八塩折之酒
酒を探し始めて三日が経った。においを嗅ぎすぎて鼻が死ぬ、と玉藻は泣き言を漏らしつつも、酒を連日探しに出てくれている。が、そう簡単には見つからない。
今日も特に成果は得られず、夕食の時間となった。千早といろはが先に席についていると、遅れてやってきた玉藻が鼻を押さえながら席につく。
「鼻が……死ぬ……」
涙目になっている玉藻に「お疲れさまです」と声をかけていると、祖父が
久しぶりに飲むからか、その顔は少し嬉しそうだ。祖父は席につくと徳利を傾けてお猪口にとくとくと酒を注ぎ、くいっと飲み干した。
今、酒を探しているからだろうか。なんとなく、祖父が飲んでいる酒が気になった千早は、徳利を手に取りそのにおいを嗅ぐ。
「わ、とてもいい香りがする!」
徳利の中は酒のはずなのに、アルコールのにおいと共に果物のようなみずみずしい香りがする。
「ほう、香りがわかるか」
「うん、すごくいい香り」
そうかそうか、と祖父はどこか嬉しそうだ。玉藻がそわそわとしながら千早と祖父を見ていたため、徳利を渡すとすぐににおいを嗅いでいた。目を丸くしたかと思うと、玉藻は何度も徳利の近くに鼻を寄せる。
「何これ! ボク、この三日間探し回ったけど、こんな酒なかったで?」
「ねえ、おじいちゃん。このお酒はどこで買ったの?」
「この酒はもうどこにも売ってない代物だ」
どうりで玉藻が知らないわけだ。しかし、どこにも売っていないとは。玉藻と目を合わせ、二人揃って肩を落とす。この酒ならばと思ったのだが、別のものを考えなければならない。
いろはも気になったのか、玉藻から徳利を受け取りそのにおいを嗅ぐ。いい香りだろうと何故か得意げに千早はその様子を見ていたが、いろはは目を少し見開いたかと思うと、首を傾げている。玉藻のように徳利に鼻を寄せては離し、再び寄せる。そのにおいを確かめるかのように。
少しして、いろはは徳利を机の上に置くと祖父を見た。
「私はこの香りを知っている。翁、その酒はどこで手に入れた?」
「これは、ワシと息子が造ったものですよ。
「息子って……わたしの、お父さん!?」
驚く千早に、祖父は目を伏せた。
「朝日奈家は代々酒を造っていてな。千早が生まれる前に息子に代を譲ったんだ」
「それで、おじいちゃんとお父さんで一緒に造ってたんだ……」
「そうだ。去年、腰を悪くしてからは造っていないがな」
懐かしいな、と呟くと、祖父はぽつりぽつりと話し始めた。
「息子は……あいつは、ワシから譲り受けたあと、スサノオ様に関する書物を集め始めた。醸造の行程を見直し、当時の行程により近いものにするためだ」
「どうして、そこでご先祖様が出てくるの?」
「八塩折之酒は、スサノオ様が八岐大蛇に使われた酒だ」
千早といろはは顔を合わせた。いろはがこの酒の香りを知っていたのは、スサノオが八岐大蛇との戦いで使用したものと似ていたため。まさか、朝日奈家がその酒を継ぎ、蔵元として造っていたとは。
それにしても、当時の行程に近づけるために書物を集めるとは。千早も書物を集め、祠の封印について調べていたことがある。うまくはいかなかったが、何だか親子として通じる部分を感じると、思わず口元が綻んだ。
「見直した結果、八塩折之酒は風味と味が更に深いものになった。だから、あいつが亡くなったあとも、この醸造の行程で造り続けてきた」
この酒はあいつが造ったも同然だ、と祖父は目を細めて微笑んだ。
「月命日にこうして飲んで、一緒に飲んでいる気分になってたんだ」
少し嬉しそうにしていた理由を知り、千早はぐっと奥歯を噛み締める。
祠の封印のことばかりに気を取られ、両親の話はあまり聞いてはこなかった。祖父母についてもそうだ。もっと、他のことにも目を向けるべきだった。耳を傾けるべきだった。飲み交わすことはできなくとも、その想いに寄り添えたかもしれない。
祖父は空になったお猪口に酒を注いだ。とん、と徳利を机の上に置くと、お猪口を手に持ち、愛おしそうな目をして注いだ酒を見ている。
