3章3話 蟻地獄の底で

【新帝国歴1130年1月8日 若葉】


 ここからは特に、アリーシャ・ヴェーバーではない、アリーシャの視点を交えない私の視点で語らせて欲しい。

 私はアリーシャであるし、若葉でもある。

 だけどこの瞬間は、若葉であってアリーシャではなかった。若葉としての視点で、物事を捉えていた。そして、29歳の死んだ女である新井若葉としての私の視点、おそらくそれが大事なのだ、この話の、この厄介な部分では。

 アリーシャは彼が嫌い。本当の本当に嫌っているのかは定かではないが、反発して自分に近づけないように、自分の方も近づかないようにしているし、彼も敢えて近づこうとはしていない、少なくとも普段の彼だったら。だけど、私は――若葉は。

 だからこの件でも、私は彼のことを悪く言いたくない。それが彼の過失だとしても、あまり強い言葉で責めたくはない。だって、それが大きな事故にはならなかったのだから。甘すぎるかもしれない、だけど、そこにいたのは私だけだったのだから。


「これは、これは。小鳩が窓辺に迷い込んできたようだ」

 彼から口移しで、私の口に吹き込まれたのは、変わった煙だった。

 癖のある匂い。どこかで嗅いだような、でも覚えのない匂い。

 頭に鈍い衝撃が広がる。

 変な感覚。私は酩酊感に襲われる。

 私は自分が何か、重大なミスを犯したのを理解した。


 室内は薄暗かった。薄青い煙が天井の辺りを漂っている。高そうな絨毯が敷かれていて、床に倒れていても体が痛くならないのはありがたい、が、考えてみると別にありがたくはない。煙草らしき灰が近くに落ちていて、水差しが床に転がっているのもあまり気分が良くなかった。

 ゲストルームと間違えて、彼の部屋に入ってしまったらしい。

 煙の向こうに彼のシルエットが見える。

 背の高い、細身の人影。

 彼はゆらりと、こっちに向かってくる。

 まだ酩酊感はある、だけど少し冷静になってきた。

 まあ、ね。アリーシャ、可愛いもん。私の頭に浮かんだのはそんな、妙にひねくれた思考だった。でも、冷静に考えてみればこれは非常にまずい状況だった。だって、この男は。

 エックハルト。瀟洒にして優雅、怜悧にして厳正な我らが廷臣閣下だった。


 そして、床に転がっているのは、今は若葉である私だ。


 アリーシャの語る人生の物語には、ここまで常にアリーシャの視点と若葉の視点が入り混じっていた。アリーシャと若葉は記憶を共有している。記憶が人生観を作り、視点を作り、人間性を作っている。だから、アリーシャはある意味では、若葉の知識を得る前のアリーシャと同じ人間ではない、自分が確かにアリーシャであると考えていても。

 だけどそうなると、若葉の自己認識はどうなるのか?

 若葉としての私の自己認識は、アリーシャを自分自身と考えることを避けていた。新井若葉は29歳の疲れた女で、自分自身で冷静に客観的に考えてみて、男が勝手に魅了されて落ちてくるような、うら若き美女とは違っている。

 だから若葉はアリーシャではない。

 若葉にとっては、アリーシャは妹のような存在だ。若葉にとっては、18歳はまだ子供で、自分のような大人が、たとえ大人げない大人だったとしても、保護して守ってやるべき存在だ。


 じゃあ、その私がこの今の状況を、どう思うのかって?

 アリーシャは18歳、まだ子供。でも若葉は29歳、もう大人。

 私が、守らなければ。

 私の可愛いアリーシャに、手、出さないでよ。

 

 彼は、油断していたんだと思う。

 屈み込んでくる彼の頭、そのこめかみ目掛けて、私は横蹴りをかました。


「なかなか、良い蹴りで。それからいい度胸だ」

 彼は笑う。

「なかなか、ご挨拶かましてくれるじゃないの。エックハルトさん」

 息を切らしつつ、私は応じる。

 どうしてそんなことができたのか分からない、だけど冷静になったときには、私はエックハルトの首に右腕を回して、左手は右手が動かないように固定する。つまりヘッドロックをかけていた。


「もうしないって約束しないと、今ここで絞め殺してやるから」

 これはただの強がりの脅しというだけで、私の力でそんなことができるとも思えない。だけど、普段からは一変したような不健康な空気を漂わせるエックハルトは、淡々と呟くのだ。

