これは恋愛小説である。

天野和希

関颯太・十月 第三月曜日

 朝。十三時。恋人からの電話で携帯が狭いワンルームにけたたましく反響して、僕は最悪の目覚めを迎えた。

 先ほどまでいた暗闇が嘘と思えるほど部屋は明るく、僕は音を頼りにスマホを探りながら、光から逃げるように頭を動かした。

「さむい……」

 思わず掠れた声が漏れ出てしまうほどに酷く寒気を覚えたのは、僕が半裸だったからだった。別に、特段珍しいことではない。昔から、寝るときはズボンを履かないから。

 だが、その日はいつもとほんの少しだけ違った。

 いつか起こると確信していたことでも、突然やってくると人間はどうしても処理しきれないもので、現実になってはじめて覚悟ができていなかったことを思い知らされる。

 想定していたのだから、困惑だったり、後悔だったり、怒りだったり、そう言った複雑な感情は産まれなかった。

 ただ、スマホを探そうと動かしたはずの右手が、そこにあるはずのないものに当たって、僕は〝それ〟を脳内で処理するのに少しだけ時間を奪われた。

 状況を読み込むのは案外すぐに終わった。

 ああ、遂にやったか。なんてまるで他人事のように思って、昨日のことも少しだけだが思い出すことができた。想定していたシナリオをなぞったんだろうなと確信した。

 僕の時間を奪ったのは〝それ〟があんまりに美しかったからだった。

 行ったことも無い美術館が頭に浮かんだ。美術の教科書とか、本とか、ゲームとか、そう言うところで見かけるような、女神を鑑賞している気分だった。

 目を奪われるとはまさにこういうことなのだなと思った。


 電話が鳴りやんで、僕は思考の渦からやっと抜け出すことができた。

 間髪入れずに、聞き慣れた通知音がひとつ。

 スマホは既に見つけていたが、僕は腕を伸ばしてでも、すぐ確認する気にはなれなかった。

 ぐっと背伸びをして、ベッドから降りる。カーテンを開けて朝日を入れようと手をかけてから、あるはずのない外からの視線が気になって上げた手をクローゼットの取っ手にかけた。

 とりあえず、適当にいつもの部屋着を選んで着る。

 指の先と口、耳、胸のあたりに違和感を覚えて、昨日の夜風呂に入っていないことを思い出した。

 どうせ寝ていた十時間くらいはこのままだったわけだし、まあ急いで入らなくてもいいかと誰に言い訳をするでもなく思って、結局僕はそのまま何もせずパソコンが置かれたデスクの前に座った。

 今日は月曜日。いくら理系の大学に通っているとはいえ、3年生になった今、毎日朝早く起きなければいけないほど授業があるわけでもなく、特に今日は夕方からの授業があるだけだった。

 充電していたパソコンのバッテリーを確認して、いつもの通学バッグに入れる。

 基本必要なものは前日までに用意しておくのが僕の癖で、通学の準備もそれだけで済んだ。

 デスクの下に居座るデスクトップの方のパソコンを立ち上げて、学校のサイトにアクセスする。今日提出の課題も特になくて、午後の授業も予定通りあることが分かって、僕は椅子を立った。

 毎朝コーヒーを飲むのが日課だった。飲まない日はほとんどなくて、飲まないと不調になるとまではいかずとも、一日がどこか物足りない気がした。

 豆と水をセットしようとコーヒーメーカーに手をかけて、やめる。

 ベッドの方にちらりと視線をやる。

 毛布にくるまった〝それ〟はまだ目を覚ましていないようだった。

 少し迷って、僕はベッドの方に歩み寄った。やはり、目を覚ましてもう一度見ても、息をのむほどに〝それ〟は美しかった。

 毛布を少しだけずらして、肩を叩く。

「おはよう。もう昼だよ」

 小さなうめき声にも似た声と共に、少しだけ動いたのが分かった。

「あさ……」

「昼だって。お前も午後から授業だろ」

 眩しがるように目を瞬かせ、それから、目が合った。

「颯太君……、おはよ……。朝からイケメン……」

「もう昼だってば」

 起きているのか起きていないのか、よく分からないような状態で、それは小さく微笑んだ。

「コーヒー淹れるけど、飲む?」

「……飲む。砂糖とミルクいっぱい入れといて……」

「ミルクなんかないよ。おれブラックだもん」

「えー……。忘れたの?」

「何が?」

 それからの返答は無かった。また眠ってしまったのかと思って、僕は特に気に留めることも無かった。

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