3章5話 エックハルトの記憶・1 *

【新帝国歴1130年1月8日 エックハルト】


 エックハルトは、その場にずっと転がっていた。

 残っているのは、首の周りに回された腕の感触、それから、頭と背中に感じる彼女の体温、耳に残るその声、その言葉。

『アリーシャ』、あるいは『彼女』、その反撃はエックハルトにとっては思いもよらぬ痛打となったが、おかげで酩酊からはほとんど醒めた。話をしているうちに拘束は緩んでいたから、男性としても膂力があるエックハルトが本気で形勢逆転しようと思えば、造作もないことだったかもしれない。だけど、そんな気は完全に失せていた。

 その腕を首に回されながら、床に寝転がったまま、静かに言葉を紡いでいる。他の誰にもしたことのない、誰にもできない話を。

 その時間はもう過ぎ去ってしまって、きっと戻ってくることはない。今は記憶にだけ残る温度、手触り、響き。それをエックハルトは意識の裡に感じていた。


 自制心の低下も、暴発する被害者意識も、自暴自棄も。それらとは長年の付き合いで、水パイプや、その他の非常手段に頼ってなんとか対処してきたものだった。その根幹を、他人には知られないようにしながら。

 その母とされる女、公爵の葬儀を訪れて雪の中で死んだ浮浪者の命日が近づくと、エックハルトは狂気に駆られる。その苦しみへの処方は見つからない。『持病』とは、自暴自棄に駆られたエックハルトの不行跡について予めリヒャルトが用意している公式見解だ。

 そして、『彼女』の言葉。

 エックハルトは、ここに至るまで、心から信じてはいなかった。彼女が語る、その遠い世界、遠い時代での記憶のことを。アリーシャ・ヴェーバーはこの世界の人間だ。学識が本物で、また正気であったとしても、空想世界の自分こそ本物の自分と思い込み、周囲にもそのように振る舞う人間だっている。辛い現実から自分の心を守るために。

 今は少なくとも理解していた。アリーシャ・ヴェーバーの中には、もう一人、知らない誰かがいることを。その言葉にも、考え方にも、行動原理にも、彼が知って、縛られている、この世界にはないものが、確実に存在していることを。

 遠い世界、遠い時代の女。


「……ずるいなあ」

 呟いて、エックハルトは天井を見上げる。

「いつだって、あいつが取っていく」 


 エックハルトはある過去を思い返す。それは、なんの役にも立たない過去の記憶、その母親の正体に関するはっきりしない推量と同じぐらい、思い返すほど自分を傷つけるだけで、持て余しているだけの代物だった。

 それはエックハルトが13歳、公爵筋として見出される直前の、ある小さな事件に端を発していた。


 その記憶は、こんな風に始まる——




【新帝国歴1114年2月7日 エックハルト】


 ランデフェルト公宮の外郭に位置する兵舎の管理をする下働きの手で育てられ、今は宮廷に出入りする人々の御用聞きに走っている13歳の孤児であるエックハルトが、兵舎の営倉に閉じ込められてから半日が経過しようとしていた。


「すみません! お願いします! 助けてください!」


 エックハルトは扉を蹴って声を上げ、扉の外にいる衛兵に聞こえるように騒ぐ。それでも、衛兵が顔を出すまでには数分の間があった。


「……どうした」


 いかにも面倒くさそうな、そして閉口したような顔をしていた。エックハルトはその顔を一瞥すると、すぐに表情を変える。


「便所に行かせてください」

「……お前さんは重営倉の刑らしい。お前を連れ出したら、俺が処罰されるんだよ」

「それは、正式な判決ですか? 僕は別に、兵士じゃない」

「知らん、知らん。そういう態度は反省の欠如と見做されて、刑が長引くことになるぞ」

「でも、このままじゃ漏れちゃいます」

「しょうがねえな」


 兵士は舌打ちすると、エックハルトの体の方に手を伸ばす。反射的にエックハルトは身を固くするが、兵士は容赦無く、そのズボンを引き下ろす。それから、部屋の隅に転がっていた、汚らしい何かの容器を爪先で軽く蹴るのだ。


「こいつがお前さんの便所だ。ここにいる間はな」


 それから兵士はまた、扉の外に向かうと、鍵を掛ける。彼がしてやれる手助けはこれが全てということなのだろう。


「…………」


 エックハルトは軽く舌打ちし、それから考える。

 まず、自分が逃げ出せるだけの隙をあの見張りの兵士が見せることはなかったし、それから何かを教えてくれようという態度もなかった。だが一つだけ情報を漏らしている。

『そういう態度は反省の欠如と見做されて、刑が長引くことになるぞ』

 つまり重営倉の刑は正式な判決ではないということだ。そもそも兵士ではないのだから正式な判決などあり得ないのだが。大方『彼ら』が、懇意にしている軍の誰かに頼み込んで、結果行われた処置だろう。

