右手に愛を、左手に欲望を

取内侑

第1話

 夕焼けが差し込む放課後の空き教室。

 上ヶ丘かみがおか瑛太えいたの童貞が散ろうとしていた。


「せ、先輩」

「怯えなくていいからね。わたしに全部任せておけばいいから」


 壁に押し付けられ、女子の肢体と一緒に空気を押しつぶす。瑛太は今にも止まりそうな短い呼吸をしながら、ただ、夕日に照らされて燃えている野獣のような先輩を見つめていた。


 美川みかわ明日実あすみは、瑛太がここ数日で急激に距離を縮めた一つ上の先輩だった。三学年でも同学年の間でも、美川明日実はマドンナ的存在で男女問わず、高根の花として知られていた。

 瑛太の震える頬を美川明日実のしっとりと冷たい指が優しく撫でていく。


「ふふっ、いっぱい絞り出してあげるから……」


 甘い香水の匂いと、艶やかな吐息が瑛太の鼻腔をくすぐった。

 同時に、しなやかに伸びる腕が、指が瑛太の股間に絡むように伸ばされる。


「う、ふっ……!」


 胸の中で我慢していた情けない声が絞り出された。


「なんでこんなこと……」

「いいから黙って」


 美川明日実は、興奮と幻滅の狭間で裂かれそうになっている瑛太の顔を見てさらに微笑む。


「わたしがこんな変態だって知ってどう思った?」

「ぼ、僕は……」


 女の手が胸元のボタンに掛かる。

 一つ、また一つと、見せつけるようにボタンを外していく。

 彼女の思惑通り、瑛太の視線は曝された柔肌へと釘付けになった。

 黒髪を耳にかけ、ペロリと唇を舐めて淫靡な視線で瑛太を刺す。小さな動作一つひとつが、瑛太の心臓を弄んだ。


「優等生で、みんなの憧れで、誰からも信頼されてる女の子が、こぉんなエッチな子だったら、最高でしょ? 最高じゃない?」

「最高っす。マジで最高っす」


 即答する瑛太の口へ、女の唇が迫る。


「やっぱ君、おもしろい」


 瑛太は息を止めてゆっくりと目を閉じた。


「他の子には内緒だからね?」

「……」


 だが、満を持して尖った瑛太の唇に何かが触れることは無かった。

 瑛太は恐る恐る目を開ける。


「――え?」


 視界に捉えた美川明日実は横顔をバットケースで殴られ、崩壊していた。

 直後、美川明日実は吹き飛び、机や椅子を薙ぎ倒しながら、教卓を粉砕して黒板に激突した。


「は、は?」


 瑛太の身体は未だに硬直したままだった。

 だが、血の気だけは引いていき、紅潮していた顔は次第に真っ白に変わっていく。


「大丈夫ですか?」


 困惑する瑛太に鈴のような声が掛かる。

 瑛太は錆びついた首をひねって声の主を視界に捉えた。


「会えてよかった。間一髪でしたね? お怪我とかありませんか?」


 小柄な少女は外ハネ癖のあるセミショートヘアを揺らしながら、小首を傾げた。

 夕日に染まる少女はすぐに瑛太から目を離し、バットケースを足に挟んで、片腕でジッパーを開ける。

 瑛太はそこで初めて、ことに気が付いた。


「え、あ……いや、は?」


 瑛太は日本語を忘れていた。

 少女から目を離して黒板の前で項垂れている美川明日実へ目を向ける。

 大きな木片が腹に刺さり、ピクリとも動かない。


「動けるようでしたら、ここから避難してください」

「きゅ、救急車……救急車、呼ばないと」

「あ、やっぱり怪我してましたか? 応急処置できるかもしれません、見せて下さ――」

「ち、違う! なんで! なんで先輩を!」


 怒鳴られた少女は目を丸くして瑛太を見つめた。


「意味が分かんねぇよ……なんでこんな! 急に現れて」


 今にも泣き出しそうな声で荒ぶる瑛太。

 少女は一度、足に挟んだバットケースを肩へ担ぎ、机の破片を跨ぎながらゆっくりと近づいて、そっと強張っている瑛太の手を右手で取った。

 小さな手に触れた瞬間、瑛太の肩が震え、得体の知れない緊張が全身を再び硬直させる。暴力への恐怖と同時に、彼女の不完全な身体が瑛太の情緒を狂わせた。


「あ、そっか、説明しなきゃ……えっとあの人は――」

『―――――――‼』


 耳を刺すような悲鳴に少女の声が遮られた。瑛太は思わず耳を塞ぎ、身を屈める。

 辛うじて瑛太が目にしたのは、教室内の窓や蛍光灯が振動し砕け散る中で、少女が涼しい顔をして足に挟んだバットケースの中から日本刀の柄の部分を露出させている姿だった。

 振動が止み、残響が辺りに広がっていく。


『小娘が……邪魔をするな』


