刺繍の依頼

 王宮に入るとすぐに私達は年配の女性を紹介されて、アーウィン様と別れた。


「困ったり分からない事があったら、全て彼女に聞けばいいから。また後で会おう」


 そして小声で言う。


「怒られて泣いて帰ってきたら慰めてくれ」


 ヨーナが笑顔で頷いた。私も笑顔で見送る。エダさんと名乗った年配の女性は私達の国の言葉を話すことが出来た。


「私はあなた方がいた国から、この国に嫁いで来たんです。もう数十年も前の事ですが」


 しわが多い顔をくしゃくしゃにして笑顔を作ってくれる。亡くなった祖母を思い出して懐かしくなる。船員としてやって来た旦那さんと恋に落ちて、サジイル王国に嫁ぐ決意を固めたそうだ。


「両親は泣いて嫌がりましたけど、皆と離れてでも生涯を共にしたいと思ったんですよ」


 問われるままに現在の国の状況を話し、この国の事を教えてもらう。エダさんのおかげで見知らぬ場所にいる不安が無くなった。


 案内された部屋はとても広く、奥にも部屋が続いていて、専用のお手洗いと浴室もある。


「私達が住んでいた家よりもずっと広いのね」


 私とヨーナは部屋の中を探検した。窓の外に続く庭は私達が知っている公園よりもずっと広い。花壇が素晴らしくて夢中になって窓から外を覗いていたので、男の子が部屋に入って来ていた事に全く気が付かなかった。


「ねえ、何見てるの?」

「きゃあ!」


 驚いたヨーナが、踏み台代わりにしていた椅子から転げ落ちそうになり、男の子に支えられた。


「申し訳ありません。ヨーナ、下りて!」


 私は慌ててヨーナを下ろして靴を履かせた。男の子はヨーナよりも少し小柄だろうか、服装から判断するに使用人では無さそうだ。


「驚かせて申し訳ありません。エダから、お二人がこの部屋にいると聞いたものだから」

「こちらこそ、はしたない声を上げまして申し訳ございません。ロイダと申します。こちらはヨーナです」


 私はさっきエダさんに教わった通り、丁寧に目上の人に対する礼をした。ヨーナも真似をして同じように礼をする。


「その挨拶は止めて下さい。私はエルウィンです。アーウィンの弟にあたります」


 エルウィンと名乗った男の子が、私に目上の人に対する礼をする。アーウィン様の弟なら王子ということだ。そんな立場の人に、こんな挨拶を受ける訳にはいかない。


「こちらこそ、殿下からそんな礼を受ける立場ではございません! おやめ下さい」


 後ずさる私を見て、ヨーナが不安そうに私の背中に隠れた。


「だって、あなたは兄上と結婚を約束した方だと聞いています。私の義姉になる方ですから」

「えええっ! でも、それは、あの⋯⋯」


 恐らく見せかけだと言ってはいけない。


(私は自分の国で逃げ隠れする道を選ぶべきだったかもしれない)


 泣きたくなってきた。心細くなった私は数歩下がって、ヨーナの手をぎゅっと握りしめた。エルウィン殿下は困惑した表情を浮かべている。


「お茶が入りましたよ」


 エダさんの言葉に救われたように私達は場所を移動した。


 エダさんが上手く会話の橋渡しをしてくれて、何とか落ち着いて話せるようになった。


「兄上の行方が知れなくなった時には大騒ぎになりました。あなたの国で無事に過ごしているという連絡が入った時には、本当に嬉しかった。あなた方のお世話になっていたのですね。弟として礼を申し上げます」


 エルウィン殿下に頭を下げられて、私はまた狼狽えてしまう。


「いえ、お世話だなんて。アーウィン殿下に私達はとても助けて頂いてお世話になり通しでした。その上、厚かましくもここまで付いて来てしまいました。改めて、身の程を弁えない振る舞いだったと思って後悔している所です」

「兄は、そう思っていないようですよ」


 エルウィン殿下は柔らかく笑った。赤い髪と赤い瞳が同じだけでなく、笑う姿もアーウィン様と似ている。ヨーナもそう思ったのか、最初の警戒ぶりが嘘のようにくつろいだ笑顔を浮かべている。


 王子だけあって厳しい教育を受けているのか、ヨーナと同じ年齢だと聞いたけれど、ずいぶん大人びている。


 私は問われるままに、港町や王都での生活を話した。私の刺繍を見たいと言うので、持ってきた荷物から服などを取り出して刺繍を見せた。


「これ、素敵だなあ」


 海を表現したスカーフが特に気に入ったようだ。この刺繍を入れたシャツは、港町では特に人気があった事を伝えるとひどく羨ましがった。


「白いシャツを持ってきたら、この刺繍をしてもらう事が出来ますか?」


 遠慮がちに問う顔が可愛らしくて承諾した。でも大切な事に気付く。


「この刺繍をするには、手持ちの道具では足りません。アーウィン殿下に相談してみますね」


 繊細な刺繍なので、多くの種類の針や糸を使う。ほとんどの針は侯爵家の馬車から逃げるときに置いて来てしまっていて、手持ちの針では細かい作業が出来ない。


「大丈夫ですよ、ロイダ様」


 エダさんが奥の部屋から木箱を持ってきた。開くとそこには、色とりどりの糸とたくさんの刺繍道具が入っていた。


「これは!」

「アーウィン殿下の指示で準備しておきました。きっと刺繍がしたくなるだろうからとおっしゃっていましたよ」

「さすが、兄上。よく分かっていらっしゃる」


 忙しい中でこんな事にまで気を配って頂いていた心遣いがとても嬉しい。私はすぐに海の刺繍に取り掛かる約束をした。

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