第94話 雨
床にぼんやりと反射する蛍光灯の光を見つめる。いくらでも、気を紛らわす手段はあるはずだったけれど、何もする気が起きなかった。
先程、駅前の広場で。糸が切れたように座り込んだ先輩は、絶えず声を掛け続ける進藤くんにも、顔を見せた私にも、なんの反応も示さず、そのまま警察に保護された。
先輩には進藤くんがついていたので、私は九十九くんのそばに寄って、先輩が自分の首に突き立てようとした包丁を代わりに受け、どくどくと血を流す彼の左手をハンカチで包み、強く押さえ続けた。
今は、共に救急車で搬送され、市内の総合病院にいる。先輩にも付いていきたかったけれど、九十九くんを一人にするわけにもいかなかった。
九十九くんは今、縫合手術を受けている。私はそれが終わるのを、廊下でただ待つことしか出来ずにいた。
どうして、大丈夫だなんて言ってしまったのか。何も大丈夫じゃなかった。元旦に会った時だって、死ぬにも生きるにも一歩足りないと、そう言っていたのに。悪い方の一歩が出てしまうことはないと、どうして思い込んでいたのだろうか。
あの場で、私はどうして、先輩ではなく、九十九くんの名前を呼んだのか。
それが、良い方への一歩を踏み出してもらうために、先輩の背中を押しきれずにいる要因の一つじゃないのか。
先輩と、話がしたい。
九十九くんの、声が聞きたい。
どちらにも傷ついて欲しくない。どちらの側にも寄り添いたい。
どうして、私の身体は一つしかないのだろう。どうして私の手は、沢山のものを取り零してしまうのだろう。
ポケットの中でスマホが振動する。慌てて取り出すと、進藤くんから電話だった。
迷わずに出た。出てから、ここではまずいと移動する。
「人見さん? 今大丈夫?」
「うん」
外に出ようとしたら、いつの間にか外は雨が降っていた。雨が地面を打ち付ける音がノイズになって、電話先の声が聞きづらくなる。
外には出られないが、もう入口まで戻ってきてしまったので、一度中に引っ込み、ロビーの脇の方、空いたスペースに行く方なく佇む。
「ハジメは大丈夫そう?」
「ケガは、今縫ってるとこ」
心の方は、分からない。
「冬紗先輩は?」
進藤くんは、冬紗先輩に付き添って行った。その進藤くんから電話が来たということは、何かしら進展はあったはずだ。
「……よかったって、言われたんだって」
進藤くんは、多分、私が気にしすぎないよう、声色に気をつけながら、ゆっくり話してくれた。
「お母さんに合格したことを伝えたら、よかったって。今年、あの子の葬式もしたら、前を向いて自分の道を進んでねって。そう言われたんだって。僕もね、言っちゃったんだ。合格したって聞いて、よかったって」
それが先輩にとって、どんな人からのどんな言葉で、だから先輩はどう思ったのかを、進藤くんは語らなかった。事実だけを伝えてくれた。
「大丈夫?」
「大丈夫だよ」
どう声をかけたらいいか分からなくて、震えてしまった私の声とは裏腹に、進藤くんの声は、悲しみを纏っていても、力強かった。
「そりゃ、少なからずショックだし。自分の不用意な発言なんかは、思い出すだに腹立たしいけどね。でも、決めたんだ」
私は、その力強さが羨ましかった。私にもそれがあれば、九十九くんにも、先輩にも。そう思わずには、いられなかった。
「僕はね、冬紗先輩と同じ未来を行くよ。先輩が選んだ未来じゃなくて、望んだ未来になるように。僕の人生全部捧げてでも、一緒に歩いて捻じ曲げてやる。先輩にも、ちゃんとそう伝える。これから先何度でも。もう、こんな事しなくて済むように。それでも振られてしまったら、その時はまあ、その時だね」
進藤くんの言葉は、具体的なイメージも手段も伴わない私の曖昧な決意と違って、もっとはっきりとした覚悟だった。
先輩と、添い遂げる覚悟。
「だけどね、人見さん。僕の人生は一つきりだから。誰も彼もに捧げてあげられるわけじゃないんだ」
進藤くんは、その一つきりを費やす先を決めた。なら、私は。私はどこに。そう迷う私に、彼は言った。
「僕の親友は、君に託したよ。妹弟子」
通話を切って走り出す。先輩のこと。私では力不足だったんだから、あとは進藤くんに任せてそれでおしまい、なんて、するつもりはない。
