6章2話 お祭りの飾り付け *
【新帝国歴1132年7月27日 ヨハン】
それから公開実験までの間は、俺は準備のために、ランデフェルト公宮と工房とを行ったり来たりの日々が続いていた。その中には、俺の姉、アリーシャとの会合も含まれる。俺は久々にちゃんと話が出来ることを期待しないでもなかったのだが、他の連中もいるし、アリーシャと席は離れているし、それは叶わなかった。
まあでも、俺の方が他人の事情に嘴を挟みすぎているのかもしれない。会合が終わり、中庭に面した回廊を宮殿の出口に向かって歩みつつ、そんなことを考えながら俺は一つ、溜め息を吐く。
他人なのだ、アリーシャとはもう。名目はどうあれ、別の家に嫁したのと同じことだ。そういう制度があって社会が成り立っている以上、自分には理解できなかったとしても他人事としてそれを受け入れるべきかもしれない。
「…………」
もう一つ、俺は小さく溜め息を吐く。俺が気にかけているのは、当然のことながらアリーシャの職階、『公妾』の件だ。
信じられるか、アリーシャが公妾なんて? などと、俺は言う気にはならない。宮仕えを始めた頃、俺は彼女に言っていたことがある。
『アリーシャ。……姉さんは、その鳥の巣頭さえなかったら、結構美人なんだから。そのくせどんくささは人一倍ときてて。タチの悪い男に目を付けられるなよ』
つまり、これに近いことは起きるような気がしていたのだ。あの女は昔からそうで、無防備な一言が妙な騒動を巻き起こす。予想外だったのは、相手が貴人も貴人、国家の君主であり、年下でもあるあの公爵殿下だったということぐらいで。彼らが彼女の地位を保証してくれているのは、悪い予想が的中した中では良い方なのではないかとも言えた。
だが、予想から外れていたこともある。アリーシャが俺たちの両親に話していたのは、その愛人としての肩書には実態はなく、あくまでも彼女が公宮で立ち回りやすくするためだという。
それから、彼女はこうも言っていた、とのことだ。
『私は、いずれ放逐される身だということ。もしかしたらそうではないのかもしれない、でも、いつでもその覚悟はしておかなければならない。だから、もしそうなったら。……またこの家の娘として、迎え入れてくれる?』
迎え入れないわけがないだろう。お前は俺たちの家族だろ。俺はそう言いたかった。だが俺に言ったわけじゃなくて、これは彼女が両親に向けて言ったことなのだ。俺に対してはアリーシャは、そういう話はむしろ避けているようにすら俺には見えていた。
そんなことを考えていたら、前方不注意になっていたようだった。
「……きゃあ!」
「わっ!」
前方から勢いよく衝突され、俺も、それから相手もすっ転ぶ。不幸中の幸いなのか何なのか、相手を跳ね飛ばすことはなくて、どういうことか俺が相手の下敷きになったのだが。
「ちょっと……前方不注意ですわよ!」
例の、ヴィルヘルミーナ嬢だった。
あんたが衝突してきたんだろうが、と言いたくなるのを、俺はぐっと押し留める。
「すまん。……というか。何持ってるんだ?」
彼女が手にしているのは、一巻きのリボンだ。それもただのリボンじゃない、とてつもなく長いリボンが筒の周りに何重にも巻かれた、でっかい仕立て屋であればお目にかかかることもありそうなリボンの塊だった。しかも、透ける布地に金糸で植物文様が刺繍されていて、とてつもなく高そうなリボンでもあった。
「ふっふっふ。よくぞ聞いてくださいましたわね」
「何なんだ、その思わせぶりな笑い方は」
「このリボンで、この公宮を飾り付けようと思いますの」
「は?」
俺にとっては晴天の霹靂だ。一体全体、何を言っているのか、この女は。しかし、ヴィルヘルミーナ嬢は胸を張るのだ。
「だって、これはお祭りなのでしょう? お祭りなのだったら、相応しい飾り付けがなくてはね」
「いや、その……。怒られないか? 勝手にやったら」
「あら、エックハルト様に許可は取ってありますわよ? 『この公宮のどの施設でも、ヴィルヘルミーナ様の遊び場としてお使いください』と仰ってくださいましたわ」
「…………」
俺は頭を抱える。一体何なんだ、この状況は。エックハルト様にしたところで、説明が雑すぎるんじゃないのか。