「どうぞ」

 彼は白シャツとズボンという服装で、薄着だという他はあまり普段と違うところは見られない。もしかしたら、着のみ着のままで寝転がっていたのかもしれない。

「ねえ、何なのそれ? どうしちゃったの」

 そのままの姿勢で、私は部屋を見回す。ここはエックハルトの私室の一つのようだ。そんなに散らかってはいないが、ベッドの周りにはごちゃごちゃと物が置かれていた。ベッドサイドには、煙をわずかに上げている、ガラス製の水パイプ。それは薄青い靄となって部屋に充満していて、さっきの煙もそのパイプ由来のようだった。

「本当さ……バッカじゃないの? 何キメてんのよエックハルトさん。この馬鹿げた行いさ、はっきり言ってそれのせいでしょ。何、おいたしたくなっちゃったの? そういうお年頃なの?」

 私は辛辣になるのを止めることができない。


 水パイプ。元の世界では中近東由来の喫煙具だ。紙煙草のフィルターの代わりに水を通すことで水溶性の毒物が吸収され、それとともに煙が冷える仕組みだ。通常はそれで香料とタバコを糖蜜で固めた物を供するらしく、元の世界の現代でも風変わりな趣味として受け入れられている。私は煙草は吸わないが、ちょっとした憧れの品ではある。エックハルトの水パイプだが、流行りのシーシャと呼ばれる大型のものよりは小さく、片手で扱えるような形をしていた。

 水パイプを使っていること、それだけなら問題はない。それよりも吸っている物が問題だった。おそらくは薬物、阿片戦争で有名な阿片も、こんな感じのパイプで供されていたはずだ。彼が使っていたのが、大麻か阿片か、それとも違うものかは分からないけど。できればマシな物であって欲しかった。

 だからきっと彼は、前後不覚に陥っていた。私はそう思うことにした。この狼藉の原因を、彼自身ではなくてその使っていた薬物に帰することにしたのだ。


「…………」

 エックハルトは無言で視線を空に漂わせている。平民の女がこんな狼藉に侮辱までしてるんだから、少しぐらい抗議したっていいと思うんだけど。

「綺麗なお肌が台無しよ。ずっと食べてもなかったんじゃないの。なんでそんなに自分を粗末にするかな、本当さ」

 エックハルトは痩せていた。普段見ているより頬がこけていたし、手首はいつもより心なしか細く、骨張って見える。青白い肌と長い指が相まって、締め切ったカーテンの向こう側から漏れてくる光の下では骸骨みたいに見える。

「別にいいんですよ。私は、死んでいればよかったんだ」

 エックハルトは続ける。

「本当、そういうの、いいから。ねえ、めんどくさい男なのあなたって」

 私は歯軋りしていたと思う。

「私の話を、聞いていただけますか」

 そのまま、エックハルトは話し始めた。彼の、身の上話を。


「……三代前の公爵の葬儀のことです。

 赤子を抱えた女がやってきて、死んだ殿下の子だ、殿下の葬儀に参列させて欲しいと言ったそうです。誰もその女がどこから来たのか知らなかった。

 宮中の者は当然、誰も相手にしませんでした。女は門の前に居座り続けて、ある寒い日に凍死してしまった。そこに残されたのは一人の赤子。首には両手で締めたような痣が残っていましたが、生きていました。

 みんなはこう考えました。女はどこからともなく調達した赤子を使って、物乞いを試みた。しかし、うまくいかなかったので絞め殺そうとしたが、先に自分の方が力尽きた。

 そうして、首に痣のある、赤子だけが残された。宮中の者は、それを引き取って、育てることにした。それが私です」


 静かにそう言うエックハルトの首元には、わずかに残った茶色の痣があった。

 エックハルトはさらに続ける。


「公宮の下働きの手で私は育てられました。大人たちは私の出自を私に隠してくれました。でも、子供たちまで同じではない。私の渾名は『首絞め』でした。一度は本当に首に縄が掛けられた。

 そんなこんなで、私の少年時代は荒れていました。ですが血の呪いとは恐ろしい。成長していくにつれ、私は自分の父親の若い頃の姿とそっくりに、他の一族よりもずっと、瓜二つになっていった。肖像画室に行ってごらんなさい。私がいますから。

 公宮の人たちは、たぶん、困ったんじゃないですか。揉めに揉めた末、私に準貴族の身分と、姓を与えることにしたようです」


 私には腑に落ちることがあった。なぜ君主筋の庶子が準貴族なのか。彼らは、信用しきれなかったのだ。その外貌だけによる血の証明を。

「まあ、そういうこと、です」

 そう言って彼は笑う、まるで、なんでもないことみたいに。

「幼い頃、私は空を見つめていました。こんな薄曇りの冬の空を。天から母の手が伸びてきて、その最後の仕事を達成してくれることを願って。今でも時々耐えられなくなる、それだけですよ。特に、今日みたいな日には」