父がスサノオに関する書物を集め、醸造の行程を見直し、祖父が造った酒。いろはが知っていると言ったのだから、きっと当時の酒に近いものなのだろう。
継いできた者として、嬉しいことこの上ないはずだ。造っていない千早ですら嬉しいと感じたのだから。
それと同時に、八岐大蛇との決戦にはこの酒、八塩折之酒しかないと確信した。千早は机の上に両手をつき、身を乗り出すようにして祖父に話しかけた。
「おじいちゃん、そのお酒がほしいって言ったら、怒る?」
酒も飲めない千早が欲しがるのか不思議がる祖父に、八岐大蛇との決戦に使いたい旨を話した。
月命日にだけ大切に飲んできた、大事な酒だと言うことは重々承知している。けれど、スサノオが使ったとされるこの酒しか考えられない。それも、祖父と父が造った酒なら尚更だ。
あの日、スサノオが果たせなかったことを、子孫の千早が仕切り直すためにも。
千早の気持ちが通じたのか、驚いてはいたものの「この酒が役に立つのなら」と祖父は頷いてくれた。
「一緒に、戦わせてくれ」
「……っ、もちろん!」
なんと心強いことか。千早は祖父に何度も「ありがとう」と礼を言った。
酒は一合瓶に詰められているようで、スサノオのときとは違い、相手に投げつける形になりそうだ。同じ手法は通じないと思っていたため、寧ろありがたい。
ただ、本数には限りがある。何より、八岐大蛇や伊吹に酒の存在を悟られないようにしなければならない。
となると、投げるタイミングなどすべて玉藻に託すことになる。
玉藻を見ると、彼は神妙な顔つきで視線を下げていた。それもそうだ、千早達の戦いをどこかでひっそりと見ながら、タイミングを見計らって投げつけなければならない。かなりの大仕事だ。玉藻に掛かっていると言っても過言ではない。
「玉藻さん」
「……大丈夫、千早チャン。ボク、頑張るよ。伊織のこともあるし」
それに、と玉藻は何か言いかけたが、なんでもないと首を横に振った。
「それで、いつ行くん? 覚悟は今日中に決めとくつもりやで」
「酒はすぐ用意できるぞ」
「千早はいつがいい?」
いろはに問われ、千早は一度顔を俯けた。
性格上、その日を後ろにすればするほど、毎日考えてしまい苦しくなるのが目に見えている。逃げたいと言う気持ちが強くなってしまうかもしれない。また、伊織のこともある。できるだけ早く何とかしてやりたい。
何より、いろはと約束したのだ。全力で戦うと。となれば──。
「……明日、行きましょう」
酒も見つかり、士気が高まっている今、明日しかない。
玉藻と同じく、覚悟は今日中に決める。そこには、いろはのことも含めて。
決戦は明日。長きに渡る因縁に、決着をつける。
* * *
「……明日、行きましょう」
そう千早に言われ、いろはは思わず「本当に明日でいいのか」と声に出そうになった。
すぐさま奥歯を噛み締め何とか言わずには済んだが、このようなことを言おうとしていた自分に戸惑いを隠せない。
いつにするかと千早に問いかけたのは、任せたのは、いろは自身。にもかかわらず、明日と言われ感情がざわついた。
覚悟はとうに決めていたはず。迷う千早を諭し、前も向いてもらった。
そんな千早が決戦の日を明日と決めたのは、日を後ろにすると心が揺れ動くことがわかっていたからだ。
彼女はやはり強い。心を奮い立たせ、迷う自分としっかり向き合い、その答えを出した。だからこそ、いろはは千早の決断を尊重しなければならない。
それが、千早を諭し、前を向かせた者の責任。
では、感情がざわついた理由は何か。千早の決断を鈍らせるようなことを言おうとしたのは──。
──その答えを、明日までに見つけるのが私のやるべきことだな。
おそらく、それがいろはの心残り。
千早が玉藻や祖父と話している様子を見ながら、いろははそう思った。
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