4章13話 ひとときの休息 *
【新帝国歴1130年6月30日 アリーシャ】
「リヒャルト様、こちらを……あれ」
リヒャルト様の執務室に足を踏み入れた私は、そう呟く。
「…………」
リヒャルト様は無言だった。それどころか、机に突っ伏して潰れていた。静かに寝息を立てていて、仕事の途中で眠ってしまったようだった。
遺構制圧作戦が終わり、私たちがランデフェルト公国に帰還してすぐのことだった。私たちがあの遺構、『システム第38監視塔』というあの施設の機能停止に成功して、戦闘が終結した後も、とにかく色々あったのだ。
ヴォルハイム大公マクシミリアン殿下の救出、あるいは遺骸の回収が最大の任務だったのだけども、それはできなかった。生存者の証言から推測した死亡現場らしい場所にも、確かにそこに彼がいたという証拠は見つからなかった。ただ戦闘の痕跡はあったので、災厄が遺骸をどこかに運搬した可能性はまだ残っていたのだが。その線でヴォルハイムによる調査が引き続き行われることになっていた。
それから、タブレットについて。遺構からタブレットは複数見つかっていた。それに、充電機も。なんと太陽電池式だった。もしかしたら、他の人もタブレットが使えるようになるのかもしれないし、もっと色々なことが分かるかもしれない。その調査はこれから行われるようだった。私が使ったタブレットは私の個人情報が登録されてしまったらしく、私以外の人に使うことはできなかったのだけど。
だから、今後タブレットをどうしておくべきかの話をするために、私はこの日、リヒャルト様を訪れたのだ。
「うーん、疲れてるのかな。だったら……」
そっとしておいてあげよう、と言いたかったのだけど、そうは行かなかった。だってリヒャルト様は、インク壺を倒してしまったみたいだった。幸い残りが少なかったみたいだけど、でもそれは、彼の顔にも服にも黒い染みを作っていた。
「ああっ! ……どどどどうしよう、ええと、……エックハルト様! エックハルト様!」
インクの染みはリヒャルト様のタイと上着を汚していたけど、シャツは無事だったようだ。エックハルト様がそれを外して召使に下げさせたのだけど、そうされながらもリヒャルト様はまだ目が完全には覚めていないようだった。
「……仕方がありませんね」
そう言うとエックハルト様はリヒャルト様を背中に背負う。そして、夢うつつという様子のリヒャルト様は大人しく背中に背負われているのだ。
「……そうしていると、まるで兄弟みたいですね」
後ろから私は、そんな声をかけてしまう。
「…………」
エックハルト様のことだから、何か捻った皮肉や軽口で躱しそうな気がしたけど、無言になって私から視線を逸らしてしまう。なんとなくその様子がおかしくて、私は後ろからついていく。
「……重い。もういい大人なのだから、自分の足で歩いてくれないと困ります」
これは、誰にともなく呟いたエックハルト様の言葉だ。もうリヒャルト様は私よりも背が少し高いぐらいで、背負って運ぶような大きさでは確かにない。
「それ」
エックハルト様の背中からリヒャルト様はやや乱暴にベッドに放り出される。
「ん………」
リヒャルト様は小さく呻くだけだ。どうも、本当に疲れているのだろう。遺構制圧作戦ではいろんなことがあったし、リヒャルト様の心労は並大抵ではなかったはずだ。
それから、エックハルト様は口を開く。
「さて。私は用あって席を外しますが、一時間ほどで戻ります」
「あれ、そうなんですか?」
そう言っている間にもエックハルト様は寝室の扉へと向かい、手を掛ける。
「ですから、その間におかしな真似はなさいませんように」
「ちょ、ちょ、ちょ、おおおおかしな真似って!! するわけがないじゃないですか!!」
また変な疑いを掛けられている私。と思う間に、エックハルト様はリヒャルト様の寝室から立ち去ってしまったのだった。
私は改めて、リヒャルト様の寝室の内部、その全体に視線を走らせる。王侯貴族だけあって調度品は豪華だし、ベッドは天蓋付き、カーテンもベッドの覆いも金糸や銀糸で彩られている。とはいえけばけばしくはない、豪華ながらも落ち着いて品のある寝室の佇まいだ。
それから、私はリヒャルト様の顔に目をやる。目を閉じた顔は穏やかで端正で、日頃の問題や悩みからのしばしの解放を味わっているようだった。だけどその頬には、拭き取り損ねたインクの跡が残っている。
