海からやって来た王子は陽だまりの花園に安らう

大森都加沙

海からやって来た王子

結婚への越えられない壁

「おはよう、ロイダ」


 顔を向けると、ガイデルが日差しに少し目を細めながら庭に入って来ていた。私と視線が合った途端、日に焼けた顔に弾むような笑顔が浮かぶ。私の顔にも自然と笑顔が浮かぶ。


 彼は続けて、洗った顔をタオルで拭こうとしていたヨーナに笑顔を向けた。


「おはよう、ヨーナ。今日もかわいいね」

「きゃあ!」


 ヨーナはタオルを桶に放り投げてガイデルに飛びついた。まだ手も顔も濡れたままのヨーナを咎める事なく、ガイデルはヨーナを受け止めてくれる。


「おはようございます、ガイデルさま! 今日もとってもいい香り」


 お腹に顔をすりつけるヨーナの頭をやさしく撫でると、彼は手土産の果物を私に手渡してくれた。


「いつも、ありがとう」

「わああ! ぶどうだあ! 昨日、お姉さまは高いから買ってくれなかったの。ガイデルさま、ありがとう!」


 ヨーナが私の手から葡萄を奪うように取り上げると、踊るように辺りを跳ね周った。


「おはようございます、リベスさん」


 後ろに控えるリベスさんに挨拶すると、私を見て軽く頷き、すぐに厳しい顔に戻った。ガイデルの護衛のリベスさんは、いつも私にそっけない。


「お姉さま、ぶどう中に置いてくる!」


 ついでに何粒かつまみ食いするつもりなのだろう。ヨーナは顔いっぱいに笑顔を浮かべて葡萄を持って家の中に入った。ガイデルがリベスさんに何か合図をすると、彼もヨーナを追って扉をくぐる。


「葡萄、ありがとう。驚くほど値段が上がっていたから、ヨーナが欲しがったけど買ってやれなかったの」


 ガイデルが小さくため息をついた。


「他の物も値段が上がっているみたいだな。流通が減り始めているんだ。この町は、この先どんどん暮らしにくくなる」


 この町の港が閉鎖されると決まってから、たった一年で何もかも変わってしまった。隣の領地にある港をもっと大きくして貿易の拠点にすると決まったのだ。次期領主としてこの領地を、育ったこの町を心から愛してきたガイデルの気持ちを想像すると胸が苦しくなる。


 ぼんやり考え事をしていると、両手を包み込むように握られた。


「ロイダ。俺の申し出を、もう一度考え直してくれないか」


 ガイデルの海のように深く青い瞳には強い光が浮かんでいる。窓から吹き込んだ風が彼の紺色の髪をさらりと揺らす。光の加減で青にも見えるその色は、遠くまで広がる海のようで美しい。


「ごめんなさい。⋯⋯私は受け入れられない。何度聞かれても、答えは変わらない」


 手を握る力が強くなる。痛いくらいのその力からは、どれだけ彼が強く望んでくれているかを感じる。でも私は承諾出来ない。


「お願いだ。頼むから」


 もう何回断っただろう。何度言われても私は同じ答えを返し、その度に悲しくなる。


「妻を迎えても君を蔑ろにする事は絶対にしないし、俺の心は永遠に君のものだ。約束する、信じてくれ」


 領主の息子のガイデルと、平民の私の間には越えられない身分の壁があり、絶対に結婚できない。


 私達は幼馴染だ。服の仕立て職人だった亡き父に付いて領主様の屋敷に出入りするうちに、同じ年頃だったガイデルや貴族の子弟の遊び仲間に入れてもらうようになった。子供同士の遊びの場であっても、貴族の子弟間には親の力関係で遠慮が発生するようで、平民で扱いに遠慮が要らない私の存在は彼らの救いになったらしく、皆が可愛がってくれた。立場を正しく理解出来ていなかった私も、美しい恰好をした子供達に優しくしてもらって喜んでいた。


 成長に伴い立場を自覚した時にはもう、ガイデルとは私は恋に落ちていた。


「ごめんなさい、ごめんなさい」


 私は俯いて、握られた手を振りほどこうとした。でも、強く強く握られていて離してもらえない。手から伝わる温かさに心が引き寄せられる。承諾してしまえと耳元で囁く自分がいる。


