意味がないこと 2023/11/08
「はい、かれこれ10年間、こうして意味がないことをしております」
楽しそうに語る彼は、トイレの便座に釣り糸を垂らしている。
私は、噂で世にも奇妙な意味がないことをしている男がいると聞き、インタビューをするため山奥の病院までやってきた。
噂に違わぬ、意味の無さである
「子供の頃本で読んでからずっと頭に残っていたのです」
そう言って、垂らした釣り糸を見る。
「なんの本なのかもう覚えていません。
作者が知り合いの医師から、精神病院では釣りをする患者がいることを聞いたそうです」
「それを真似たのですか?」
「ええ。ですが、面白いのはここからです。
ある時、担当の医師が“釣れますか”と聞いたところ、“トイレで釣れるわけがないでしょう”と返していました。
患者は釣れないと分かってて釣りをしていたのです」
「世の中色んな人がいますね。
しかし、その人は実在するのでしょうか?」
「そこまでは分かりません。
でも子供の頃の私は感銘を受けました。
人は自由なのだ、と。
私も自由な人間で在りたいと思い、こうしてトイレで釣りをしています」
「なるほど。私もその気持ちは分かります」
私は彼が羨ましい。
私も自由な人間になりたかった。
しかし現実は厳しく、こうして不自由な人間になってしまった
「私は死ぬまで意味がないことをすることにしました。
人生は夢のようなもので、全て意味がないものですから」
「なるほど。深いお言葉です。とても有意義な時間でした。
‥あれ、釣り竿引いてますよ」
「馬鹿な。釣れるはずがっ」
彼は驚いて立ち上がろうとして、服に釣り竿が引っかかる。
その勢いで釣り竿が跳ね上がり、獲物が釣り上がった。
そこにあったのは、一匹のドジョウであった。
近くにいた病院の職員が、それを見て驚く。
「こいつは‥十年前からこの便器のつまりの原因が分からなかったのですが、コイツが犯人だったんですね」
職員は彼の方を見る。
「十年間、あなたはトイレのつまりを直そうとしてくれてたんですね。
我々は、あなたを勘違いしてました。
職員を代表してお詫びいたします」
職員は綺麗な謝罪のお辞儀をした。
おそらく本心なのだろう。
しかし彼の顔は絶望に染まっていた
無理もない
なぜなら彼が続けてきた意味がないことが、ここに来て意味を持ち、彼の積み上げた十年間に意味がないことになってしまったのだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます