を落としてしまう。

「あああーーもう! 時間がかかる!」

 そんな生産性のない私たちの会話に、キレ気味のヴィルヘルミーナ様の叫び声が響き渡った。


 それから、婚礼の場面。

「アリーシャ、私の半身」

 彼はそう口にする。婚礼衣装に身を包んだ彼は、正視できないほど美しい。その青い目は吸い込まれそうな色だ。青い炎のような、透き通った流れの川底の小石を見透かすかのような色だ。

 私はその目の奥に、彼の魂の色を見る。初めて出会った時から、彼は炎のように、氷のように、激しくて、純粋だった。あの少年の中にはこの青年がいたし、この青年の中にはあの少年がいる。

「……私の、半身」

 私は繰り返す。この孤独な魂が、片割れとして私を探していたことを思う。私の半身。たぶんその言葉は、アンドロギュノスの神話に由来している。

 アンドロギュノスの神話によると、遥かな古代には、人間は二人で一つの存在だった。だが、その傲慢さのために、その体はゼウスによって二つに分かたれ、二人は引き離されてしまった。そのため、人間は常に、分かたれた自分の半身を探している。

 そして、自分の半身を見つけた人間たちは。身分も境遇もなく、美しさや強さ、性別ですらなく、否応なしに、そして狂おしく。惹かれ合い、求め合う。そうやって、再び一つの存在になろうとするのだ。

 それは、あの日から既に始まっていた。最初はわずかな、誰も気が付かないほどの小さな流れが、やがて奔流になって、否応なしに飲み込まれていく。誰が止めようとしても止めることはできない。

(一つになりたい。そういう意味だよ、それ)

 それを意味する、たぶん世界で最も美しい表現。

 彼は、知っているんだろうか? この世界にもあるんだろうか、アンドロギュノスの神話が。

「……もう。そういうことを、考えもなしに、平気で口にする」

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