 そもそもが、あんな下らない話を世話してやったのが間違いだった、そうエックハルトは考える。


 ことの発端は、このランデフェルト公国に、格上の盟主であるヴォルハイム大公国からの来訪者があったのがきっかけだった。本来の目的は大人たちの会合だったらしいが、詳しい話はこの時点の、身分上は宮廷の下っ端、御用聞きでしかないエックハルトには伝わっていない。とにかく、その際の便宜上の主賓、次期大公である13歳のマクシミリアンがこの問題の鍵となる人物だった。

 マクシミリアンは常日頃退屈しており、面白い遊びを提供すれば彼のお気に召すとの話だった。狐狩りが彼のお好みだが、それも二度三度とあっては退屈する。だから、もっと背徳的な、ぞくぞくするような遊びを提供したい。つまり女たちを狐に見立てて『狐狩り』をしようという考えだったが、そんな遊びに付き合わせられるような、卑しい女たちの当てがなかった。だから貴族の不良少年たちは、その計画にエックハルトを抱き込んだ。宮廷にありながら得体の知れない身分の者ととして裏通りの事情にも精通していたエックハルトは、伝手を頼って若い娼婦たちを集めることもできたからだ。


 だが即日でことは露見した。会場とされた主催者の別邸の召使いたちの噂話から足がついたのだ。結果エックハルトにほとんど全ての罪が擦り付けられた。その上どういう手配がされたのか分からないが、外国からの来賓である二人、マクシミリアンと双子の妹、ツィツェーリアの前でエックハルトは鞭打たれることになったのだ。

 エックハルトはその場面を思い返す。

 いかにも被害者面で憮然としながら、腕を組んでふんぞり返ていたマクシミリアンと、不気味な笑みを浮かべながら打擲される様子を観察していたツィツェーリアを。この時、マクシミリアンとツィツェーリアは13歳。エックハルトとは同い年だった。

 どうやらこの女、暴力が好きだ、と、エックハルトは考えていた。それから、彼らと自分の、埋めることのできない違いについても。


 尊厳の欠如。それこそがエックハルトを密かに悩ませる問題だった。


 不可思議でもあり、滑稽でもあるエックハルトの生まれは、その生まれから13年が経っても宮廷の人々の密かな話題の種だった。ほとんどの者たちの解釈は悪い方、つまり、得体の知れない女によってなされた奇妙な釣り書きが、根も葉もない彼女の妄想であり、頭のおかしい女が産み捨てていった物乞いの子、それがエックハルトということだ。

 当時の人々の感性ではエックハルトは当然軽蔑されるべき存在のはずだったが、しかし彼は英明だった。少なくともその素質を備えていた。誰が教えたでもないのに読み書きを覚えて、下働きの者たちが不得手とする算盤までも使いこなし、彼らに代わって金勘定を行った。

 人に知られないように注意して、時に非常手段に訴えても行う不断の努力でエックハルトは、その地位を向上させていった。とはいえ13歳の彼の能力では、下働きから一つ頭抜けただけの御用聞きがせいぜいのところだった。

 だから、不良少年たちの秘密の依頼の調達はエックハルトにとっては、まだ心許ないその地位の安定化のための手段の画策の一つで、その背徳さや逸脱についてはこう考えていた。

『真っ当な手段に頼っていたらいつまで経っても人の下に置かれ虐げられる自分であるのだから、これは仕方がないことなのだ』と。

 その考え方が今回ばかりは裏目に出たということだ。この刑期が開けたら、恐らくは宮廷を放逐されるだろう。そうなったら、伝手のある裏通りに流れていくしかないのかもしれない。今回世話したような若い女たちに客を引かせて上がりを巻き上げる男たちの仲間入りをすることがお似合いの人生なのかもしれないが、自分でどうにもしっくりは来ていないし、そもそも運命によってもたらされた理不尽には人生の最初から今に至るまで、全く納得もしていない。

 これからどうしたらいいのか分からない。自分の人生への密かな困惑を抱えながら、必死で生き抜こうとしていたのがここまでのエックハルトだ。


 だが、今の状態の不愉快さ、特に生理的な不愉快さと、それからまだ明けない冬の寒さ、そして飢え。食事は経験上、3日ほどは耐えられるとしても、喉の渇きはそうはいかない。それらは、エックハルトにある一つの可能性を提示する。

 死刑に値する罪ではないとしても、このまま忘れられて死んでいく、そんな可能性だ。それとももしかしたら死刑に値する罪なのかも知れない。何せ、人間の価値は平等ではないのだ。他国の元首に連なるものの名誉を汚した卑しい者は、その命によって罪を償って然るべきと、そういう考えなのかもしれない。