「君も俺の事を想ってくれているんだろう? それなのにどうして。君はどうしたい? 教えてくれないと分からない」


 ガイデルの瞳が陰る。彼にそんな顔をさせたくない。私は明るい顔を作って何でもない事のように言う。


「私は今のままがいい。たまにあなたの顔を見る事が出来れば十分幸せなの」


 彼は私を『妾』として迎えたいと何度も申し出てくれている。それは、この国では他国のように不誠実だと誹られる行いではなく、身分を問わず公式に妾を持つ事が許されている。戦乱が長く続いている為、家の働き手を失った女性を暮らしに余裕がある男性が助ける意味を持つと聞いている。


 ガイデルは貴族の跡取りだから、いずれ家柄が釣り合った妻を迎える。私と彼が結ばれるには妾になる道しか無い。


 私はそれを承諾できない。


(いつか現れるガイデルの奥様を悲しませたくない。奥様に嫉妬してしまいそうな自分も怖い。それなら、距離を保って遠くから眺めていた方がいい)


 でも、ガイデルに言えない。彼はきっと、それでも一緒になろうと言うはずだから。


「俺は今のままでは嫌だ。君が成人を迎えたら一緒になって、生涯を共に過ごすと決めていたんだ。君の全てを俺のものにしたいし、全ての人に俺の大切な人だと知らせたい」


 強く熱い気持ちをぶつけられて、私の心はまた揺れる。でも絶対に首を縦に振らない。


「来週の君の誕生日に、返事を聞かせて欲しい」

「何度聞かれても答えは変わらない」


 ガイデルはため息をつくと『本当に頑固だな』と言って、私を抱きしめた。新緑のような香りが私を包む。


(大好き、ガイデルが好き)


 決して口には出さない。少し身をよじって出来た隙間を押してガイデルから離れる。ガイデルはまたため息をつき、家の中のリベスさんに声を掛けた。


 手と口を紫に染めたヨーナと、そのヨーナに手を繋がれて苦笑しているリベスさんが姿を現す。私は慌てて新しい手ぬぐいを濡らしてリベスさんに手渡した。


「お姉さま、葡萄美味しいの。甘くて美味しいの! ガイデル様ありがとう!」

「そうか、美味しかったか。また持って来る」


 私はこれ以上ヨーナが汚れた手で何かに触れないよう、後ろから抱き抱えた。


「じゃあ、ロイダ。また明日来るから」

「うん、来てくれてありがとう。気を付けて行ってらっしゃい」


 立ち去るガイデルとリベスさんを、二人で手を振って見送った。


 ガイデルは毎朝この町を歩き、領民に声を掛ける。その途中で必ず私の家に寄って様子を見てくれる。


 五年前に続けざまに両親を、二年前に祖母を亡くしてからは、幼い妹のヨーナと二人で暮らしている。近隣の人や、父の跡を継いだ仕立て屋夫婦が何くれとなく助けてくれるので暮らしには困っていない。刺繍が得意な私は、仕立て屋夫婦が作る服に刺繍を入れる事で生計を立てている。


 ガイデルは私達が二人だけで暮らしている事を、とても心配している。妾になれば表立って庇護する事が出来ると強く言ってくれる。


 たまに想像する。もしも私がガイデルと釣り合う家の娘だったら。結婚が許されるくらいの家柄だったら。


(馬鹿ね。そんな夢みたいな想像やめなきゃ)


「やだ! ヨーナ、その手で私の服を汚さないで!」


 私のワンピースが何か所も紫色に染まっている。葡萄の染みは取れない。上から染みを隠すように刺繍を入れようか。


「お姉さま、その服にはお花の刺繍なんかいいと思うのよね、ヨーナ、お花の刺繍好きよ?」


 悪い事をした自覚はあるだろう。わざととぼけた顔をするヨーナが愛しくて、私は笑って許してしまう。抱きしめて、頭のてっぺんに頬を寄せる。


「そうね、いいかもしれないわね。何色のお花がいいと思う?」

「えっとね、ヨーナの水色のワンピースに付けてくれたお花みたいなの」


 私は濡れた手ぬぐいでヨーナの葡萄で汚れた手と口を拭いてやりながら、刺繍の図案を考え始めた。

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