第92話 意地悪な兄弟子
二月十四日。バレンタインデー。
私はまず初めに、朝起きて、冷蔵庫を開けて、取り出したチョコレートを、朝食を食べている父に渡した。
例の如く寝ぼけた私の滑舌はまだ働いていないので特になんの声をかけたでもないけれど、それでも喜んでくれるのだから、愛されているのだと思う。
チョコレートは会社で昼休みにでも食べてくれたらいい。これまでの溶かして形を変えただけのものと違って、今回はちゃんと作ったのだ。もしかしたら、部下とかにも自慢されるかもしれない。
一仕事終えた私は、のんびり朝食を食べる。その間に、朝食を食べ終えた父は仕事に出て、見送る母は玄関で父に自分のチョコレートを渡すのだ。
それが、二人にとって特別な時間であることは分かっている。邪魔をしないよう、何も知らない顔でトーストを齧っているのが娘としての気遣いというものであろう。
単純に、親のそういう場面に踏み込みたくないという気持ちも、もちろんあるけれど。
父が出て、少し間をおいてから私も自室に戻り、準備を終えて家を出る。出る前に、今日は念入りに確認をする。
教科書などは最悪忘れてしまってもそこまで問題ではない。隣の席の人に見せてもらえる。が、今日ばかりは、どうしても忘れてはならないものがある。
鞄の中に、しっかりと二つ、父に渡したものと同じ包装がされた小箱が入っていることを確認してから、私は家を出る。
「行ってきます」
「一透! 午後から雨降るっていうから、傘持っていきなさい」
母の言葉で引き返す。出る前に言ってくれないものか。傘を持って、あらためて家を出る。
重く厚い灰色の雲に覆われた空。バレンタインはまだいいとしても、冬紗先輩の予定を思うと、何だか私の気分まで重くなりそうだった。
−−−
二つの小箱の内、一つは昼休みになってすぐに廊下で渡すことに成功した。ターゲットは休み時間になるとすぐにどこかに移動するので、追いかけて渡す。
「進藤くん、これ」
「あれ、僕に? ハジメより先に?」
どちらが先でも構わないだろうに、どうしてわざわざ指摘するのだろうか。最近ちょっとデリケートな問題になりつつあるので、そっとしておいてくれるとありがたいのだけれど。
「九十九くんには、あとで渡すから」
「ふぅん?」
何やら訳知り顔をされる。私自身よく分かっていないのに何が分かるというのか。分かるなら教えてほしいものだ。
「ハジメにはどんなの渡すの?」
「同じのだよ?」
「えぇ……ちょっとくらい、差をつけてあげてもいいんじゃない?」
そういうわけにもいかない。九十九くんだけが私にとって特別な訳じゃない。
「差別するわけには、いかないよ」
そう言うと、進藤くんは、はたと気づくような顔をして、次第に心に懐かしむような色が満ちる。
「忘れたの? 人見さん」
何がだろうか。彼の目は私を捉えているけれど、どこか遠くを見つめているように感じる。それがどこだか、私には――
「相手によって態度が変わるのは、積み重ねたものが違うからだよ」
焦点が、合った。進藤くんが見ているのと同じ場所に。私はそれを、九十九くんの口から聞いたことがある。
「君とハジメが積み重ねたものは、僕との間にもあるものばかりじゃないんだから。それを大切にすることを、差別だなんて言わないよ」
あの時、進藤くんも、こんな気持ちだったのだろうか。あの時、体育祭の日の、昼休み。九十九くんを私に押しやって何処かへと去る君の心に見えたものを思い出す。
「今更になって、ハジメの気持ちがよく分かるよ」
「……うん。そうだね」
影響が計り知れないのが怖いって、君は言っていたけど。『今日の禅問答のコーナー』で九十九くんが言った言葉が、君の中にもこうして生きている。進藤くんの言葉自体もだけど、それが感じられるのが何より嬉しい。
「だけど、進藤くん。私にとっては君も特別だよ。だって君は私の兄弟子で、ライバルだから」
少し驚いた顔をして、それからはははと笑う君の脳裏には、きっと私が思っているのと、同じ人の姿がある。
「兄弟子はともかく、ライバルはちょっと自信過剰じゃない?」
「そんな事言うならそれ返して」
写真のことになるとややプライドが高くなり意地悪を言うようになる彼は、私に取り返されないよう、チョコレートを高く掲げて逃げていった。
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