 それらはエックハルトにとって、共感も理解もできる考え方ではない。きっと自分は、この世界には属してはいないのだと、エックハルトは思っていた。だから、このまま死んだとしても、敵意に満ちたこの世界に別れを告げ、不愉快な愛人のようなそれと永遠に手を切ることができる、それだけのことなのかもしれない。


 それから数刻の後だ。もう夕方になっている。

 扉の前が騒がしいことにエックハルトは気が付く。何かしらのやり取りがされている様子が伝わってくるが、音声はくぐもっていて、内部のエックハルトには聞き取ることができない。


 やがて扉が開く。空気が動いて、エックハルトの顔にも微風が吹き付ける。

 空気の冷たさにエックハルトは顔を顰め、目を数回瞬かせるが、同時にそれは新鮮で、また、一種の芳しさを含んでいるように感じられる。


「エックハルト、だね」

 穏やかな声が尋ねる。

「はい、彼が」

「私は彼に話しているんだ。大丈夫かい」

 入ってきた人物は二人いた。最初の一人は痩せ型の青年で、白っぽい煌びやかな衣装に身を包んでいる。今し方まで人が閉じ込められていた兵舎の営倉という、不潔で見捨てられた場にあって、その格好はいかにも場違いだった。

 もう一人はその従者らしく、小綺麗だがもっとさりげない衣装の姿だった。しかし従者の方はどうでもよく、問題は最初の人物だ。きっと彼は公務の最中で、それを中断してここまで足を伸ばしたのだろう。そうエックハルトは考える。

「……殿下」

 エックハルトは掠れた声で呟く。公爵位に即位したばかりの君主、ヴィクター・ヘルツォーク・フォン・ランデフェルトだった。


 また、その日のうちのことだった。

「すまなかったね。もう少し早く、私が気がついていればよかった」

 彼はエックハルトに向かって、そんなことを語りかける。

「……いえ」

 縄目が食い込み、擦れて切れた痕が生々しい手首をさすりながら、エックハルトは陰気に答える。これが罠なのではないか、それについて考えながら。


 当代の公爵、ヴィクターがエックハルトを連れてきたのは、兵舎の中の、別の小さな部屋だ。どうやら使われていない部屋らしく、エックハルトが座る椅子と、公爵が座る椅子以外には何も置かれていない。

 戒めから解放されて、酷い格好をどうにか整えることだけはできたものの、髪を梳かすことも、不潔な衣装を代えることもできていない。自分が発しているだろう臭いのことが気になりエックハルトは顔を顰める。自分でもそろそろ気になっているのだが、ということは、相手からすれば相当な悪臭になっていることだろうとエックハルトは考える。

 一方の公爵は、衣装に染み込ませているのか、オレンジの花のような微香を漂わせていた。と言って嫌味にならない程度のほんのわずかな香りだ。どうしようもない不潔さと歴然とした優雅さ、その落差は圧倒的だった。


「あの……。そろそろ、帰ってもいいですか?」

 エックハルトは切り出す。まだ2月で、外は身を切るような冷たさだが、水浴びがしたい。事情を知る者たちに裸を見られれば、鞭打ちの痕と首周りの痣を見咎められ、嘲りの対象になるのかもしれないが。13歳という年齢で、そろそろ背も伸び、際立った外貌が傍目にも明らかになってきたエックハルトだが、痛々しい過去の痕跡を人目に晒すことには抵抗があった。だが、人間の尊厳を保つには、人間の尊厳を保っているらしい外見が必要だった。


「駄目だ。君を帰すことはできない」

 それが公爵、ヴィクターの返答だった。

「……また、営倉に戻されると?」

 陰気にエックハルトは返事をする。

「そういうことではないんだ。……何と言ったらいいかな。私は、君に質問があってここに来た。どうか、正直に質問に答えてほしい」

 公爵は穏やかにそう尋ねる。

「なんでしょうか」

「彼らは、君に唆されたと言っている。本当か?」

 やっぱりか、と、エックハルトは考える。乱痴気騒ぎの主催者は、いざとなったら犠牲として差し出すことから折り込み済みで仲間に引き入れたのかもしれない。身分が違うとはそういうことらしい、それをエックハルトは考える。

「僕にそんな発言権があると思いますか? 彼らに対して」

「私は、君の返事を聞いてるんだ。それだけ答えてくれればいい」

「唆していません。なんだったら、この命に誓っても」

「強気だな」

 公爵は笑い、エックハルトはその笑顔を凝視している。どうやらここが彼の人生の勝負どころらしいと、それはエックハルトにも飲み込めていた。

「気に入ったよ。……よろしく、エックハルト」


 それが、獣のように蒙昧な物乞いの子、エックハルトの教育が始まった日、その初日の出来事だった。

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