ガイデルに教わった事

「うん。でも⋯⋯あなたはいない。もう会えない」


 我慢出来なくて涙が溢れてくる。私はハンカチを取り出して拭った。泣いている場合じゃない。伝えたかった事を全て伝える。


「私は、あなたの事をとても愛してる。だからずっと怖かった」

「怖い?」

「関係が変わって、私自身が変わってしまう事が怖かったの。嫌われたり、呆れられたり、私のせいであなたが変わってしまう事も怖かった」

「うん」

「それなら、手を伸ばさない方がいいと思ったの。でも浅はかだった」

「うん」


 ガイデルは静かに聞いてくれる。月に照らされる髪も、穏やかな瞳もやっぱり故郷の海の色のようだ。


「会えない辛さは想像以上だった。申し出を受ければ良かったと本当に後悔した」

「どうして言ってくれなかった?」

「きっと、変ってもいいから、大丈夫だからって背中を押されると思った。私は勇気が無かったから、流されてしまうのが怖かった」

「⋯⋯分かってるじゃないか。俺は背中を押しただろうな」

「あなたが私を愛しているって言ってくれて、とても嬉しかった。本当に嬉しかった。ありがとう」


 今まで言えなかった事を全て言えた。私達がもう会えないという未来は変わらないけれど、後悔する気持ちが少し軽くなった気がする。


 ガイデルは大きく息をついた。


「俺も勇気が無かった。家を捨てる、妻を持たない、君に言ったけど、本当にそんな事をする勇気は無かった。君が、俺にそんな事をさせないって分かっていて言った。卑怯だった」

「そうだったの?」

「立派な次期領主を目指している俺を、君は好きになってくれたんだ。俺は駄目な姿を見せないようにしてきたつもりだし、君の前では完璧な人間でありたかった」

「完璧だと思ってた」


 ガイデルは軽く笑った。


「全く違う。さっき見ただろう、ひどい姿。本当はあんなものだ。リベスも周りも心配してくれたが、俺が籠っていたのだって全てから逃げただけだ」

「そうなの?」

「君を守る力が無い自分から逃げた。侯爵の息子の暴言に耐える事も出来なかった。家名を汚し、父と母を失望させた現実から逃げたかった。結婚だって相手を好きになれなくて逃げた」


 私が見ていたガイデルは、いつも頼りになって、何にでも立ち向かい、逃げたり恐れたりしない人だった。私は何も見えていなかった。人間なのだから、そんな完璧なはずないのに。


「今だって逃げたいと思っている。俺は王宮での仕事に向いていない。――なあ、ロイダ」


 ガイデルは立ち上がって、私の横に座り直した。そして手を取る。


「もし今度こそ本気で全てを捨てると言ったら、一緒に来てくれるか? 国境に近い辺境の地に行けば、王都からの情報は届きにくい。西の方なら戦とも無縁だし、俺だって訓練所の師範が出来るくらいの腕はある。他にも何か仕事はあるだろう。駄目か? もう完璧じゃない俺には幻滅したか?」


 見上げた顔には緊張の色が見える。瞳が揺れている。


(本気だ)


 恐らく私が承諾したら本当に実行に移すだろう。そういう切実な気持ちが伝わる。


「一緒に行けない。でも、あなたに幻滅したからじゃない」

「じゃあ、なぜ」

「あなたは、私を愛してくれている。でも、私の助けを必要としていない。一人でも運命を切り開いて進んで行けるし、私じゃない誰かとでも進める。本当に全てを捨てたいなら、私の事とは切り離して考えた方がいいと思う」


 ガイデルは、息をつき体から力を抜いた。


「港町を離れて、君を幸せにする自信が無くなった。実際に守れなかったしな。君を幸せにしたいと思っていたけど、君に支えてもらおうと思った事は無い」

「うん」

「君にも同じことが言えるよ。君は俺を愛してくれている。でも、俺がいなくても、前に進んで行けるだろう」


 ガイデルの事を愛しているけれど、頼ろうと思った事は無い。会えなくて寂しかったけど、いつか忘れられると思った。


「でも、今の君にはお互いに必要とする人がいるんじゃないか?」

「え? ヨーナ?」


 ガイデルは笑った。『確かにな』そう言って面白そうに笑う。


「それだけじゃないだろう」

「アーウィン様?」


 想像してみる。ガイデルと二度と会えなくなったら、寂しくて悲しいけど、いつか傷が癒えると思えた。辛くても笑って過ごすことが出来る。


 ヨーナとアーウィン様、どちらか一人でもいなくなったら笑って暮らす自信がない。心に大きな隙間が出来て、そのまま崩れて壊れてしまいそうだ。


 アーウィン様と一緒にいると守られていると感じ安心できる。彼は私が頼らないと怒った事があるけれど間違っている。私がどれだけアーウィン様の存在を頼りにして心の支えにしてきたか気付いていない。


 アーウィン様の腕の中は、どこよりも一番安心できる場所だ。


 いつかいなくなると覚悟しているくせに、かけがえの無い人だと思ってしまっている。


「アーウィン殿も完璧に見えるけど、あれは幼い頃から厳しい教育と訓練を受けて、それに耐えて期待に応え続けた結果だろう。そういう人が簡単に使命を投げ出すとは思えない」


 私もそう思っている。


「彼が君と一緒に居る事には、何か理由があるんじゃないか? 恐らく、君は何かの形で彼の支えになって助けているんだと思う。君とアーウィン殿は、お互いに必要として支え合ってるんじゃないか?」

「私なんかが助けに?」


 ガイデルは少し顔をしかめる。


「なんかって言うなよ。俺が十年以上も愛してきた女性だ。本人は知らないかもしれないけど、素晴らしい魅力がある素敵な女性なんだからな」

「ありがとう。その褒められた女性が愛してきた男性も、本当に素敵な男性なのよ」

「何だ、もっと凄い誉め言葉は出ないのか?」


 私達は笑った。港町にいた頃のように、子供の頃のように声を上げて笑った。


「本当は、こんな事を言いたくないけど。⋯⋯アーウィン殿だって人間なんだから完璧じゃない。ちゃんと見て支えてやれ。恐らく君にはそれが出来る」


 そして、ぽつりと言った。


「俺達はあの町を離れて、既に違う道を歩いていたんだな」


 ガイデルからは、やっぱり懐かしい新緑の香りはしなかった。


 恐らくこれは永遠の別れ。それでも私達は笑顔で別れることが出来た。



 翌朝、家に戻った私は外套を脱ぐ間も惜しんで寝室を覗いた。ヨーナは何事も無かったかのように、規則正しい寝息をたてていた。アーウィン様は、両腕を頭の下で組み、仰向けで天井を見つめていた。私が立てた物音で起こしてしまったようだ。


「おかえり」

「ただ今、戻りました。⋯⋯行かせて頂いて、ありがとうございました」

「ちゃんと話せた?」

「はい、今まで言えなかった事を全て伝える事が出来ました。たくさん話をしました。私達はそれぞれの道を、お互いに恥じないように進むことを約束しました」

「そうか。――君が戻って来ないかもしれないと思って、行かせた事を少しだけ後悔していたんだ」

「帰って来るに決まっているじゃないですか」


 アーウィン様は、よいせ、と声を出して起き上がった。


「そうだよな。考え過ぎだな。さて、今日は忙しくなる。寝てる場合じゃない」


 いつもの笑顔を向けてくれる。家に帰って来たという気がして、温かい気持ちになる。私も笑顔を返して外套を置きに行った。

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