「あのな。……公開実験の会場はここじゃなくて、町中に設えられた特設会場だ。こっちを飾り付けたところで、誰も見ないと思うぞ」
そんな俺の説明にも、ヴィルヘルミーナ嬢は澄ましたものだった。
「あら、そうですの。じゃあ特設会場の方に伺って、そちらを飾り付ければ良いんですのね」
「あのな……。えらい高級品だろ、そのリボン。そんなもんがぶら下がってたら、町の連中にえらい騒ぎを引き起こすぞ。エックハルト様が許してくれたのは、この公宮で自由にすることだけだろ?」
どうやらこの娘はまるで悪ガキで、付け焼刃の礼儀はどこへやら、俺はすっかり普段の口調になっている。とはいえ仮にも侯爵令嬢なのだから、町中まで行ってふらふら遊んでいたら、質の悪い連中に目を付けられてもおかしくはないだろう。
「えええ!! それじゃあ私は、どうしたらいいんですの!!」
ヴィルヘルミーナ嬢は俺に向けていきり立つが、俺にはどうしようもない話だ。
「何もしなくたっていいだろう。来賓なんだから、来賓席でふんぞり返っていれば事足りるんじゃないのか」
「そんなわけには参りませんわ。人生は、行動した人間だけに道を開いてくれるものなのですから」
ヴィルヘルミーナ嬢は再び胸を張る。その理屈は筋が通っているようでいていまいち理解できないが、とにかく、飾り付けをしたいという強い意志だけは伝わってきた。
「……しょうがねえな。じゃあ、中庭の木の、一本だけ。それをめいっぱい飾り付けて、自慢してやったらどうだ?」
そんなわけで俺たちは、中庭の木一本を、ヴィルヘルミーナ嬢が持参したリボンで飾り付けることになったのだ。背丈より少し高いぐらいの若木を選んでやればいいかと考えていたのだが、彼女が選んだのはよりにもよって一番でっかい大木だった。
高い枝には梯子でも届かなかったので、俺が登って枝にリボンをかけてやった。こんなことをしていたら、大目玉を食らってもおかしくないが、エックハルト様の許可でこうなったのだから仕方がない。仕方なくはないのかもしれないが、知ったことじゃない、今日の俺にとっては。他愛のない作業に没頭することで、俺は日頃の憂さを忘れようとしていたのかもしれなかった。
ああでもない、こうでもないと飾り付けをやり直し、俺もさすがに疲れてきたところで、どうやら彼女の満足行く仕上がりになったようだった。ヴィルヘルミーナ嬢は満足げに鼻息を荒くしている。
「……良かったな。俺はこれで」
それだけ言って、俺はその場を辞そうとする。考えたら、まだ仕事はたっぷり残っていたのだった。
「お待ちくださいませ! あなた、お名前は?」
そう尋ねるヴィルヘルミーナ嬢だが、俺は適当に誤魔化して、手を振るだけにする。
「通りすがりの名無しで構わない。じゃあな」
今にして思うと、ヴィルヘルミーナ嬢の到着の場で、アリーシャが俺の文句を相手にしなかったのは正しかった。あの場で俺が言いたいことを言い募ったら、それこそ大勢の前で彼女らの名誉を傷つけることになったのかもしれない。ヴィルヘルミーナ嬢に俺が召使と思われたところで、俺にとってはどうでもいいことのはずだった。
俺はたぶん、悲しかったんだと思う。ヴィルヘルミーナ嬢の屈託の無さが。そして、その屈託の無さからは遠く隔たってしまった俺たちが。
俺はこの4年で成長したし、アリーシャも成長した。大人になったってことだろう。だが、大人になる代償に、俺たちは何を失ったのだろうか、俺には分からない。
いや、そんなことはない。俺には分かっている。俺の心には、ずっと一つの疑問が浮かんでいた。
アリーシャは、いつか放逐されるかもしれないと考えていて、内心ではそれに怯えている。だが俺にはそれをおくびにも出すことはない。俺が技師として確固たる地位を築くことを望んでいて、そのためには利用できるものはなんでも利用してやろうとする気迫すら感じる。
つまり、それは。
アリーシャが俺のために、公爵に自分の身を差し出したという、その可能性だ。
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