「すみませーん! 何か、拭くものをお願いします!」
私は部屋の入り口に控えていた召使の人にお願いする。別に完全に二人きりになったわけじゃないから、エックハルト様に変な疑いを掛けられる筋合いなどないはずだ。というか、私を疑うなら寝室から追い出せばいいだけの話で、あれは少しの間私もリヒャルト様の寝室で、彼の側にいてもいいという、エックハルト様なりの許可のサインだったのかもしれない。
「…………」
「目を覚まされましたか」
顔を拭かれたことで、さすがにリヒャルト様も気が付いたのか、目を開ける。だけど、その後の言葉が予想外だった。
「…………母上?」
「え? ……リヒャルト様」
「!!」
どうやらリヒャルト様は、今ので完全に目を覚ましたらしい。
「あ、あ、あ、あ、アリーシャ!! いいい今のは!!」
リヒャルト様はベッドの上で、真っ赤になって後退りする。こんな動揺する彼を見ることがあるとは、思ってもみなかったのだけど。
「ええと、その。……ええと……すみません! お邪魔いたしました」
私はお腹の上で手を組んで頭を下げ、それからその場を辞そうとするけど、リヒャルト様はそれを制する。
「いや、こっちの話だ。済まない。その。……恥ずかしいところを、見せたな」
顔を紅くして目を逸らしながらそう呟くリヒャルト様。背も手足も伸びてきて、だんだん大人の顔立ちになってきたリヒャルト様だけど、こうしている様子はいかにも可愛らしい。
「いえ、そんな」
それから、私は彼の傍らに腰を下ろすことにする。
「……大事な人を思い返すことに、恥ずかしいことなんてありません。ですからもし、差し支えなければ。それから、私で良かったら。お話しいただけますか?」
「何を?」
「お母様について」
リヒャルト様の両親は、前公爵も、それからその公妃も若くして亡くなっているのだ。いくらリヒャルト様が気丈にその責務をこなしていたからと言って、寂しくないはずがないだろうと思う。
だけど、リヒャルト様はこう言うのだ。
「あまり、分からないんだ。母は病弱だったし、私とは会う機会も限られていたから」
「お母さんなのに?」
「機会を作って面会しないとならないんだ。王侯とその伴侶の務めは育児ではないから」
「……なるほど」
「聡明だし、綺麗な人だったよ。でも、それだけだ。私に分かるのは。私が彼女のことを理解する前に、彼女はこの世を去ってしまったから。小さな弟と共に」
そう語るリヒャルト様の言葉からは、寂しさが滲み出ていた。私は、膝の上の彼の手に手を伸ばして、握る。
「……アリーシャ」
彼は私の手を握り返すと、自分の顔の前まで持ってくる。
「アリーシャ。……もし」
「もし?」
私はなんだか緊張して、語尾が上がってしまう。私の緊張に呼応したのか、リヒャルト様は私の手を離すと、視線を逸らして、体ごと別の方を向く。
「なんでもない」
その、そっけない言い方。
「……し、失礼しました!」
私は慌てて立ち上がると、その場を急いで辞してしまう。『もし』の先が何だったのか、聞けなかったことが少し惜しい、そう思いながら。
廊下を無意味な小走りをしていることに気がついて、私は立ち止まる。そういえば、そもそもの用事であるリヒャルト様への進言、それを伝え損ねていたのだ。
私の進言は、タブレットのスリープ状態を保ち、いざというときに使えるようにすることだ。そのためには定期的に充電をする必要があると思われたが、前世の若葉の世界のタブレットとは違って、充電が保つ期間は相当に長いようだった。
だから太陽電池の充電と、それからタブレットの充電方法を記載した文書を私は用意していた。それらの作業は単純なルーチンワークだから、私がいつも気を配っている必要はなくて、誰かに任せても差し支えはないだろう。
だから、私は気が付かなかった、ある小さな異変に。もし私自身がタブレットを起動してきちんと確認していれば、もっと早くに気がついたのかもしれない。
この時から既に、次の事態が進行し始めていたことに。
【????年??月??日 システム ループ12578】
全時空ベクトル擬似差分ノルムの最大閾値到達を確認。
全時空ベクトル修復システム、リセットモード判定アルゴリズムを起動。
残り時間: 800:00:00:00
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