 ユラユラと何かに釣り上げられるように、美川明日実は立ち上がった。

 男や女、子供など、様々な人の声が混ざったような不快な声が言葉を発する。


「なら、場所を選んでください。学校はそういうことをする場所ではありませんので」


 少女は淡々と言葉を返すと、バットケースをより強く挟み込んで、握った柄を引き抜いた。

 重そうに掲げられた日本刀は夕日の光を反射し、橙色に輝いている。

 足に挟まれたバットケースは音を立てて床に落ち、瑛太の内臓を振動させた。


「せ、先輩? 何だよこれ」


 美川明日実の虚ろで血走った目が瑛太へ向けられた。

 変わり果てた憧れの姿に、瑛太の足が一歩逃げる。


『小僧、お前の欲望……貰うぞ』


 相対する『怪物』が右腕を上げると、瑛太の耳元で空気が切れる音が響いた。

 瑛太が見たのは、怪物から伸ばされた影のような触手が突如として輪切りにされ、宙に舞う光景だった。


「おっとっと……あれ? 抜けない」


 少女はいつの間にか、瑛太と怪物の間に入り、床に突き刺さってしまった刀を引き抜こうとしている。

 やがて、遅れて駆け抜けた突風が瑛太に尻もちをつかせた。


「だ、大丈夫でしたか? 当たっちゃいましたか?」

「え、あ、いや……大丈夫」


 瑛太は反射的に答えた。

 瑛太には、少女が何をしたのか、いつ自分の前に来たのか、怪物に何をされそうになったのか、何一つ理解できなかった。


『無駄だ、小娘』


 怪物の声に、少女の意識が向かう。


『お前ら人間では我々に勝てない……欲深きお前らは我々のエサに過ぎない』


 少女は刀から手を離し、抜くことを諦めて上体を起こした。


『とくにそこの男、我がずっと目を付けていた馳走だ。それをお前は……!』


 怪物は頭を掻きむしり、黒い体液を辺りにばら撒いた。狂気じみた視線が瑛太を貫く。

 瑛太は歯を鳴らし、震える手足で少しづつ後ろへ下がった。


『よくも! よくもよくもよくもよくもよくも! 邪魔シタナァァァ!』


 人を模っていた怪物が黒一色に染まっていく。

 身体は肥大し、影のような触手がウネウネと生え、この世の物とは思えない身を呈していた。


「欲深いのはどっちですか」


 少女の言葉に激昂した怪物は咆哮しながら六本足を巧みくねらせて突進してくる。


『小娘がぁぁ! その三本足を千切った後で存分に犯しつくしてや————』


 ――落雷。

 少女の隻腕から放たれた拳が怪物の顔面を叩き伏せた。

 体格差をものともせず、怪物の身体はひしゃげながら塩化ビニル製の床を陥没させる。


『な、なぜ……欲が吸い取れない……!』

「生憎ですが……」


 少女は鮮血が滴る右手で突き刺さった刀を難なく抜き取り、伏せる怪物の頭を踏みつけた。そして――刀を頭上へ振り上げる。


「私、欲しがらないようにしていますので」


 乾いた一振りが、怪物の頭部を切り離し、命を絶った。

 亡骸は泡になり、少女が手にする刀へ吸い込まれるように消えていく。


「ふぅ……まさか学校にも出るなんて」


 瑛太の震えは未だに治まらなかった。


「どうやら、あなたに誘われて出て来ちゃったみたいですね」


 少女は鞘を拾い上げ、器用に刀を納めながら瑛太のもとへ歩いてくる。


「な、何が……」

「タマホウシですよ、タマホウシ」

「タマホウシ?」


 聞き返した瑛太だったが、都市伝説として名前だけは聞いたことがあった。


「よくよく考えれば、学校って恰好のエサ場ですね」


 少女は困り笑顔を浮かべながら、瑛太の前でしゃがんで視線を合わせてきた。

 恐怖を覚えながらも、瑛太の視線はしっかりと彼女のパンツへ向けられる。


「タマホウシは、人間の欲求を糧にして生きています。ですから、あなたのような欲深い方は狙われやすいみたいですね」


 瑛太にパンツを凝視されながらも、気が付いていないのか、笑顔で話を続けた。


「そこで、一つ頼みたいことがあります」


 瑛太は視線を持ち上げて少女のあどけない顔を見つめた。

 凄惨な出来事の直後たというのに、汗一つ浮かんでいない笑顔に、瑛太は戸惑う。


「た、頼みって?」


 沈みゆく夕日が少女の柔和な笑みを照らした。

 どこまでも無邪気、それでいて桜の様に儚い。


「私と、同棲してくれませんか?」

「は?」

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