3章 物乞いの子

3章1話 メイドライフ

【新帝国歴1130年1月8日 アリーシャあるいは若葉】


 これは、新年の祝祭を少し過ぎた頃のことにあった、小さな事件を巡る話だ。

 小さな事件と言っていいのか分からない。大きな事件になるところを未然に防いだと言った方がいいのかもしれない。とにかくごく短い期間、ほんの一日の間にあった出来事のことだ。

 でも、その期間の短さや、事件の大きさは大して重要ではない。ここであった出来事は、その後の未来、ある一人の運命を根本から変えてしまったのだから。


 リンスブルック侯国から帰還してから、何ヶ月か経過していた。私は再び、メイドに戻っていた。なぜって、リヒャルト殿下のお召しがないから。もちろん、請われて学問の、時々怪しくなる前世知識で得た知見を提供するって話ね。

 私がいるのは公宮のゲストルームが並ぶ区画だった。時々呼び出されて常勤シフトに入りにくい私は、本来のメイド稼業に狩り出されたときには必然あまりやりたくない仕事をすることになる。それが、ゲストルームの掃除とベッドメイキング。結構な重労働で、ホテルのルームサービスには感謝しなければいけないと思う。

(まあ、私がああいうホテルに泊まることって、今後はもうないんだろうと思うけど)

 そう考えて、少しだけ辛くなる。身分。収入。文化。生活。元の世界に残してきたものは、あまりに多い。


『七人委員会』の日取りは伸びに伸びていた。ヴォルハイム同盟の重要な委員会だ。リヒャルト様はその準備で、連日執務室に缶詰になっていると、人伝に聞いていた。

 目立つイベントの話ばかりしていると、いつも私がリヒャルト様の側に控えているかのように聞こえるかもしれない。実際には一ヶ月に一回程度しかない。だから、時々技術相談役を務めるようになっても、まだ私の身分は『メイド』だった。

 今回はそのスパンが数ヶ月に伸びているというだけの話だった。毎日側に控えて業務を補佐しているのなんて、エックハルト様ぐらいのものだ。だけど、エックハルト様はここ数日、その仕事を休まれている、とのことだ。

 問題は、それがエックハルト様の『持病』によるもの、とのことだった。一年に数日、エックハルト様は持病により、自室で伏せっているという。準貴族のエックハルト様だけど、外に家を持っておらず、生活する自室はこの公宮にある。宮殿外郭のどこか2、3部屋分が彼の私室に割り当てられているらしい。ちょっとしたアパートみたいなものなのかな、と、私は考えていた。

 そのお休み期間中のエックハルト様だけど、奇妙な噂を聞かないこともなかった。室内から言葉にならない何かの叫び声が聞こえてくるとか、外から怪しげな女を引っ張り込んでいるとか。


(まあ、さすがにそんな事は……ないよね)

と、私は考えていたのだ。


 夕刻が近づいていた。幸いゲストルームは使っていない部屋が多い。仕事は確認作業が主だった。

 今までの私にとって、エックハルト様は得体の知れない人間だった。優雅で瀟洒、と見せかけて取るに足らない敵と見れば荒っぽくて容赦がない。抜け目なさそうでありながら、その行動の帰結に十分配慮しているかどうかにはかなり不安を覚える。それに、私は手鏡と田舎娘の件で彼に侮辱されていた。その後も私相手には丁重な姿勢を示しながらも、そこには誠実さがないことをあまり隠そうとはしていなかった。


 それでも、エックハルト様を見直さなければならない事情が、いくつかあったのだ。一つはヴィルヘルミーナ様の件。リヒャルト様となにかと衝突することの多かったヴィルヘルミーナ様だけど、エックハルト様は辛抱強く対応していたし、嫌な顔を見せることもなかった。そういう点では彼は大人なのだと、私は評価せざるをえない。

 それからもう一つだが、もっと重要なことだった。公宮の召使たちにとっては、エックハルト様は絶大な影響力を持つ存在だった。公宮の管理を担当する政務官は別にいたが、その仕事の全てにエックハルト様は目を通している。そのために公宮での物事は整然と、かつ公正に保たれていた。業者との癒着や袖の下を掴ませての斡旋なんかは、全くなかったとは言えないかもしれない。だけど、それが私たちの仕事に支障を来たすようにならないように目を光らせているのはエックハルト様だった。それに公宮で働く者たちが目上の人々や、兵士たちからあからさまな侮辱をされることは少なかった。リヒャルト様がそういう者を嫌っていて、召使へのからかいの過ぎる者はいつの間にか遠ざけられているという話だったが、実際に目を配っているのはエックハルト様だ。

 それに、エックハルト様は召使の名前を覚えている。私の同輩の一人一人に至るまでだ。そんなただの召使が困っていても、エックハルト様に相談すれば、解決のために何か手配はしてくれるらしい。先行き不安な労働者階級の者たちにとっては貴重な存在だ。


 そんな頼りになる存在で、あの外見だから、エックハルト様に憧れるメイドの子は結構いたんじゃないかと思う。しばらく前に同僚たちの間で交わされていた会話を、私は思い出していた。

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