 淡々と呟くエックハルトの目はまるでガラスのようだ。

「何の役にも立たない過去の事実を何度も掘り起こしては痛むだけなら、心なんて何故あるんでしょうね。こんなもので紛らわすなと言うのなら」

 それから、エックハルトはガラスのような目で私を見る。


「消せますか、私の心を、あなたには。誰でもいい、どうか消して欲しい。苦しくてたまらない」


 私には、何とも言えない気持ちが込み上げてくる。

 それはきっと、誰もが心を痛めるような人間社会の凄まじい悲惨、その逆説的に感動を伴う悲痛さとも違っていて。

 大したことじゃない、心を痛めるには当たらないと断じられ、隅に追いやられて、心のゴミ箱に捨てられた傷で、だけど致命傷だ。

 その傷が膿んで腐って毒を放っても、気が付く者はいないし、治療できる者もいない。


「……それでも。それでも、傷つけていいわけじゃない、よ。誰かを。……あなたを」


 もしそれが私だったら。その痛みに耐えかねて、エックハルトが傷つけようとした相手が、アリーシャじゃなくて、若葉だったらどうなのか。新井若葉は死んでいる。せっかく死んだんだから、いちいちこの程度のことで動じたり傷付いたりしない権利ぐらいはあるはずだ。

 だが、それでもこんなやり方は彼を救わない。叱責されないことがその逸脱行動への許容になってはならないし、それが彼の重荷になる可能性すらあった。

 アリーシャでもある、そう言っていいんだろうか。少なくとも、アリーシャと肉体を共有している私が、アリーシャの身の安全と立場を最大限守りながら、この場で彼に言えることは相当に限られていた。


「少なくとも。アリーシャには、もうこんなことをしない、そう約束してくれないかな。今日だけは、許してあげるから。……それからね、エックハルトさん」

 私は、息を吸い込む。

「あなたに必要なのは、ヤクで心の痛みを置き去りにすることじゃない。……今は数日で戻れるかもしれない。でも、だんだんそれじゃ済まなくなってくる。分かってるでしょう、自分でも。もっと害がない薬があればいいけど、この時代にはあるかどうか分からない。……あなたに必要なのは、ママ。……あなたが本当はそんなに無様な人でも、それでもあなたを愛してくれる人」


 エックハルトは、私の言葉には答えなかった。

 代わりに、気がつかないうちに緩めていた私の手に手をかけると、それを解いてしまう。


「駄目ですよ。……相手を拘束している最中に油断したら、却って窮地に陥りかねない。首に縄でも掛けておけば殺すことができる、女性の力でも」

 その言葉は淡々としていて、まるで冷徹な、いつものエックハルトみたいだった。

 それから彼は言う。

「お帰りください。どうか」

 その言葉に含まれた響き。どこか硬くて、ざらついていて、生傷を庇いながら平然として見せるかのような、苦しげな響きを纏った声だった。

 私は、黙ってその場を辞するしかなかった。


 結局、私の被害はあの煙だけ。大丈夫だと、それが自分に言い聞かせているだけで、本当はものすごく傷ついているのか、それは今は分からない。

 この心臓の痛みは、別の理由だ。


 可哀想なエックハルト。

 時間なんか経ったってその傷は癒されない。悪化して化膿して、自分から発生した毒で自分を痛めつけるだけ。

 そんな踏みにじられ方を私は知らない。必要なのはママ、そんなの当たり前じゃないか。彼はいかなる意味でも愛情を知らない。本当は無様な人、なんて、そんな風に言わなくて良かったのに。そんな揶揄で、本当は何が言いたかったんだろう、私は。

 一年のうち数日気が狂ったって、そんなの止めようがない。そうしなければ、自分を引き毟る痛みに耐えられないのだから。だって、誰も理解してくれないのだから。

 エックハルトは怖い。その得体の知れない行動原理が怖いし、計算高いくせに無鉄砲な考え方が怖い。その裏にある自暴自棄さが怖い。そして、その全ての原因となっているであろう、周りの全てを飲み込みかねない内面の暗闇が怖い。彼の境遇の哀れさを鑑みたとしても、アリーシャには近づけさせられない。

 でも、大人の女である私であれば? エックハルトを理解することができれば、そこから救い上げることができるか? 


 無理に決まってる。

 死んだ獲物が一匹増えたからって、底無しの胃袋が満たされるわけじゃない。


 可哀想なエックハルト。

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