勝負もまだ決着がついてない。約束が残っている。また先輩と会って、遊んで、写真を撮って。約束は果たす。
だけど、私はそこまでは、きっとしてあげられない。先輩のためだけに、人生の全てを懸けて、世界を飛び回ることは出来ない。
私に踏み込めないところを、彼が踏み込んでくれると言った。彼が踏み込めない部分を、彼は私に託してくれた。
私は九十九くんに、そこまで出来るだろうか。わからない。わからないけど。
君の隣に並んで、君の足りないものを私が埋める。それは突き詰めれば、そういうことになるんじゃないのか。
少なくとも、私は思い知った。私が連れ出さず、彼が広場に向かっていなければどうなっていただろうか。私が文化祭の時に呼び出さず、君が一人で責任と向き合っていたら、どうなっていただろうか。
私が関わったところだけじゃない。文化祭のときも、体育祭の時も、いつだって。
君が一人でいることを思うと、胸が苦しくなるんだ。一人で何でもかんでも背負い込んで、潰れそうになっていることを思うと、悲しくて仕方がなくなるんだ。
元の場所に戻ると、看護師さんに声をかけられた。手術が終わって、九十九くんは私を呼びに行ったらしい。入れ違った。踵を返してまた走り出す。
九十九くん。私は、君を一人になんてしたくないよ。
−−−
病院の中庭で、九十九くんを見つけた。雨に濡れることを意に介さず、呆然と佇む君の隣に並ぶ。
「九十九くん」
返事はない。視線も投げかけてこない。返事を考えているような素振りも見せない。ただ、虚空を見つめて立ち尽くしている。
九十九くんの心には箱があった。だけど、なんだか曇っていて中を覗くことは出来なかった。私と作ったあの結晶がまだそこにあるのかも、分からない。
箱が、濡れているのは。降っている雨のせいでそう見えるのか。それともその水も、君の心の一部なのか。それすら分からない。
左手を怪我してしまっているので、代わりに君の右手を握る。こんな些細なことで違和感を覚えるまで、君がいつも、私にとって楽な場所に居てくれたことも、私は実感できてなかったんだね。
君の手は、いつかの面影がまるで感じられなかった。冷たくて、弱々しくて。私の手を、少しも握り返してはくれない。
人が生きて、人と関われば、相手に必ず何かしらの影響を与える。心を交わせば、相手の中に、自分の心の欠片が出来て。自分の中に、相手の心の欠片が出来る。
自分の心の欠片は、紛れもなく自分の一部なのに、自分では知ることが出来ない。受け取った側が伝えてくれない限り。
だから、一生懸命伝える。大切な相手の一部が、本人も知らないまま自分の中だけにあり続けるなんて、悲しいと思うから。素敵なものであればあるほど、本人にも知ってほしいから。
それだけのつもりでいた。受け取った欠片に自分の偏見や思い込みが混ざっているということは、先輩の言葉で気がついた。
どこまでが相手のものでどこからが混ざり込んだ自分か、ラインを引こうともしないのが問題だと、先輩は言った。
だから先輩は、避けようとした。私や進藤くんが、偏見を混ぜ込んで作り上げた綺麗なだけの先輩を、本当の先輩みたいに言って投げかけるのを。
だから、間に合わなくなるところだった。私が受け取った先輩の欠片は、ちゃんと先輩に返す事ができなくて、今も私の手の中にある。
私はもう、そんなのは嫌だよ。九十九くん。
君の、綺麗なところだけを見ていたくなんてないよ。君を、自分の都合の良いように捻じ曲げたりなんか、したくないよ。
痛いって、言ってよ。辛いって、苦しいって。助けてって、言ってよ。そういうところも、ちゃんと見せてよ。私は、君の全部と向き合いたいよ。
嬉しいとか、安心するとか、幸せとか。それだけじゃなくて、痛みも苦しみも分け合いたいよ。一緒に抱えて、前に進んでいきたいよ。
お願い、九十九くん。
君が私の手を握り返してくれなくても、私はこの手を決して離さないから。ずっと、君のそばにいるから。君を一人にはしないから。
だから、どうか。
お願いだから。
もう、一人きりで泣かないで。
どれだけ強く手を握っても。流れる雨は、彼の手に伝わる私の熱まで、攫っていくようだった。
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